イマニュエル・カント「プロレゴメナ」岩波文庫、162頁以降

先験的主要問題

第三章 形而上学一般はどうして可能か

第四〇節

 純粋数学と純粋自然科学の両学の研究は、形而上学のためにある(162頁)。

 形而上学は、どのような可能的経験においても絶対に与えられ得ないような純粋理性概念を論究する部分を含んでいる。形而上学のこの部分こそ、この学の本質的目的を成すものであり、そのほかの一切のものは、この目的を達成するための手段にすぎず、形而上学はそれ自身のためにかかる演繹を必要とする。(162-163頁)

 純粋理性概念は、一切の可能的経験を包括する絶対的全体を目指し、またこの絶対的全体はそれ自身もはや経験ではない。純粋悟性概念はあくまで内在的であり、経験が与えられる限りにおいて経験に終始するが、理性概念は与えられたいかなる経験をも超出して「超越的」となる。純粋理性概念の理念の対象はいかなる経験においても与えられ得ないのである。(164-165頁)

 

第四三節

 三種類の理性概念とそれに対する弁証論(169頁)

・心理学的理念…それ自体完全にしていささかも他をまつことのない主観(実体的なもの)という理念(→177頁)…純粋理性の誤謬推理

・宇宙論的理念…一切の条件を余すところなく保有する完結した系列という理念…純粋理性のアンチノミー

・神学的理念…可能的なものの完全にして余すところのない総括という理念…純粋理性の理想

 

第四四節

 「我々の悟性批判は、悟性の経験的使用を超出しているような意図を実現するために、純粋理性の理念と提携するのである。しかし悟性使用は、経験を超出したところではまったく不可能であり、そこには対象もなければ意義もない」だが「理性の本性に属するものと悟性の本性に属するものとのあいだには一致がなければならないし、また理性の本性は悟性の本性を全たからしめるために寄与せねばならない」(172頁)

「純粋理性は(略)経験の領域を超えてそのそとにあるような対象をもつのではなくて、経験との関連における悟性使用を全たからしめようとするだけである。とは いえ悟性使用のかかる完璧さは、まったく諸原理の完璧さ〔完備〕であって直観と対象のそれではありえない」「理性は、諸原理のかかる完璧さを明確に表象す るために、一つの客観の認識――それも経験の規則にかんがみて余すところなく完全に規定されているような客観の認識としての完璧さを思いみるのである。だ がこのような客観は、一個の理念にすぎない、そしてかかる理念の旨とするところは、悟性認識をこのような理念の表示する完璧さにできるだけ近づけるにある」(173頁)

→悟性的認識を客観的で理念的に完璧なものへと限界まで近づけるものとしての純粋理性

 

第四五節

 悟性は自分に定められた範囲を超出して、悟性の経験的使用の無辺際な拡張を志してしまう。これを抑制できるものは学問的な教示と辛苦のみである(174-175頁)

 

第四六節

「実体的なものそれ自体は、我々の悟性によっては決して考えられ得るものでない」「我々の悟性の特性は、一切のものを論証的に、すなわち概念によって、従って また述語だけによって考えるところにあるが、しかしそれだからまたこれらの述語には、どこまでいっても絶対的主観が欠けざるを得ないのである。してみると実在的特性――すなわちそれによって物体を認識するところの諸特性は、〔主体そのものではなくて、主体の〕付随性でしかないということになる」(176頁)

「我 々は、あたかも我々自身の意識(思惟する主観)においてかかる実体的なものをもつかのように、しかもそれを直接に直観するかのように思いなすのである、そ れというのも内的感官の一切の述語は、主観〔主体〕としての「私」に関係し、またこの「私」はもはや他のいかなる主観の述語としても考えられ得ないからである」「「私」は、確かにそれ自体としては他の物の述語になり得ないにせよしかし絶対的主観という一定の概念ではなくて、ほかのすべての場合におけるように、内的現象とこの現象の主体――換言すれば、我々に知られていない主体に対する関係にほかならない」(177頁)

「「私」は或る現実的存在に対する感情にすぎないのであって、決して概念ではない、つまりすべて思惟がそれと関係しているところのものの表象にすぎないのである」(178頁)

→「私」 はものそれ自体としての主体(述語を伴わない絶対的な主語)ではなく、現象に関係する表象でしかない。だが、「思惟する存在者の本性に関する我々の知識 が、まったく経験の総括のそとへ脱落する限り、我々としては、我々のうちにあるこの思惟する存在者という実体的なものに関するいわゆる認識なるものから、 この存在者の本性を推論する」(177-178頁)

 

第四七節

「常住不変性は、物自体としての実体という概念によって証明せられ得るものではなく、経験にとって必要なこととして証明される」(179頁)

 

