ホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)

第1章 啓蒙の概念

1.啓蒙とは、神話とは何か

  「(一)すでに神話が啓蒙である。(二)啓蒙は神話に退化する」(岩波書店版、p.xvi)この二つのテーゼが本書の核心であることは言うまでもないが、 では、「啓蒙」とは何かについて噛み砕いて述べル必要があるだろう。啓蒙の定義についての哲学史的遡及まではレポーターの手に余るがとりあえずここでは 「未知のもの、不可解なものを現実に即して解明して、理解可能なものにすること」とざっくりとした一般的な定義で良いと思われる。そして「神話」とは「未知なもの、不可解なものを現実存在とは別のもの(たとえば超越的なもの、感覚的には捉えられないもの、形而上学的なもの)に起因するものと捉える思考様式」 と言えるだろう。

 そして上記の二つのテーゼはこう言い換えられる。「神話の中に、未知なものを現実的に解明しようとする契機が存在する」「未知なものを現実的に解明する思考が、現実存在とは違った次元のもの(形而上学的存在)を復活させる」

 

2.未知なるものを排除する運動としての啓蒙

 啓蒙が未知なるものを現実的なものとして解明していく運動だと定義するとそこには大した問題があるとは思えないかもしれない。しかし、その「未知なるものを現実的なものとして解明する」という運動の行き着く先が本書では極めて危険なものとされる。

 すなわち、啓蒙において「現実的なもの」とされるのは、現実社会に実在するもの、そして科学的(本書では数学的という単語が多用されている)に捉えられ るものに限るのであり、神話の時代から啓蒙の運動を駆動してきた「普遍概念」「因果関係」といったものは「非現実的なもの」として排除される。つまり「現実的なもの」以外を排除する運動として啓蒙は捉えられる。

 そしてこの啓蒙の終着点として、新たな神話としての「現実社会に実在するもの」「数学的に計量できるもの」が「形而上学的存在」として新たに降臨するのである。

 「非現実的なもの」「未知なるもの」はなにも非実体的存在である必要はない。ただ、現実社会において「啓蒙の社会の外部に存在するもの」をすべて排除する、あるいは「外部などは存在しない」とするのが啓蒙のプロセスであるということである。社会において外部に存在するもの、その最も身近な例は個々の人間の内面であろう。あらゆるものが数学的に交換可能なものとなっていく啓蒙プロセスにおいて人間はただ計量されるだけの事物と化す。

 

3.支配と被支配、主体と客体の転倒

 啓蒙が、その原型としての神話の時代から目標としていた、人間という主体により、自然という客体を支配するという欲求は、しかし、啓蒙の進歩により裏切られ、主体・客体は逆転する。

 啓蒙の進歩により、自然という客体を支配する力は否が応にも巨大化する。しかし、それを操作する人間は、啓蒙の進歩により非主体化され、ただの数学的存在となり、もはや自然を支配する存在はどこにもいなくなる。

 啓蒙の進歩、啓蒙による人間の内なる自然の支配により、あらゆるものは自動(オートマティスム)化され、また人間は全体的視野を失ったただの部品と化 す。そして、誰もが自らの行うことの意味を知らず、あらゆるものは自動的なメカニズムが効率良く動くように操作されることだけが目標とされる。この啓蒙のオートマティスムにおいて人間の幸せは論外となる。なぜならそれは啓蒙の外部に位置するものであるから。

 そしてここにおいて本来客体であったはずの自然は、しかし元来の自然とは別の形をとった自然として、社会に再び現れる。支配されざるものであった元来の自然ではなく、もはや主体ではない人間による支配、それも匿名の万人による支配としての「自然」が人間の前に現れるのである。