ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(ちくま学芸文庫)第2部

第五論文 神秘主義と肉欲

「恐怖こそがまさに《性的なもの》を根底から作り上げているのではないだろうか。そして《神秘家》と《性的なもの》の関係は、双方の領域に等しく属しているあの深淵のような特徴に、あの不安をそそる暗闇に基づいているのではないだろうか」(p377)

「神的な生に到達するためには、死を通ってゆかねばならない」」(p389)

「神的な生は、与えられた生の維持をただ単に保証するだけのあれらの本質的な戒律に限定されているのではない」「あれらの戒律を守っているだけでは、神的な生を築くことはできないのだ」(p389)

「神的な生のために死によって自己と決別するように人間をかりたてる神聖な情念」「道徳は生の維持とは関係しえなくなる。道徳は生の開花を求めるようになる」(p391)

「死によって自分と決別したいという欲望のなかでこそ、神的な生への希求は表明される。(略)修道士が欲した死が、彼にとっては、神的な生となってゆくのである」(p392)

「性の誘惑によって彼に示される不吉さ、すなわち死は、同時にまた、あの神的な生すなわち、死による自己決別のなかで彼が追い求めていた神的な生の視点から眺められた死でもある」(p393)

 →死(不安)によって自己の生の維持を捨てさり、生から決別したところに神的な生が現れる?

 

「過剰な喪失である生が、同時にまた、いかにそれとは反対の生の増大を求める運動に導かれていくかを示唆するだけに留めておく。とはいえ、最終的に勝るのは喪失の方である。生殖はただ空しく増大させているだけなのだ。つまり生殖による生の増大は、生を死に供するためだけにあるのである。生は盲目的に自己を拡大しようとするが、増大するのは唯一死による荒廃だけなのだ。(略)生は、拡大への欲求にもかかわらず、浪費を強力に推し進めているということなのであ る」(p395)

 →第1部の「連続性=死」と「不連続=生」の議論を参照のこと。

 

「性の行為が動物に死をもたらすという極端なケース」「においては、個体の運動は種のためにしか意味を持たない成果をはるかに凌駕している。この成果だけが、世代から世代へと続く運動の繰り返しを保証しているのだが、しかしそれでも未来への無関心、瞬間への輝かしい同意、ある意味では太陽的な同意は、無化されえない。ただし、私たちが、瞬間を次の瞬間に従属させるものを、瞬間のなかで簡単に捉えるだけに留めておくのならば、この瞬間への同意は無化される」 (pp395-396)

 →種のための成果、つまり種の存続の運動の繰り返しよりも、死と同一の性の「瞬間」にこそエロティシズムの真実は存在する。だが、その瞬間を未来へ従属させる(労働的なものと見なす)とき、その瞬間は意味を失う。

 

「瞬間のなかで生きるということは、自分自身と死別する、少なくとも死と同一の平面で生きるということなのである」「現在時を未来時に隷属させることに身をゆだねている限り、どの人間もうぬぼれて高慢で凡庸な存在になっている」(p397)

「”在るもの”の無限の広大さ、理解しがたい広大さ(略)は、凡庸で高慢な人間を恐怖させる。というのも、そこではいかなる場所もこのような限定された人 間には残されていないからだ」「無限の広大さはそれに魅惑される者には死を意味している」「通常は不安と呼ばれる死刑囚の精神状態に釘付けにする」 (p398)

 →世界の無限の広大さはそれを前にしたものに死の不安を与える。そこで死と表裏一体となった現在の瞬間を生きることこそが神的な生である。(cf.ハイデガー「存在と時間」)

 

「エロティシズムが絶頂に至って、エロティシズムに開かれた可能性を汲み尽くすのは、もっぱらエロティシズムが、肉体の死そのものを想起させるような何らかの恐ろしい堕落をもたらす限りのことなのだ」(p400)

 →エロティシズムの完成は肉体的な死と同時である。

 

「誘惑のなかには、性的次元の魅力の対象しか存在しないのだ。誘惑された修道士を引き止める神秘的な要素は、もはやそれ自体においては《現実的な力》を持ってない。神秘的な要素が作用するのは、自分を堅持する修道士が、誘惑のもたらす錯乱よりも、神秘的な生において得られる精神の均衡を保護することの方を重視する限りでのことなのである。修道士における誘惑の特性は、神的なものが、神秘的な形態のもとで、もはや感覚に訴えかけるのをやめてしまった(神的なものは知性によって把握できるものでしかなくなった)ということにある。このとき、感覚に訴える神的なものは、性欲の次元、そう言ってよければ悪魔的な次元に属するようになっている。そしてこの神的な悪魔的なもの、この悪魔的な神的なものが提示するのは、ほかならぬ高次の神秘体験で見出される神が提示するものなのだ」「[修道士は]高潔であるはずの自我を守るために第一の自我の利己主義を放棄する」「だが、誘惑の頂点において神は、精神のなかではもはや感覚に訴える形態を持たない」「現れるのは、まったく逆に、第二の自我の利益なのであり、知性で把握できるこの自我の価値なのである」「勝っているのは利 益のための計算であって、燃えるような欲望ではないのである」(pp402-403)

