プリーモ・レーヴィ『休戦』(岩波文庫) 

本書の主題:アウシュヴィッツの絶滅収容所の生き残りがどのようにして元の人間世界に帰ったか。

1945年1月のアウシュヴィッツから1945年10月のトリーノへの帰還までの記録。

 

アウシュヴィッツでの地獄は本作の前に『アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』で克明に描いた。また本書最初の2章「雪解け」「大収容所」はアウシュヴィッツでの地獄を描いている。

 

しかしアウシュヴィッツの地獄の終わりは即解放を意味しなかった。

「自由が、あり得ない、不可能な自由が、アウシュヴィッツからはあまりにも遠くて、夢の中だけであえて待ち望んだものが、ようやくやってきた。だがそれは私たちを約束の地には連れていかなかった。それは私たちのまわりにあったが、人気のない、無慈悲な平原という外貌をとっていた。私たちを別の試練が、別の労苦、別の飢え、別の寒さ、別の不安が待っていた」(p59)

 

アウシュヴィッツの「囚人」が「人間」に戻るとは?

 

「ものを食べる」「他人と取引(商売)をする」

→第3章「ギリシア人」で早くも現れる要素。以降もこの要素は繰り返し現れる。特に著者と長く行動を共にする「チェーザレ」はこの人間的要素を代表する人物である。

 

「何かを楽しむ」「喜ぶ」

→「ヴィクトリー・デイ」のお祭り騒ぎ、「夢見るものたち」(p161)などでの読書、「ヴァカンス」での映画、「演劇」の章

 

「感情を持つ」

→本書では筆者はあくまで観察者的な視点で物事を描写しているが、緻密な人間観察によって彼自身と周りの人間の感情の回復が描かれている。

 

アウシュヴィッツにおける「囚人」は「人間」ではなかった。そこから一足飛びに「人間」に戻ることはできなかったが、本書に描かれた帰還の旅は苦しく、不条理でありながら、過酷さも喜劇的な雰囲気を帯びている。

 

しかし、最終章「目覚め」において

「ある声が響くのが聞こえる。尊大さなどない、みじかくて、静かな、ただ一つの言葉、それはアウシュヴィッツの朝を告げる命令の言葉、びくびくと待っていなければならない、外国の言葉あ。「フスターヴァチ」、さあ、起きるのだ」でこの小説は終わる。

そして著者は1986年に『溺れるものと救われるもの』を著した一年後、自殺を遂げている