テオドール・W・アドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)

第12章「カフカおぼえ書き」

(献辞のグレーテルはアドルノ夫人の名:Gretel Adorno 1902-1993)

セクション1(p.403-)

いわゆる「カフカ人気」なるものへの批判

特に実存主義によるカフカの誤用/誤解

「彼について書かれてきたもので物の数に入るものはほとんどない。そのたいていは実存主義によるものだ。」(p404)

「シジフォスの苦役」⇒カミュの小説

「メルストロームの大過」⇒ポーの小説

「…人間から救いが失われ、絶対への道はふさがれていること、人間の生は暗く混乱し、あるいは今日はやりの言い方をするなら無のなかにつなぎ留められてい ること、希望はそこそこにして、つつましく身近な義務に専念し、共同体に順応する以外に人間にはなすべきことは残っていないのだということを、まるで彼が 述べようとしたにすぎない、といわんばかりだ。」(p404)

カフカの文学は何かの象徴であったり寓話ではない:「すべては可能なかぎり硬く、きっぱりして切り離されており、そのさまは、まるで冒険小説を見るよう だ。[…]どの文章も字義どおりであり、かつ、どの文章も何かを暗示している。この二つは、象徴のように溶け合うことはなく、引き裂かれたままであり、 ぽっかりと開いたその深淵からは、まばゆいばかりの魅惑の光が人々の眼を射るのだ。」(p405

406) ⇒ハードボイルド小説としてのカフカ??

「解くべき鍵が盗まれている寓話」(p406)

「どの文章も≪解釈せよ≫といっている。そのくせ、どの文章もそれを許そうとしない。どの文章も≪そうだこのとおり≫〔That’s the way it is〕という反応を強要するとともに、≪はてどこでそれを見たのだろう≫という問いを惹起する。読む者は間然なくデジャ・ヴュ(既視体験)の思いを表明す ることとなる。」(p406)

 

セクション2(p.407-)

「真実ではなく偽りが彼のだ」(p407)

「すなわち、その作品は、それが言っていることにおいてすでに尽き果ててしまい、時間のなかで成長するなどということはない。作品自体によってすでに言わ れている、あまりにも早すぎる意味づけに、ついに我慢できずに飛びつくことから身も守ってくれるその第一則は、すべてを文字通りに受け取ること、何ものも 上からの概念によっておおわないことである。」(p408)

「『城』の最初でKが、『どんな村に自分は迷い込んでしまったのだろう?いったいここには城があるんですか?』と尋ねているのを聞きのがしてはならない。つまり、Kが呼ばれてきたなどということはありえないのだ。」(p409)

「心理学の軽蔑者としてのカフカ」(p410)

「異様なものを夢として導入するとつねにその棘は抜かれてしまうことに気づかせたコクトーは正しかった。」(p410)

「とんでもないものがショックを与えるのではない、とんでもないものの自明さがショックを与えるのだ。」(p410)

「彼においてはしばしば身振りが言葉と対位法をなしている。身振りという、この言葉以前のもの、さまざまな志向のもとから逃れてしまっているものが、カフカにあって意味作用のすべてを病のように蚕食しているあの多義性にたいし、断固反旗を翻しているのだ。」(p411)

下宿しているときに(カフカに出てくる老婆がするように)隣人に見張られていると感じる人は、それをきっかけに「あらゆる忌まわしいもの、古なじみのも の、理解に苦しむもの、避けがたいものといっしょになって、あの運命のイメージ」が閃く。「もし、そうした判じ絵を解く心得のある人がいれば、その人は、 カフカのなかに図解された存在論を見て取る人たちよりも、カフカについては多くを知っている人なのだ。」(p413)(傍点 伊藤)

 

セクション3(p.413-)

カフカに対する批判=「関係妄想や追跡妄想に罹っている[…]パラノイアに感染している」「そうした者にとってカフカの作品が何か役立つものがあるとしたらただひとつ、みずからの精神的障害を合理的なものとして正当化してくれることだけだ」(p414)という批判。

カフカは心理学の軽蔑者だったが、≪カフカはフロイトと何の係わりもない≫(p414)というのも誤り。

「階層秩序についてのカフカとフロイトの見解は、ほとんど区別しがたい」(p414)

≪触れたいという妄想≫(p415)

「フロイトという無意識の探究家とカフカという透視しえないものの寓意家とのあいだにある関係に最も近づくことになるのは、原始的部族集団の長である父親 の殺害という太古型のワン・シーン[…]こうしたものをフロイトが、空想の凝ってなったものとしてでなく、現実の出来事として受け取っていたことを思い浮 かべるときにおいて、である。」(p416)

「カフカのやり方であるあの≪文字どおり≫がここでも役に立つ。精神分析による所見は何もかもが暗喩的でメンタルなものだというのではなく、もしそれが正 味のものとして当たっているならどうなるかということを、彼はまるで実験してたしかめるように研究するのだ。」(p416

417)

「カフカはノイローゼを癒すかわりに、ノイローゼそのもののなかに癒す力、認識の力をさぐる。すなわち、社会によって個人に焼きつけられた傷は、社会が虚偽であることの暗号として、真理の陰画として、その当の個人によって解読されるのだ。

(p417)

 

セクション4(p.419-)

