フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)

第2章「魔術的物語」

〈2〉フライの意味論的ロマンス理論の歴史化

「ロマンスとは通常の現実を変形する過程なのであって、通常の現実の代用として空想的な世界を用いることをいうのではない」p193

→アドルノ理論、ボードリヤール理論への反論?ロマンスの社会的能動性、批判性の主張。

 

「ロマンスの世界内的対象(略)が、変形されて空間の折り目に、均一な時間にぽっかりと空いた不連続な穴に、高い象徴性をともなう閉止=完結性のなかに空 いた孤立空間にかわるのか、その結果、それらはいかにして、広義の現象学的意味でいう《世界》をあらわす触知可能な相似体または知覚的媒体になるのか」 p195

「ロマンスとは、世界の世界性がそこでみずから姿をあらわしみずからを宣言する形式にほかならぬといってよいであろう。いいかえれば、私たちの経験を超越する地平という専門的な意味での《世界》が、そこでは世界内的な意味で見えてくるのである」p195

→ロマンスの作品内世界は、孤立空間、触知可能な世界でありながら、現象学的な意味での認識の対象になりえない本来の世界の姿(世界の全体的な姿?)となる。ロマンスにおいては、自然空間では人間の経験を超越した世界の地平が、作品内では世界内的なものとして現れてくる。

 

「この「自然」が固有の特殊化された社会的・歴史的な現象というよりも、(略)はじめからそれ自体「自然なるもの」として、暗に定められているふしがあることだ」p196

「ロマンスにおいて世界性が中心的位置をしめているのであれば、フライがロマンスの登場人物の悲劇的カテゴリー(略)にあたえている重要性に疑いをさしはさまざるをえなくなる」p196

「ロマンスの「世界」のもつ妙に活動的で脈動する生命力が、(略)ふつうは物語の「登場人物」が保有しているはずの、行為と出来事をつくりだす機能の多くを吸い取ってしまう傾向があるのである」p196

「[登場人物は]ロマンスにおいて上界と下界が相手を凌駕しようと争う変形の場面にあらわれる意味素を全領域にわたって跡付ける登録装置にすぎなくなるのである」p196

→ロマンスにおいては世界が「自然なるもの」として先に存在しており、登場人物はロマンスの世界の中でのポジションに当てはめられるだけの駒に過ぎない。

 

「フライは後世の宗教カテゴリー――中心化されヒエラルキー化された権力社会のイデオロギー――を、時代を遡って神話に投影してしまっている。神話とはそもそも、脱中心的で魔術に支配された部族的社会構成体に特有のディスクールである」p197

「このような[伝統的、神話的なロマンスの]受動的・静観的《行為体》が、物語の体系の機能的単位としてどう理解できるのかを、もし問われれば、明らかにこうした《行為体》は、登場人物の位置と、より根源的で物語的に「意味のある」実体とを媒介する、ロマンス特有の意味素論的機構である、ということにな る。ちなみに、この根源的で物語的に「意味のある」実体とは、世界性そのものをさしている」p198

→ロマンスにおいて意味のある実体とは登場人物ではなく、ロマンスの世界性である。

 

「ロマンスの内在的で非概念的なイデオロギー的機能を「純粋な」物語にすぎないと考えることはここでもまた、大いに疑問があるといわねばならない」p201

→ロマンスとは歴史的、政治的なイデオロギー機能を内在した物語である。

 

「様式の観点からジャンルの接近をおこなうなら、根本的な歴史化を推し進めて、対象となっている「本質」「精神」「世界観」が、イデオロギー素であることが明らかになるところまで、いたらなければならない(略)。イデオロギー素は、歴史的に決定された概念的または意味素的複合体であり、「価値体系」や「哲学的観念」のかたちをとったり、原型的物語、私的あるいは集合的な物語的幻想のかたちをとったりなどして、さまざまである」p201

→歴史的に決定されたイデオロギー素の解明に向けての歴史化の追求。

 

[ニーチェの「善悪の彼岸」を受けて]「悲劇と喜劇は特殊な意味で「善悪を超えた」彼岸にある。概念的に考えれば、善悪を超えるとは、善と悪というまった く個人的な倫理的カテゴリーから逃れ、私たちが個々の主体として存在するがゆえに必然的に閉じこめられているカテゴリーを超越し、集団生活と歴史的体験に ついて従来とは根本的にちがう超個人的パースペクティブを切りひらくことだと把握できるだろう。(略)私たちは、善悪を超えることができる思考を、つまり 弁証法を、すでにもっているのだ」p203

→個人的倫理から超個人的パースペクティブ(善悪を超える思考)への道筋としての弁証法。

 

「イデオロギー素そのものを社会的実践のひとつとして、つまり、具体的な社会的状況に対する象徴的解決として捉えることである。イデオロギー素のレベルで 概念的《二律背反》のまま残るものを、こんどは社会的・歴史的なサブテクストのレベルで《矛盾》として捉えなければならない」p205

 

善と悪という概念に支えられた武勲詩(ロマンスの産みの親)は「動乱の時代」と呼ばれる歴史上の時期(カロリング朝後期、アメリカの西部劇)と密接な関係にある。しかし12世紀になるとこの従来の善悪の立場的概念と、新しい階級の連帯性の間に矛盾が生じ、「本来の力強いかたちをとったロマンスは、この現実 の矛盾の想像上の「解決策」であった(略)。敵を悪いと思うにはどうすればよいのか、この悩ましい疑問に対してなされた象徴的な解答がロマンスであった」 pp206-207

「ロマンスは、新たな種類の物語、つまり意味素の消滅とでもいったものについての「物語」を生産することにより、前述の概念的ジレンマを「解決」するのである」p207

→歴史的、社会的矛盾への象徴的解決としてのロマンスの物語。

 

[武勲詩、西部劇の悪の意味素を特定のものに付与することが不可能になったので]「悪の意味素は、いわばラカンのいう「排除(フォルクリュジオン)」に よって、対人的・世界内的関係の領域から締め出されることになり、その結果、その本来の性質からして、浮遊する離脱した要素へと、邪悪な視覚的幻影への、 投影され再結成される。すなわち、魔術や魔法の力がはたらく「領域」である。それがロマンスの「世界」の意味素論的構成を設定し、そのうえで、擬人観的 (アントロポモフィック)な担い手や風景といった、ロマンスに暫定的に付与される要素を決定するのである」p208

→歴史的、社会的矛盾への象徴的解決として、ロマンスの「世界」が設定され、そのうえで登場人物や風景といった、暫定的な要素が決定される。