フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)

第3章「リアリズムと欲望」

〈1〉バルザック『老嬢』とユートピア衝動、主人公なき物語、歴史的事実と象徴としての物語

「バルザック的物語装置の特徴ともいえる構成要素とは、作者の全知の視点とか、作者の介入などよりもはるかに根本的なもの、つまり、リビドー的備給とも、 作者の願望充足とも命名できるものであって、それは、象徴的満悦感をもたらす形式であり、その形式のなかでは、伝記の対象となるような主体と、〈想定された作者〉と、読者と、登場人物とのあいだに設けられる区分は実質的に解消してしまう」p271

→バルザックにおいては物語の主体的中心が未だ形成されていない。

 

「プロップ型の物語の欲望の対象の中身は(略)どれも、取り換えがきく」p273

「ところがバルザックでは、歴史的理由はなんであれ、読者から同意を引き出したうえで、その対象を望ましきものとして保証し、裏付けをあたえないと、物語のプロセスは、有効に機能できない。(略)対象の「望ましさ」の物語機能は、伝統的な物語構造ではかなり自動的に決まる(略)、[しかし]ここでは物語装 置の機能を左右するまでになっている」pp273-274

→プロップの構造はもはやバルザックには当てはまらない。「望ましい」対象が物語装置の機能を左右する。

 

「バルザックの描写にあるのは、このような、私たちにとっては身近な欲望とは異質のものであって、それと単純に「同一視」はできない。(略)この特殊な欲望を、なんらかの個人主体に帰することはできないのだ。(略)ここでは欲望は、私たちの前に、奇妙な匿名状態となってあらわれる。この匿名状態が、有無をいわせぬかたちで私たちを巻きこんでゆく」p274

→バルザックにおいては欲望は作者、登場人物、読者といった個人主体に帰するものではなく、匿名のナニモノカの欲望として周囲を巻きこんでゆく。

 

[バルザックの描写における欲望では]「欲望を私的なものに押し込めてしまう自我の観念は、まだ姿をみせていない、たとえ、早晩それは主体をモナド化して 孤立させ、モナド化した主体の個人的で純粋に主観的な経験のみを肯定することになるとしても(略)このような欲望の喚起は、〈ユートピア的〉衝動を、再演 しているといっていいかもしれない」p275

→バルザックの欲望は個人的ではなく社会的(ユートピア的)である。

 

「バルザック描くところの邸宅には、所有への憧れと、大邸宅をめぐるじわじわと心が熱くなるようなファンタジーを招きよせるところがあり、それが〈ユートピア〉的願望充足の堅固な指標となりおおせている」p275

「コルモン嬢の町屋敷(略)は、その堅固なイメージが回想というかたちで生々しく喚起され、過去のブルジョワの商業活動と、貴族的伝統という対になる「意味素」を結びつけるはたらきをするので、この小説が中心に据えることになる社会的・イデオロギー的矛盾を、前もって解消してしまうのである」pp276- 277

→社会的・イデオロギー的矛盾はユートピア的ファンタジーによって(象徴的に?)解消されてしまう。

 

「なぜこの特殊な欲望の〈ユートピア〉的次元に、あえてこだわるのかといえば(略)この得意な喜劇的物語がアレゴリカルな構造そのものであり、笑劇の性的な「文字」も、ただ文字どおりに読まれるだけでなく、平穏な生活をおくれる家屋敷への憧れや個人的願望を満たしたい渇望を示す比喩と して、また社会的・歴史的矛盾の解決を示す比喩としても読まれなければならない」p278

→リアリズムはアレゴリーである。

 

[笑劇と〈ユートピア〉の]「二つのレベルのこの緊張関係というか不一致は、時代がくだって物象化が高度に進むと、〈ユートピア〉的衝動の表現から姿を消してしまうのである」p279

「この[物質欲の]安っぽさを、ドライサーの言語は曖昧なかたちで再現し、反映しているのである」p280

「商品化が後期資本主義の対象世界にこれほど大きな打撃をあたえられたのは、明らかに、主体の構築において生じていた決定的な変化のせいでもある。主体は閉じられたモナドに構成しなおされ、以後「心理学」の法則にしたがうことになる」p280

「この[ドライサーの小説の登場人物キャリーの]「視点」なるものは、テクスト的制度あるいは決定素とみてよく、物象化の時代の中心に位置する新しい主体を表出し再生産するはたらきがある」p281