第四八節

「もし我々が、実体としての「心」の概念から実体の常住不変性を推論しようとするならば、このことは可能的経験の対象としての心に妥当するのであって、一切の可能的経験を超えて、物自体としての心に妥当し得るものでない」「実体の概念は常住不変性の概念と必然的に結びついていると見なされねばならないというの なら、その限りにおいて可能的経験を成立せしめる原則に従ってのみ、それだからまた可能的経験を成立させるためにのみ、実体の概念であり得るという理由に よるのである」(180-181頁)

→常住不変の実体は、可能的経験を成立させるために仮構されたのであり、可能的経験が成立するから常住不変の実体が存在するのではない。

 

第四九節

「私は、空間における外的経験を介して物体の現実性を意識するのと同様に、内的経験を介して私の心の現実的存在を意識するのである。こうして私は、心を内的感官の対象としてのみ、すなわち内的状態を成すような現象によってのみ認識する、しかしかかる現象の根底に存する存在者自体がどのようなものであるかは、私に知られていないのである」(183頁)

「(外的感官の対象としての)物体が、私の志向のそとにある自然の中で物体として実在するかどうかという問題は、即座に否定されてよい。また私自身は内的感官の 現象(経験的心理学でいう心)として、時間における私の表象力のそとに存在するかどうかという問題についても、事情はこれとまったく異なることがないか ら、これも同様に否定されねばならない」(184頁)

→観念論的哲学。感官によって表象されるものはあくまで感官内の現象でしかない。表象の外、現象の根底にはたどり着けない。

「空間と空間における現象とは、我々のそとに実在している何か或るものであるというのであれば、およそ経験を判定する一切の規準は、我々の知覚のそとでは、我々のそとにあるこれらの対象の現実性を決して証明し得るものでない」(185頁)

→一種の不可知論。知覚は対象の現実性を証明できない。

 

第五一節

 四つのアンチノミー

1.世界は時間的に始まりをもちまた空間的限界をもつ⇔世界は時間的にも空間的にも無限である

2.世界におけるいっさいのものは単純なものから成っている⇔〔世界には〕単純なものは一つも存在しない、すべてのものは合成されている

3.世界には自由による原因がある⇔〔世界には〕自由なるものはない、すべてのものは自然〔必然的〕である

4.世界原因の系列のなかにはなんらかの必然的存在者がある⇔この系列のなかには必然的なものはなにも存在しない、すべては偶然的である

 

第五二節b

 アンチノミーは経験では真偽を立証できない。

 

第五二節c

  第一のアンチノミーに対して「空間的或いは時間的に規定された量なるものは、およそいっさいの経験とは別に世界そのもののうちになければなるまい、しかし このことは現象の総括にすぎないところの感性界という概念に矛盾する」「それ自体だけで存在する感性界という概念は自己矛盾を含むから、世界の量に関する 問題の解決を肯定的に試みるにせよ或いは否定的に試みるにせよ、その解決はいずれも偽である」(193頁)

→感性界が人間の内に位置しており、人間が感性の外に脱せない以上、第一のアンチノミーはその命題が両方とも偽(それ自体として存在する感性界は存在しないから)としか考えられない。

  第二アンチノミーに対しても同様に、分割という可能的経験の内にある行為を経験自体に先立って含んでいるものが実在すると考えるのは「経験においてしか実 在しない単なる現象に、経験に先立ちそれ自体として実在するものを同時に与えるのと同じわけで、それは表象が生じる以前に、表象力のなかに表象だけが現実 的に存在すると言うようなものである」(193頁)ので、表象の定義からの自己矛盾が生じるので真か偽か判断不能である。

 

第五三節

 第三アンチノミーに対して「自然必然性は現象にのみ関係し、自由は物自体にのみ関係するというのであれば、たとえ二通りの原因性〔自然法則および自由の原因性〕を想定し或いは承認するにせよ、決して矛盾は生じない」(195頁)

 原因を無限遡及したところの原因の始まりは、「その原因性について言えば、原因の状態という時間的規定の制約を受けてはならないだろう、換言すれば、決して現象であってはならないだろう、更に別言すれば、この場合に原因は物自体と見なされ、その結果だけが現象と見なされねばならないだろう」「感性界における原因と結果との必然的連結はすべて自然必然性に依存するが、しかしもともと現象でないところの原因(現象の根底に存するにせよ)は 自由の所有に帰するわけである。それだから自然と自由とを、それぞれ異なる関係においてにせよ、換言すれば、一方は現象として、また他方は物自体としてで あるにせよ、いささかの矛盾もなくまったく同一の物に持たせることができるのである」(196-197頁)

