アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』

第三章意識的諸状態の有機的組織化について――自由

導入

「自然についての二つの学説、すなわち機械論と力動論」に ついてがまず論ぜられる。「力動論は、意識が提供する意志的活動の観念から出発して、この観念を徐々に骨抜きにすることで惰力の表象に至る。したがって力動論は、一方では自由な力を他方では法則によって統御された物質を造作もなく思い描く。それに対して、機械論は逆の歩みを辿る」(160)。機械論は詳しく述べられていないが、力動論における意志的活動をも否定して全てを機械的必然性(法則)によって理解する自然観と観られる。

「力動論者は、事実を絶対的な実在に、法則をこの実在の多かれ少なかれ象徴的な表現に仕立て上げるのだ」「機械論は個別的な事実の只中に、この事実をいわば交錯点とするような一定数の法則を見分ける。この仮説においては、法則こそが根本的な実在となるだろう」(160)

「機械論にとっては、結果が予見され、計算されさえするようなすべての原理が単純である。」(161)

「力動論はというと、諸概念のあいだに最も便宜的な秩序を確立することよりも、むしろそれらの実在的な派生関係を見出すことに努力傾ける」(161)

しかし、「どちらの場合にも、活動の観念へと立ち戻ることが必要不可欠なのである」(161)

「考察によってわれわれは、(略)なぜア・プリオリに、人間の活動をめぐる相対立した二つの考え方が得られるに至るのかを理解できるだろう」(162)

「あらゆる決定論は(略)ある心理的な仮説を含む」(162)「心理的決定論そのものと、それに与えられる数々の反駁とが、意識状態の多様性や、とりわけ持続についての不正確な概念に依拠していることを確証する」(162)

「自我が、他のいかなる力の活動とも比較できないような活動をなすものとして姿を現す」(162)

 

物理的決定論

「われわれのうちで相継起する感覚や観念は外部から受容される衝撃と、神経実質の諸原子をすでに賦活していた運動との合成から得られる、機械的な合力によって定義されうることになろう」(163)

「だから、所定の瞬間における人間的有機体の分子や原子の位置ならびに、これに影響しうる宇宙のすべての原子の位置と運動とを知る数学者がいたならば、彼は無 謬の精確さをもってちょうど天文現象を予言するように、この有機体を有する人物の過去、現在、未来の行動を算出するだろう」(164)←ラプラスの魔、理神論

「この機械論は概算的決定論にその幾何学的性格を貸し与えることになり、かかる捜査は心理的決定論にも物理的決定論にも有利に働いて、その結果、心理的決定論はより厳密なものとして姿を現し、物理的決定論のほうは普遍的なものと化すだろう」(168)←心理をも物理的な決定論的機械とみなす

「力の保存則を自然のすべての物体にまで拡張することはそれ自体で何らかの心理的理論を含んでいないかどうか、また、人間の自由に反対するいかなる先入見も ア・プリオリに有することのないひとならば、この原理を普遍的法則にまで仕立て上げようと思うかどうか、この点を考えることが重要なのである」(169-170)←力の保存則が絶対的であるならば、宇宙の始まりの後は力動論的自発的力(心理的な力)は発生しないはずである。

「恒存的と想定された体系にとっては、流れ去った時間は損失にも利得にもならないが、生体にとってはおそらく、そして意識的存在にとっては疑いなくそれは利得である」(173)←エネルギー保存則によるエネルギーの総和の保存には時間の過ぎ行きは意味がないが、意識的存在(人間)にとって時間の過ぎ行きには意味があり、かつ「後ろ向きの回帰の仮説が意識的事象の領域では不可解である」(173)

「実在的持続、意識によって生きられる持続を、不活性な原子に何の変化ももたらすことなくその上を滑り去るような持続と同じものと信じ込むに至る」(174)←主観的・実在的・人間的持続と客観的・科学的持続(時間)の同一視が物理的決定論の誤謬の原因であり、「いわゆる物理的決定論はつまるところ心理的決定論に帰着する」(175)

