ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(ちくま学芸文庫)第2部

第一論文 キンゼイ報告、悪党と労働

 (キンゼイ報告のように、人間を「物(観察対象)」と見て客観的・科学的に分析しても、それでも限界において人間の内面性に触れざるを得ないことに対して)

「人間は、何よりもまず一個の動物なのである」(p252)

「動物はそれ自体では物ではない。人間が動物を物のように扱っているのだ」(p266)

「《動物性》、あるいは性の横溢は、私たちの内部において、私達が物に還元されえないようにしているものである。

 《人間性》は逆に、労働の時間におけるその特有な面からすると、性の横溢を犠牲にして、私たちを物にしてしまう傾向を持つ」(p268)

「私たちが人間的な世界と呼んでいるものは、必然的に労働の世界、つまり物への還元の世界なのである」(p272)

 →人間は動物であり、そして動物は「物」ではない神秘性、内面性を持ったものである。純粋な「物」を作り出し、元来「物」ではなかった存在を「物」、すなわち純粋な「対象(オブジェ)」「内面性を持たない、あるいは排除されたもの」とするのは、人間社会を社会足らしめている「労働」とその論理とシステム に他ならない。

 

「一個の物であるということは、物となっている対象を所有している人間との関係においてのみ意味があるということだ。(略)一人の人間は物になりうるが、 しかしそれら物体、動物、人間は、一人の人間のものとなるのである。とりわけ人間は、第三者の物となる条件でのみ一個の物になりうる。そしてこの第三者も また同様の条件で物になってゆく」(p270)

「支配階級は、一般に、自分自身の階級において、人間性を物への還元から解放する役目を持つ」(p271)

 →労働、すなわち人間を人間社会に適合させるために人間を物化するものと性生活は負の比例関係(労働が増せば逆に性生活は縮小する)にあるが、支配階級に至って人間性は彼ら自身のみを物への還元から自分を解放するという特権を持ち得る。

 

「性の過剰の無視は、人間を、事物への意識からではないとしても、少なくとも自己への意識から遠ざけることになってしまった。この無視は、人間を、世界へ の認識と自己への無知に同時にかりたてたのである。だが、まず労働しながら意識を持つようにならなかったならば、人間はいっさいの認識を持つことがなかっ ただろう」(p273)

 →労働によって人間は人間的な意識と自己への認識に目覚めた。しかし同時に労働は人間を性の過剰を無視することへとかりたてた。

 

「明晰な意識とは何よりも物への意識のことなのであり、物の外面的な明瞭さを持たないものはまずもって明晰ではないのである」「深さにおいて物の粗雑さに 還元しえないものが、明瞭に識別されるようになるためには、まず物としてとらえねばならないのだ。こうした経路をへて、内的な生の諸真実は識別的な意識のなかへ入ってくるのである。(略)私たちの内的体験の諸真実が私たちには捉えがたいということを一般に認めねばならない」(p274)

 →人間を物としてあつかう明晰な意識を経てはじめて内的な諸真実が現れてくる。しかし・・・

 

「科学は、性生活を罪なきものとみなすことで、性生活の認識を決定的に停止してしまうのだ。科学は意識を明晰にするのだが、しかしこれは意識を盲目とするという代償を払ってのことである」(p275)

 →科学の客観性は性、エロティシズムを無化する。だが、やっぱり・・・

 

「内面性は(私たちの内部の深くにあるもの)に達するためには、私たちはおそらく内面性が物とみなされる物の迂回路を通ってゆくことができるであろうし、 またそうする必要さえある」「明晰判明な意識は、少なくとも、自分が断罪するものを遠ざけるその動きを識別する力は持っている」「意識はしたがって性生活を前にした恐怖と嫌悪の動きを保持しているのであり、また不可避的にそうせざるをえない」「この明晰性は、実生活上の諸目的のために、真実の一部を捨て去らねばならないのであって、その限りいいつも最終的に自分の限界を認めることになる」(pp275-276)

 →明晰な意識を保つためには対象を物化しなければならない。しかしそれは最終的には物ではないなにかという限界にたどり着く。

 

「私たちは、自分が引き裂かれていく無秩序のなかで、少なくともこの無秩序を識別することはできるし、そのようにして、物を超えて、引き裂かれていることの内的な真実に意を注ぐことはできる」(p276)

 →意識を保ちつつ物を超えた「内的な真実」に意を注ぐしかない、だがそれは・・・

「物の真実に較べて困難な真実なのだ。だがその真実こそが沈黙した覚醒へ私たちを向かわせるのである」(p277)