 「行為の自然的原因であるところの主観的規定根拠と必然的に結びついている」(198頁)と同時に「かかる客観的規定根拠」と「べし(Sollen)」によって連結される人間の能力こそが「理性」であり、この「理性に関してのみ考察する限りでは、この存在者は感性的存在者とは見なされ得ない、むしろかかる特性は、実に物自体の特性である」(198頁)そして、「それ自身が理念であるような客観的〔規定〕根拠が理性を規定すると見なされる限り、感性界における結果を生ぜしめた理性の原因性は「自由」であるということになるだろう」(199頁)

→自由(意志)と物自体の一致

「理性的存在者のすべての行為は、これらの行為が現象(なんらかの経験において見出される)である限り、自然必然性に支配されている、しかしこの同一の行為は、理性的主体とその能力――すなわち理性に従ってのみ行為するという能力とに関しては、自由である」(199-200頁)

「感性界における一切の出来事は、いずれも一定不変の自然法則に従って規定され得る、それだからまた現象のなかにある原因に関係せしめられる」(200頁)が、その自然法則はどのように存立するのか?

 1.「理性的存在者が理性にもとづいて、従ってまた自由によって、感性界における結果の原因である」(200頁)場合は「行為は主観の格律〔主観的原理〕に従って生起するにしても、しかし現象における結果は、常に一定不変の〔自然〕法則に適合しているだろう」(200頁)

 2.「感性界における結果は、理性的根拠にもとづいて規定されたものでない」(200頁)場合は「行為はもともと理性的原理に従って生起するのではないから、その行為は感性の経験的法則に支配されている」(200頁)。

 上記1、2の両方において理性は自由であり、「自由は、現象を支配するところの自然法則を妨害するものでなく、また同様に自然法則は行為の規定根拠としての物自体と結びついている実践的な理性使用の自由を妨げるものでない」(201頁)

「こ うして行為は、理性の原因性に関しては第一の始まりと見なされ得るが、しかしまた現象の系列に関しては、同時にこの系列における単なる従属的な始まりと見 なされ得るのである。するとこの行為は、第一の観点では自由と見なされ得るし、また第二の観点(この場合には、行為は単なる現象にすぎない)では、自然必 然性と見なされ得るから、両者のあいだには矛盾が生じないのである」(202頁)

 第四のアンチノミーに対しては、「「感性界には、原因(原因性に関して〔感性の法則と〕同様の法則にしたがうところの)としての絶対的に必然的な存在者は決して実在しない」という命題は、「それにも拘らずこの世界はその原因(しかし〔感性界におけるとは〕異なる種類の、そしてまた異なる法則に従うところの)としての或る必然的存在者と結びついている」という他方の命題とよく並存し得る」(202-203頁)

 

第五四節

「我々が感性界の対象を物自体と見なす限り、換言すれば、感性の対象を、それが実際に在るところのもの、すなわち単なる現象と解しない限り、理性のこの自己矛盾を脱却することは不可能である」(203頁)

 

第五五節

「経験の系列においては考えられ得ないが、それにも拘らず経験を完全ならしめるために、すなわち経験の連結、秩序および統一を理解するために考えられるような存在者という単なる前提がすなわち理念である」(205頁)

→神学的「理念」

 

第五六節

「先験的理念は、理性に独自の使命――すなわち悟性使用の体系的統一を可能ならしめる原理としての理性の使命を顕示する」(208頁)

  だが、人間の理念はあくまで経験の内にある。つまり、「理念によるかかる統一は、経験を〔可能的〕経験そのものにおける〔体系的統一の〕完全性へできるだけ近づけるために、換言すれば、経験の進行を、経験に属し得ない何ものによっても制限しないために役立つにすぎないのである」(209頁)

 

結び 純粋理性の限界規定について

第五七節

「我々は、そもそも物自体の性質を何によって規定しようとするのだろうか」(210頁)

「我々は、およそ可能的経験を超えて、物自体はどのようなものであろうかということについて明確な概念をもつことはできない」「経験はけっきょく理性を完全に満足させるものではない」(212頁)

「いったい心とはほんらいなんであるか」「この問いに答えるには、どんな経験的概念も不十分であるとすれば、つまるところ理性概念(単純で分割され得ない非物質的存在者)を、ただこのためだけにも想定せざるを得ないのである、なおその場合にも、かかる主観の客観的実在性を絶対に証明し得ないことは言うまでもない」(212-213頁)

「かかる存在者の理念の可能性は、それ自体としては洞察せられ得ないにせよ、しかしかかる理念は決して否定せられ得るものでない、この理念は、単なる悟性的存在者に関するものではあるが、しかしこのような理念を欠くと、理性は永久に満たされないままでいなければならないであろう」(213頁)

→理性は理念の存在を証明できず、理念は理性の必要に応じて想定されるだけのもの?

