バークリー『人知原理論』岩波文庫

序文

 「神の存在や非物質性の証明ないし魂の自然的不滅性の証明」

序論

二、三:人間は有限な存在であるので、無限なものを理解しようとすると不合理や矛盾に陥る。神は人類の欲求を完全に創り、欲求を正しく使えばそれは満たされるはずである。神が人間にまったく手の届かない知識を求めようとする欲求など与えたはずはない。哲学者たちを惑わしてきたものの大部分は人間自身のせいである。

 

五:知識の誤謬と困難の元凶とは、精神には事物の抽象的な観念あるいは概念を形成する力があるという意見である。これらの観念は論理学と形而上学という名で通っており、これらの学問では抽象的概念が精神のなかに存在していて、精神はそれらに精通していると想定されている。

 

七~一一:ロック批判

 

一二:一般的な観念は存在するが、抽象的で一般的な観念は存在しない。

 

一五:抽象的で一般的な観念は意思疎通にとってだけでなく、知識の拡大にとっても不要である。一般的観念はそれによって表示されるもろもろの個物にたいして、一般的観念によって取り結ぶ関係に本領がある。

 

一八:抽象的で一般的な観念という考えの根拠は言語である。もし言語あるいは一般的記号といったようなものがなかったなら、抽象などということを誰も考えはしなかっただろう。

 「三角形」という言葉が表示するたったひとつの固定した観念などない。

 

一九、二〇:名前(言葉)が観念を表示し代表するからといって、名前(言葉)と実際の事物の一対一の対応関係はない。

 

二三:言葉による欺瞞から完全に解放されねばならない。抽象的観念それ自体はまったく理解不可能なものであるから、言葉を使わずにそうした観念を精神のなかにとどめておくのはできない。

 

二四:人間は個別的観念しかもっていない。

 名前はつねに観念を代表するわけではない。

 言葉こそ、判断を曇らせ注意を散漫にする主因である。

 

人間的知識の原理について 第一部

一:人間的知識の対象

  ・感官にじっさいに刻印される観念

  ・精神の受動と能動に注意することによって知覚されるような観念

  ・記憶や想像力の助けによって形成される観念

 

二:意志する、想像する、思い出すといったさまざまなはたらきを観念にたいして行使する何かとは、精神(mind)、心(spirit)、魂(soul)私自身(自我)(my self)であり、これらは上記の観念から全面的に区別される事物である。

 

三、四、五:あらゆる観念は、それらを知覚する精神のなか以外には存在しない。

 事物が存在するということは、知覚されているということなのであって、その事物がそれを知覚する精神すなわち思考する事物のそとに存在するなどというのは不可能なのである。

 これらの観念が知覚されずに存在するということは明らかに矛盾している。

 感覚可能な対象が知覚されずに存在すると考えられるようにするために、その対象が存在するということをそれが知覚されるということから区別すること以上の抽象はありえない。

 私がある事物をじっさいに感覚せずともその事物を見るあるいは触れることはできないのと同様に、私は頭のなかですら、何らかの感覚可能な事物あるいは対象を,その感覚あるいは知覚から区別されているものとして考えることもできない。

 

六:世界という巨大な構築物を構成しているすべての物体は精神のそとでは自存できず、それらが存在するというのは知覚されるあるいは知られるということであり、したがって、それらが私によってじっさいに知覚されないかぎりは、あるいは、私の精神のなかに存在しないかぎりは、もしくは私以外の何らかの被造的存在者の精神のなかに存在しないかぎりはそれらはそもそもまったく存在しないか、それとも、何らかの永遠の存在者のなかで存続するに違いない。

 

七:「心」すなわち知覚するもの以外の実体は存在しない。

 

「物質」

本書での「物質」とは、知覚できないが、事物を形成し、人間や世界を動かす力をもった根源的存在を指す。おそらくデモクリトスの原子論や、哲学における抽象的観念(例えば後年のカントの「物自体」など)数学の抽象的観念(例えば後に批判される無限分割されうる存在)などを全て「物質」と本書では述べている。

 

一八:われわれは自分がもっている観念に似ている事物が外部に全く存在しないにもかかわらず、そのような観念をもつことができる。したがって、外的物体の想定は明らかにわれわれの観念を生み出すために必要ではない。

 

一九:われわれの精神における観念あるいは感覚の産出は物質あるいは物体的実存を想定する理由にはなりえない。

 物体が精神のそとに存在することが可能だとしても、じっさいに存在すると主張することは、きわめて当てにならない。なぜなら、そのような主張は、神が不要なものを創造したと何の根拠もなしに想定することだからである。

