ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意志』(新潮社)

 「知への意志」La volonte de savoirの「への」にあたる”de”には「所有・所属」を表す「の」、「性質・特徴」を表す「の」の他に、「起点・分離」を表す「から」、「原因」を表す「のせいで」、「手段・道具」を表す「で」、そして「主題」を表す「について」、「方向」を表す「への」などの意味があり、おそらく多義的な意味をこめて使用されている。

 

第1章:我らヴィクトリア朝の人間

(まとめ)性は抑圧されているのではなく、性の言説は増大し遍在化し、その言説に沿って権力も遍在化し、その「知への意志」は性現象の科学という形をとって現れている。

 

性は抑圧されているという既存の「抑圧の仮説」に対してフーコーが対置させる3つの疑い

「第一の疑いは、性の抑圧は本当に歴史的に明らかなことなのか」(p18)

「第二の疑いは、権力の仕組み、特に我々の社会のような社会において働いている権力の仕組みは、本質において抑圧の次元のものなのか」(p18)

「第三の疑い、すなわち、抑圧に語りかける批判的言説は、それまでは異議をさしはさまれることなく機能してきた権力のメカニズムに交叉してその道をはばも うとするものなのか、それとも、その言説が「抑圧」と名付けて告発している(恐らくは変装させてもいる)ものと、同じ歴史的網の目に属しているのではない か」(pp18-19)

 

これらの疑いの目的は、「そのような仮説[抑圧の仮説]を、十七世紀以来の近代社会の内部における性に関する言説の全般的生産・管理構造(エコノミー)の中に置き直してみることだ」(p19)

「要するに問題は、人間の性現象についての言説を我々において支えている〈権力=知=快楽〉という体制を、その機能と存在理由において決定することである」(pp19-20)

「考慮に入れるべきことは、(略)性についての総体的な「言説事象」、性の「言説化」なのである」(p20)

「どのような言説に沿って、権力というものが、最も細かくかつ最も個人的な行動の水脈にまで忍び込んでくるものか、どのような道筋が、権力をして、欲望の稀な形態あるいはほとんど知覚されないほどの形態までも捉えることを可能ならしめているのか、どのようにして権力が日常の快楽に浸透しそれを統制している のか(略)「権力の多形的(ポリモルフ)な技術」ということだ」(p20)

「これら言説的産物にとって支えであると同時に道具ともなっている「知への意志」を、はっきりと取り出して見ることなのだ」(p20)

「言説の産出の決定される場と」「権力の産出の決定される場と」「知の産出物の場を」「追究してみようと思う」(p21)

「十六世紀以来、性の「言説化」は、制約を蒙るどころか、反対に、いよいよ増大する煽動のメカニズムに従属していた」「性に対して働きかける権力の技術は」「様々の多形的(ポリモルフ)な性現象の分散と浸透の原則に従っていた」「知への意志は」「性現象の科学を成立させるのに」「熱中していた」 (pp21-22)