 

心理的決定論

「連合主義」←心理的な機械論・決定論。ある先行する心理に連なって法則的に後続する心理が生じるとする。

「幾何学的には同一の姿勢が、当人の意識に対しては、表象される目的に応じて様々な形で現れると言うべきだろう。連合主義の誤りは、遂行されるべき行為から質的な要素をまず除去したうえで、そこから幾何学的で非人格的なもののみを保持しようとした点にある」(180-181)

「諸君は今や、われわれの多様な印象、われわれの個人的な印象はわれわれがバラの匂いに様々な記憶を連合することから帰結したのだ、と言うに至る。しかし、諸君が語るところの連合は諸君にとってしかほとんど存在しない」(182)

 

自由な行為

「自我が自己自身へと立ち返るにつれて、自我の数々の意識状態は併置されることをやめて、互いに浸透し合い、一緒に融合し、その各々が他のすべての状態の色合いを帯びるようになる。(略)にもかかわらず、言語はこれらの状態を、すべての人間において同じ言葉で指示する」(183-184)←自我の深い場所では人の意識は融合してるが、人が意識的事象を言語化するとそれらは各々分離し、また他人(社会)で共有できる形でしか現れてこない。「思考は言語と共約不能なものにとどまるのだ」(184)

「これらの感情は、十分な深さに達していれば、魂の全内実がその各々に反映されているという意味で、その各々が魂の全体を表している。それゆえ、魂はこれらの 感情のどれかひとつの影響下で決定されると述べること、それは、魂はみずから自己決定すると認めることなのである」(184-185)「この内的状態の外的顕現こそ、まさに自由行為と呼ばれるものであろう」(185)

しかし「ここ、根底的自我のまさに中核に、これを連続的に侵食する寄生的自我が形成される。多くの人はこのように生き、真の自由を知ることなく死ぬ」(186)

「自由な決意が発出するのは、魂全体からなのである。また行為は、それと結びついた動的系列が根底的自我と同一化する傾向を増すにつれて、それだけいっそう自由になるだろう」(186-187)

「自己自身を観察し、自分が行うことについて理性的に推論するのに申し分なく習熟したひとにあっても、自由な行為は稀れである」(187)「連合主義が適用されるのはこれらの数は実に多いが大半は取るに足りない行動に対してである」(188)

「いかなる具体的な理由も欠如しているという事態はわれわれがより深く自由であればあるほど、よりいっそう顕著になる」(190)

「熟慮の全瞬間において、自我は変容し、それゆえにまた、自我を動かす二つの感情をも変容させる。互いに浸透し合い、互いに強化し合い、自然な発展によってやがて自由な行為に到達するような諸状態から成るひとつの動的系列がこうして形成される」(191)

「われわれが自由であるのはわれわれの行為がみずからの人格の全体から発出し、これらの行為が人格の全体を表現する場合、そして、前者[行為]と後者[人格]のあいだに、作品と芸術家とのあいだに見られるあの定義しがたい類似が存在する場合である」(191-192)「自我から、それも自我からのみ発出するすべての行為を自由な行為と呼ぶとするなら、われわれの人格の徴しを帯びている行為は紛れもなく自由な行為である」(192)

 

実在的持続と偶然性

(197頁の図を参照のこと)「この図形が示すのは遂行されつつある行動ではなく、すでに遂行された行動なのである」(200)選択肢OXか選択肢OYを考えた時点で、OXないしはOYは既に完了しているのであって、「そもそも線MOも、点Oも、道OXも、方向OYも存在しないのだから」(200)

「このような問いを立てることは、時間を空間によって、継起を同時性によって十全に表す可能性を認めることなのである」(200)

「自由は行為それ自体のあるニュアンスないし質のうちに求められるべきであって、行為とこの行為がそうでないところのもの、または、そうでありえたかもしれないところのものとの連関のうちに求められるべきではないからだ」(202)

 