 

二三:人間が自分の精神のなかに想像する、観念をつくる能力をもっているとしても、その思考の対象が精神の外に存在できるということにはならない。外的物体について人間が考えているとき、その物体は精神自身によって把握されている、あるいは精神自身の中に存在している。

 

二五:観念は受動的(passive)で不活発(inert)であり、それがなんらかの事物の原因たることは不可能である。

 

二六:観念の原因は実体でなければならないが、物体的あるいは「物質的」実体は存在しない。それゆえ、観念の原因は非物体的な能動的実体、つまり心であることになる。

 

二九:感官に刻印される観念は人間の意志の産物ではない。したがって、これらの観念を生み出す何らかの他の意志あるいは心が存在する(神が存在する)。

 

三〇~三二:感官の観念の規則や秩序を自然法則と呼ぶが、これをわれわれは経験によって学ぶ。しかしわれわれは性急にある観念を他の観念の原因にしてしまう。

 

三三:創造者によって感官に刻印される観念はほんとうに存在する事物と呼ばれる。想像力によって引き起こされる観念は、事物の似像であって、この似像が事物を写し代理する。この似像はどんなに判明であっても観念であり、これが精神の外に存在することにはならない。いかなる観念も、弱いにしろ強いにしろ、それを知覚する精神のなか以外に存在できない。

 

三四:本当に存在する事物には「事物の本性なるもの」があり、それと妄想でしかないものは完璧に区別される。しかし、これら両者が等しく精神のなかに存在すること、そしてこの意味ではどちらも観念である。

 否定する唯一のものは、「物質」とか「物体的実体」と呼ぶものだけである。

 

三八:「性質」はこれらを知覚する精神のなかにしか存在しない。

 

三九:感官の対象は精神のなかにしか存在せず、思考せず非能動的であり、「観念」という言葉で現すのが適切である。

 

四〇:感官の証言が感官によって知覚されていない事物の存在証明になるのは不可解である。

 

四一~:四〇に対する反論の反論

 

四五、四六:スコラ哲学における連続的創造説

 

四七:物質つまり物体的実体の存在を認めるとしても、いかなるたぐいの個別的物体も知覚されていないあいだは存在できない。よって、物質論者たちは、感官によって知覚される個別的物体も、それらに似たなにかも、精神のそとには存在しないということを承認せざるを得ない。

 

四八:感官の対象は我々が知覚していないときにはそうした対象を知覚する何か他の精神(他者、神)が存在しうるからである。

 

五〇:いかにして物質が精神にはたらきかけ、精神のなかに観念を生み出すのかは、いかなる哲学者もあえて説明できると言い張りはしない。

 

五三:いかなる物体もまた、力や活動を含まない。そうなると、多数の被造物は、自然のなかにいかなる結果も生み出せない。

 

五四:感官ももたず思考もしないなんらかの存在者を表明することはできない。

 

五六:外側から感覚が刻印されたとき、その感覚は、それが刻印されている精神から区別される何らかの原因をもっている。そして精神だけが能動的に作用できる。

 

六一:あらゆる機械装置的運動と摂理の結果は精神にのみ帰せられうる。

 

六五、六六:結果を生み出すためには何らかの原因があると考えることは不合理である。結果とはわれわれに与えられた記号であり、それを理解しようとすることが自然哲学者の任務であり、物体的原因によって事物を説明すると言い張ることではない。

 

六七:実体なき偶有性も偶有性なき実体も想定不可能であり、またこれらの存在場所はさらに不明である。

 

七一:問われるべきは、神の精神のなかに何であるかがわからない何らかの観念が存在していて、こうした観念がそれぞれ、われわれの精神のなかに恒常的で規則的なやり方で感覚をいかに生み出すかを神に指図する印または合図になっているかどうかである。

 

七二:無限に知恵があり、善でありそして有能である精神が存在するだけで、自然の現象すべてを説明して余りあるのは明らかである。しかし、不活発で感官を欠く物質について言うなら、私が知覚するものはどれもこの物質とまったく結合していない、あるいは、この物質を思いつかせはしない。

 

七七:何であるかも分からなければ、なぜなのかも分からないものについて議論することにいかなる利益があるのか理解できない。

 

八一:精神と観念から、つまり知覚することと知覚されることから切り離された存在あるいは現実存在の概念をもっていると自負することは、まったくの矛盾であり言葉遊びでしかない。