 →修道士を襲う誘惑は、神に由来するものであっても感覚的である限り神的かつ悪魔的なものとして現れ、それを自我によって振り払ったとき、修道士に残るのは純粋な知性のみであり、そしてその知性は利益のための計算という非神的、非神秘的なものにのみ限定されたものである。しかし・・・

 

「その対象は、修道士によって否定されている分、欲望をかきたてると同時に醜いものになっている」「修道士は恍惚状態のなかに置かれるのだが、しかしこの恍惚状態は同時に恐怖に震えでもある。死の後光がこの対象を取り巻いているために、この対象の美しさは醜いものになっているのだ」「この快楽においては、 たしかに対象の美しさ、その性的な魅力は消えてしまっている」「この対象は一個の対象というよりはむしろ、魂の状態に結びついた状況になっているのであ り、問題になっているのが恐怖なのか魅力なのか明瞭に言いがたくなっている。つまり死の気配が魅惑し、逆に性欲の対象が人を恐怖させ意識の領野の外へ導い てゆく」「この快楽の飛翔は、魂を救済したいという欲望と、抱擁の死の悦楽のなかに埋没したいという欲望を和解させる手段なのである」(pp404- 405)

 →自己の生からの決別=死と、魂の救済が同じものとなった、美醜の判断を超越したエロティシズム的瞬間が修道士の前に現れる。

 

「性愛は、私たちの内部で死のように存在する。それは、すぐに悲劇へ滑ってゆき死においてのみ止まる急速な喪失の運動なのだ」「死と、陶酔をもたらす《小さな死》もしくは転覆とのあいだの距離は感じられないほどなのだ」(p407)

「この転覆への欲望は、生きることをやめながら生きたいと欲する欲望であり、生きることをやめずに死にたいと欲する欲望であり」「死なずに死ぬということは、死ではなく、生の極限的な状態なのである」(p408)

 →性愛は生きながら死を欲し、生きたいと欲しながら同時に死ぬことを欲することである。

 

「彼ら[猥褻な悪党]の生は、全体的な自堕落の可能性を利用しているだけなのだ」「転落を味も面白みもない恒常的な状態に変えてしまっているのである」 「しかし逆にこの猥褻さは、清浄な生活を送り続けている人々には、目まいのするような落下の可能性を提供する」「肉欲は、原則として、愚弄とごまかしの領域である。足場を踏みはずしたい、しかし倒れることなしに、というのが肉欲の本質なのだ」(pp415-416)

 →しかし、肉欲と神秘体験との間には何があるのか・・・?

 

「神人融合状態は(略)生の維持に対する執着のなさ、生と保証する傾向にあるものいっさいへの無関心、そしてそのような態度のなかで味わわれる不安 (略)、要するに生の直接的な運動に開かれているということである。ふだんは抑圧されていた生が突如解放されて、無限であることへの溢れるような喜びへ入ってゆく、そのような生の運動に開かれているということである。このような神秘家の体験が肉欲の体験とのあいだに示す唯一の相違は、神秘家が、肉体の現実の自発的な動きを意識の内面の領域へすべて還元してしまって、実際にこの肉体の動きを介入させないということなのである」(pp49-420)

 →神秘主義は肉体なきエロティシズムの発露である?

 

「神秘主義は、結局ある特定の存在への愛を乗り越えようとしているが、しかししばしばこの愛のなかに乗り越えの方途を見出してきたのだった。神秘主義の禁欲家にとって、この愛は新たな次元へ向かうための手段であり可能性であるのだ」(p420)

「性欲の体系と神秘主義の体系は根本的に異ならないということなのである」「エロティックなイメージが惹き起こすのと同じ反応を至高の神秘的な運動が思わず惹き起こすということもつねにありうるのである。これは、逆もまた真なり」(p421)

→性欲におけるエロティシズムと神秘主義のエロティシズムは同一のものなのか・・・?

 

「神秘家の体験は、その本質たる死への運動のおかげで、極限的な段階、つまり最高度の緊張の瞬間に向かって動きだしているという事実だ」「エロティックな 体験は、少なくとも一見したところでは、外的な事態に従属している。神秘体験はそのようなものを免れている」(pp422-423)

→エロティックな体験は外的であり、神秘体験はあくまで内的なものである。

 

「神人融合状態を際立たせているものは、何が起ころうとその起こる事柄にまったく無抵抗でいるという態度である」「主体は距離を置くことができなくなり、 宇宙と自分自身の区別もつかない無際限の存在のなかに埋没してゆく」「決定的に主体は瞬間のなかにいる。瞬間は瞬間自身だけで永遠性になるのである」 (pp423-424)

 →完璧な自己の滅却。完璧な瞬間の勝利。連続性との一体化。

 

「私は、何らかの瞬間に、幸運に身をゆだねなければならない」(p426)

「瞬間の単純性は、愛のような直接的な魅惑によって不安に開かれている人にこそ属しているからだ」(p427)

 →未来へ現在の瞬間を投資するのではなく、開かれた瞬間の今、ここに全てを賭けろ!