「人間の理性は制限を認めこそすれ、限界を知らないのである、換言すれば、人間の理性がどうしても達することのできない何かあるものが理性のそとにあることを 認めはするが、しかし理性自体がその認識の内的進行において何処かで完結するであろうということを認めないのである」(214頁)

「形而上学は、純粋理性の弁証論におけるさまざまな試み(略)において、我々を連れて限界に行き当たらせるのである。我々は、先験的理念を回避することはできない、しかしそれにも拘らず理念は、我々の経験において実現せられることを欲しないのである」(215頁)

「感性界は、普遍的法則に従って必然的に連結せられた現象の全体的連関にほかならない、従って感性界は、それ自体だけでは存立し得ないのである。感性界はもともと物自体ではない、それだから現象の根拠を含むところのもの――換言すれば、単なる現象としてではなく物自体と見なされ得るような存在者に、必然的に関係するのである。そして理性は、かかる物自体の認識においてこそ、条件付きのものからその条件へ遡る系列の絶対的完結への願いがいつかは叶えられることを想望できるのである」(216-217頁)

→我々の感性界にはその物自体の存在者は属さないが、理性は物自体の領域において絶対的完結を目指す。

「我々は、非物質的存在者、悟性界、一切の存在者のなかの最高存在者(略) を思い見ねばならなくなる。理性は、物自体としてのこれらのものにおいてのみ、問題の完全な解決と満足を見出すのであり、これは現象を現象と同種類の根拠 から引き出すという仕方によるのでは、決して期待され得ないのである。更にまた現象は、常に物自体を前提し、(略)物自体を指示しているということによっ て、現象と異なる何か或るもの(略)に実際に関係するからである」(218頁)

  悟性的存在者は純粋悟性概念によってしか考えることができないのではなく、また感性界の特性によって悟性的存在者を捉えるべきでもない。「感性界に対する 悟性的存在者の関係においては、かかる存在者を想定しまた理性によってこれを感性界と必然的に連結せざるを得ないのであるから、我々は(略)感性界に対す る悟性的存在者の関係を表示するような概念を介して考えることができるであろう(」219頁)

最高存在者は我々の感性界も悟性概念も超えたものとして想定せざるを得ない(219-221頁)

「根源的存在者の概念が我々によって規定され得るとしたら、我々は必ず矛盾に陥ることになるであろう」(222頁)

人間理性は経験世界の現象のみを認識できるだけであり、経験の外にある物自体としての物については判断を諦めねばならない。(223頁)

→ウィトゲンシュタイン「論考」的?

世界の最高存在とそれによって作られたものとしての我々は、時計と時計職人の関係のように、作られたものから作ったものを類推するような形でしか認識できない。(224頁)

 

第五八節

「たとえ我々が最高存在者をそれ自体として完全に規定し得るようなものをすべて取り去っても、なお最高存在者に関する或る種の概念――すなわち我々にとっては十分に規定される概念が残される」(225頁)

「我々は、かかる最高存在者が、それ自体どのようなものであるかについては、まったく探究のしようがなく、また明確な仕方で考えることすらできない」(228頁)

→否定神学的神(最高存在者)概念

「我々は、世界をその現実的存在と内的規定とに関して、あたかもそれが最高理性に由来するかのように考えるのである」つまり「この世界をそれ自体だけではかかる性質の根拠たるに足りないと見なすのである」(229頁)

→最高理性、最高存在者は不可知であるが、世界はこの存在が存在しなければありえないと見なす。

 

第五九節

経験に限界を付するものは、まったく経験のそとになければならない、そしてこれがすなわち純粋な悟性的存在者の領域である」 「我々は独断的に規定された概念をもって可能的経験の領域を超出することはできない」「限界そのものは、(略)限界内にあるところのもの〔経験〕に属する と同時に、また与えられた〔現象の〕総括〔としての感性界〕の外にある空間〔悟性的存在者の領域〕にも属している、それだから理性は、この限界までは自分 自身を拡張するがしかし敢て限界を超出しようと企てないことによってのみ、現実的な積極的認識に与るのである」(231頁)

→理性は限界に位置することによって感性と悟性とを結びつけて認識できる。

「理性は、この何か或るもの自体について〔それがいかなるものであるかを〕我々に教えるのではなくて可能的経験の領域における理性自身の完全にして余すところのない、そしてまた最高目的に向けられた使用に関して教えるだけである」(233頁)

 

第六〇節

「理性は、神学的理念によって宿命論から離脱する」「自由による原因の概念に――従ってまた最高叡智者の概念に到達する」「形而上学における理性の思弁的使用は、道徳哲学における実践的使用〔理性の〕と必然的に統一されていなければならないのである」(237-238頁)

→神としての自由、あるいは自由としての神

「悟性使用の全般に行きわたる完全な統一は、可能的経験全体(体系をなせる)を成立させるために、理性との関係においてのみ悟性に属し得る、それだから経験は、間接的に理性の立法に従うのである、ということだろうか」(239頁)