 

八二:聖書のどこにも、哲学者たちが物質と呼ぶものも、精神のそとの対象の存在も言及されていない。

 

八六:(懐疑主義批判)ほんとうに存在する事物が精神のそとに自存していて、これについての知識が事物に的中するのは、それが本当に存在する事物に一致しうる限りでのことだ、と懐疑主義は考えてしまった。しかし、知覚される事物が知覚されない事物と一致しうるということ、つまりは、精神のそとに存在する事物と一致しうるということは、いかにして知られるというのだろうか。

 

八七:懐疑主義は、事物と観念が違うと想定し、前者は精神のそとに、つまり知覚されずに自存すると考えてしまった。

 

八九:「精神」は能動的で不可分な実体である。

 「観念」は不活発で、はかなく、依存的な存在者であって、それ自身で自存するのではなく、精神あるいは精神的実体によって支えられている、あるいはそのなかに存在する。

 

九〇:私が自分の目を閉じているときも、私が見ていた事物は依然として存在しうるのだが、それはある別の精神[神と他人]のなかに存在するのでなければならない。

 

九一:すべての感覚可能な性質は、それ自身で自存できないがゆえに、支えを必要とする。

 

九二~:無神論者と物質論者について

 

九七~:微積分、ニュートン力学への反論

 

一〇二:事物の運動の作用因は機械的原因ではなく、精神である。

 

一〇七:哲学者たちが精神や心と区別される自然的作用因を探し求めるとき、彼らは明らかに無駄な努力をしている。

 被造物のすべては賢明にして善なる作用者の作品であると考えるなら、事物の目的因について思いめぐらせることこそ哲学者に似つかわしい。

 

一〇九:自然科学批判

 

一一〇~一一七:ニュートン力学批判

 

一一八~一三二:数学(微積分)批判

 

一三三:物質という想定、つまり物体的対象が絶対的に存在するという想定こそ、人間にかんする知識であれ神に関する知識であれ、あらゆる知識にたいするもっとも邪悪な公然の的がもっぱら拠り所とし確信してきたものにほかならない。

 

一三五、一三六:人間の知性が精神の観念を知覚しないということは、そうした観念が存在することなど明らかに不可能であってみれば、たしかにその知性の欠陥とみなされるべきではない。

 精神あるいは能動的な思考する存在者の観念をわれわれに提供しないということでわれわれの能力に欠陥があると考えるのも筋違いである。

 

一三七:観念は能動的ではなく、それが存在するということは知覚されているということにほかならない。

 

一三八:魂、精神、実体という言葉は本当に存在する事物、つまり、観念を知覚し、意志し、観念について推論する事物である。私自身がそれであるもの、私が「私」という述語によって指示しているものは、魂あるいは精神的実体によって意味されているものと同じである。

 

一四一:身体はいかなる組織や構造をもとうとも、精神のなかのまったく受動的な観念である。精神と身体は全く異質なものであり、人間の魂は自然的に不滅である。

 

一四五:われわれが他人の精神の存在を知るのは、その精神の作用によるしかない、あるいは、その精神によってわれわれのなかに引き起こされる観念によるしかない。

 

一四六、一四七:自然は、その創造者たる神の存在をもっと強力に明示する。

 人間が他人の精神のなかに観念を引き起こすのは、創造者の意志に全面的に依存するからである。神だけが精神たちのあいだの交流を維持し、この交流のおかげで精神たちは互いの存在を知覚できるのである。けれども、万人を照らすこの純粋で明白な光そのものは目に見えない。

 

一四八:「人間」ということで、われわれと同じような存在が意味されるとするなら、われわれが見ているのは明らかに人間ではなく、なんらかの観念の集合体である。そして、これと同じ仕方でわれわれは神を見る。

 われわれが見て聞いて触れるもの、あるいはいかなる仕方にせよ感官によって知覚するものはすべて、神の力の印あるいは結果だからである。

 

一四九:神の存在以上に明白なものがないのは明らかである。

 

一五〇、一五一:自然は神の存在を意味するが、その全体を駆動させる手そのものは血肉をそなえた人間には知覚できないようになっている。

 

一五三:それ自体で考察されるなら悪と見える個別的な事物も、存在の全体系と結びついているものとして考察されるなら善の本性をもっていると認めざるをえない。

 

一五六:われわれの研究においてまっさきにやるべきことは、神を考察し、そしてわれわれの義務を考察することである。