「デジャ・ヴュの国はドッペルゲンガーたちでいっぱいだ。」

「あるとき測量師には自分の助手たちがはたして生きものなのかどうかさえ疑わしくなる。しかし同時に、到来しつつあるものの雛型たるベルトコンベアー上で 製造される人間たち、機械的に複製されるサンプル人間たち、ハックスリーのイプシロンたちもいる。個人を産み出した社会的起源は、けっきょく、個人を絶滅 させる権力として暴露されるのだ。」(p421)

 

セクション5(p.426-)

「際限のない権力に対する反応」(p426)

「権力のほうではなくて無力なる主人公たちのほうが余計者に見えるのだ。」(p426)

「自由主義は独占資本主義によって清算されるのだが、カフカは自由主義の時代の廃物によって、この独占資本主義の正体を見ぬく。いわゆる歴史をつらぬいて 輝いている超歴史的なものではなく、こうした歴史的瞬間こそ、彼の形而上学が結晶してゆくものなのであり、彼にとって永遠とは、はてしなく繰り返されてき た犠牲の永遠以外のなにものでもなく、それが最新の犠牲の像までつづいているのだ。」(p429)

 

セクション6(p.422-)

「身も萎えんばかりの恐怖とは、市民が自分の跡を継ぐものを見出せなかった、ということなのだ。[…]だがおそらくこれは、あのグラックス物語が意味して いるものなのだ。もはや荒々しい狩人ではなく、死ぬことに失敗した暴力の男グラックスの物語が。そんなふうに市民階級も死ぬことに失敗したのだ。救いとな るものである死を逸してしまったので、歴史はカフカにあっては地獄となる。この地獄は市民階級の末裔たちみずからがうち開いたのだ。」(p435-436)

 

セクション7(p.436-)

表現主義としてのカフカ文学

「ただ急進的な抒情詩人のみが行いえたほど遠くまで、表現主義的な衝動を追い求めていったのだ。カフカの作品はウルトラ左翼の調子を帯びている。なのに、 それを≪普遍的に人間的なもの≫の水準に平板化するものは、すでにカフカを順応主義者に改鋳してしまっているのだ。『孤独の三部作』というようなつけよう と思えば難癖をつけることのできる定式化が価値をもつのは、それがカフカのすべての文章に内在しているある前提をきわだたせるからである。錬金術的原理と は、全き疎外におちいった主観性の原理なのだ。」(p437)

「対象なき内面性」(p438)

「表現主義の自我が、自分自身に投げ返されれば投げ返されるほど、ますますそれは締め出された物の世界に似てくるのである。この類似性によってカフカは、 表現主義に[…]それがややこしい叙事詩になるように強い、必然的に自己自身から疎外されて物に化してしまう純粋な主観性に、みずからのこの疎外が表現さ れることになる客体性になるよう強いるのである。人間的なものと物の世界の境界はぬぐい去られる。これが、しばしば認められるクレーとの親縁性の理由とな るのだ。カフカは自分の書くことを『引っ掻くこと』と呼んでいた。物的なものがグラフィックなサインとなり、呪文に縛られた人間は自分のうちから行動する のではなく、だれもがある磁場に落ち込んだかのように行動する。」(p439

440) 注「このことがカフカの作品のあらゆる劇化に無効を言い渡しているのである。」(p443)⇒アニメは?

 

セクション8(p.444-)

「カフカにおいて表現主義の弁証法は、エピソードを連ねた冒険小説との同化に帰着する。」(p444)

「カフカは、普遍的に疑わしいという、この現今の時代の相貌にふかく刻み込まれた特徴を、探偵小説から学びとった。探偵小説にあっては物の世界のほうが抽 象的な主題よりも優位にあるが、カフカは、物を偏在するエンブレムへと作りかえるために、このことを利用する。カフカのあれらの大きな作品は、いってみれ ば犯罪のヴェールを剥ぐことに失敗する探偵小説のようなものだ。」(p445)

「カフカは啓蒙の精神で、啓蒙主義の神話への退行にたいして反応する。」(p450)

 

セクション9(p.451-)

カフカは「依然として啓蒙主義者である。」(p451)

「法の有罪性を証明するために、人間についての裁判が描写されているのだ。法に神話的性格があることについて、如何なる疑念もカフカは抱かなかった。」(p452)

「カフカをペシミストや絶望の実存主義者に加えることは、救いを説く者のなかに加えることと同様に誤りである。」(453)

「世界の深い裂目を地獄として浮かび上がらせる光は、最良のところから出ていた。」(453)

「謙譲をカフカは説いたのではない、そうではなく神話にたいして最も頼りになる身の処し方として、狡知をすすめたのである。」(453)

「[…]彼にとっては、傲り高ぶるこの世界をきちんとは立ち行かなくさせる唯一の方法は、この世界を正しいと認めることである。[…]無防備な犠牲者のままでいるがいい」(454)

「物象化の魔力は、主観がみずからを物に替えることによって打ち破られるのだ。主観に害をなそうとふりかかってくるものには、最後までやらせてやるがいい。」(454)

「そこなわれた被造物はもはや死ぬことができないこと、これこそが不死性についての唯一の約束、啓蒙主義者カフカがその偶像禁令でもって罰することのない唯一の約束なのである。」(456)

「十分に生きていない生の、中途半端な役立たず性をなおす治療薬があるとしたら、それは唯一、完全な役立たずであろう。」(456)