「〈ユートピア〉的衝動も、いまや物象化され、個人というモナドの内部に駆逐されてゆく。〈ユートピア〉的衝動には、心理的経験や私的感情という地位しかあたえられず、その価値はとことん相対化されるのである」pp281-282

→現代において欲望、衝動はモナド的個人の中に押し込められ、それの社会化は予め断念されている。

 

[バルザックの]「物語装置は、中心化された主体の登場を予告してはいるものの、そのような主体にふさわしいテクスト決定素をまだ開発しておらず、したがって、読者に、現代の心理学的意味でいう共感を抱かせるような視点なり登場人物なりは、まだ登場していない」pp282-283

[物語の登場人物のローテーション形式の]「交替運動から、登場人物の意味素が生産されるさまが、いいかえるなら、これから《登場人物システム》と呼ぶものが垣間見えることである」p283

「性的茶番劇の後釜にすわるアレゴリカルな解読法が以後、物語のなかで支配的位置を占め、誰がコルモン嬢と結婚するかという争いも、ただそれだけではすま なくなる。つまりそこに比喩的意味がどうしても生ずるのだ。たとえばそれは、誰がフランスに君臨するかを賭けた権力闘争のみならず、革命以後の国家を誰が正統なかたちで継ぐか、もしくは専有するかをめぐる争いの比喩になる」p288

→歴史的アレゴリーとしての、中心的主体のいない登場人物システム。

 

「たとえ、この小説が、経験的歴史の後戻りできない仮借ない現実を(略)正面から見据えているとしても、そうすることによって、この小説は、仮借なき現実を「管理」し、新たな空間を、つまり、仮借なき現実がもはや修復不可能でもなければ、もはや決定的でもないような、そんな空間を切り開こうとしているの だ」p289

「それ[『老嬢』]は、なによりもまず、教訓的作品である。政治的な教訓を引き出す実例である。そのねらいは、経験的歴史上の出来事を唯一絶対のものとするのではなく、それを、あまたの選択肢から試しに選ばれた一例にすぎないというように考え、この一例を題材にして、さまざまな社会階級の政治的戦略を検証することである」pp289-290

→歴史の検証としてのアレゴリカルなリアリズム小説。

 

「バルザックは王党派であり本質的に有機的な、だが脱中心化された《旧体制》を擁護しているが、旧体制派の軍事行動の破綻ならびに管理統制能力の欠如をも正面から見据えなければならなかった」p293

「しかし、ナポレオン時代そのものも、いうなれば、ジャコバン的価値観と君主制の陥穽とを同居させた雑種的存在であって、先がないことは目にみえていた。 この種の矛盾――純然たる二律背反、解決不可能な論理的パラドックスという観点からしか考えることのできない矛盾――(略)私たちが政治的無意識と呼んでいるものは、にもかかわらず、論理的な順列と組み合わせによって、この耐えがたい袋小路からの脱出路を求め、「解決」を産みだそうとするものだ」 pp293-294

「もし彼[軍人貴族トロワヴィル子爵]がコルモン嬢と結婚していれば、この「解決」はまぎれもない貴族的「正当性」と、ナポレオン・タイプの軍人気質とを 申し分なく結びつける理想的な解決となっていただろう。したがって、この解決は、物語のなかでは、実現しなかったがゆえに、「理想」にすぎぬもの、つま り、経験的に実現不可能であるがゆえに――狭い意味でいう――〈ユートピア〉的解決にすぎぬものに留めおかれるのである」p296

→アレゴリカルな小説の限界――リアリズム小説における経験の優位。

 

「もし貴族階級が、(略)、貴族階級に必要なのは貴族的価値とナポレオン的エネルギーを兼ねそなえた強い男であるという教訓(略)を、肝に命じていれば、 このオルタナティブな世界は夢物語ではなくなるのである。したがって、まさに、土壇場で生ずるこうした意味から、この小説の滑稽だが悲痛な結末(略)は、 決して確定的な結末ではなく、あくまでも、恐るべき教訓なのである」p297

→現実とは異なる「教訓」を導き出す物語としてのリアリズム小説。

 

「『農民』の悲劇的結末は(略)出来事の最終性を、そのあともどりできなさを、その歴史的不可避性を、物語の言語使用域によって空洞化されているのである。物語の言語使用域によって、結末は、仮定法で語られた出来事にすぎぬものというかたちで、私たちに手渡される。物語の言語使用域が、歴史的「事実」の 直説法による提示を、警告物語、教訓話という拘束力のない叙法に変えているのである」p298

→歴史的事実を、教訓話という物語内のものとして留める仮定法という言語的トリック。