実在的持続と予見

「今の時点で未来の先行条件すべてを認識したなら、そこから出てくるであろう決断を絶対的な確実さで予言できるかどうか」(203)つまり「ある行為の先行条件の完璧な総体が与えられた場合、その行為は予見されえたか否か、という問いは」(209)意味を欠いている。

ある人物ピエールの行為を全て認識しようとする観察者ポールを想定する場合、ポールが完全にピエールと同じ条件となるのはピエールとポールが同一人物となっ た場合のみであり、「ポールは、(略)その眼差しを未来に投げかけている観察者ではなく、ピエールの役をあらかじめ演じている役者なのだ」(208)「ピエールとポールはただ一人の同一人物であり、この人物が行動するときには諸君は彼をピエールと呼び、この人物の経歴が再検討される場合には諸君は彼をポールと呼ぶのである」(209)

「反省された意識の犯す二つの根底的な錯誤」(210)「第一の錯誤は、強度のうちに、心理的状態の数学的特質を看取して、(略)特異な質、これら多様な状態に固有のニュアンスを看取しないことにある」(210)「第二の錯誤は、意識が知覚する具体的実在、動的進展に代えて、終点に達したこの進展、すなわち先行条件の総和と結合される、遂行された事実についての物質的象徴を持ち出したことにある」←質と時間を物質・空間的に把握することに錯誤は起因する。

人生を軌跡MOXYで示したとき、曲線MOを知ったときに曲線OXYをあらかじめ決定できたかという問いを掲げる。しかしこれも先のパラグラフ(実在的持続と偶然性)と先述のピエールとポールの分析通り、線MOについての自分の認識を完全にするためには曲線MOXY全体の中の点Mと一体化することが必要であり、結局MOを知って軌跡MOXYを完全にするということは、人生MOXYを「ただ彼がなしたとおりに行為」(212)することであり、MOXYは引かれた線(完了した人生)ではなく、今現在「引かれつつある線」(212)に他ならない。

「未来の行動は予見されうるかと問われる場合、精密科学で問題となるような、数に還元される時間と実在的持続とが無意識に同一視されているのだが、実在的持続 に関しては、その外見上の量は紛れもなく質であり、これを一瞬間でも切りつめるなら、それを満たす諸事象の本性を必ずや変容させることになろう」(218)

「われわれは過去、すなわち一連の既成事実を想起する場合にはこれをつねに短縮しているが、それでも、関心を抱いている出来事の本性を変質させることはない」(218)「心理的事象の存在そのものは進展からなっているが、その進展の末端に達すると、心理的事象は事物となり一挙に表象できるものとなるのだ」(218)

「深層の心理的諸事象の領域では、予見すること、見ることそして行為することのあいだに、感知できるほどの差異はないのである」(219)

 

実在的持続と因果性

決定論の最後の論:「どんな行為もその心理的先行条件によって決定される(略)意識的事象は自然現象と同様に諸法則に従うと主張すること」(219)

しかし「このうえもなく単純な心理的要素でさえ、それがわずかでも深さを有しているなら、人格性とそれ固有の生を伴っている」(221)「物理学者にとっては、同じ原因はつねに同じ結果を産出する。見かけの類似に惑わされることのない心理学者にとっては、深層の内的原因はその結果を一度しかもたらさない」(221)

決定論的錯誤は因果律(因果性)についての誤った認識にもとづいている。よって以下では因果律を分析することとする。

 

因果律の二つの層

1.「現在の只中での未来の先駆的で現実的な形成の意味に解された因果律」(226)の把握

「ここで語られている運動は、現実に生じる運動ではなく、思考された運動であり、それはすなわち数々の連関のあいだの連関なのである。運動は意識的事象であ り、空間内には同時性しか存在しない(略)そのためわれわれは、われわれの持続の任意の瞬間に対しても、こうした同時性の諸連関を計算するための手段をあ てがわれたのだ」(227)

「機械論的説明の進展によって因果性についてのこうした考え方が発展し、その結果、原子から可感的諸特質の重荷が除去されるにつれて、自然現象の具体的存在のほうは代数的煙幕のうちに消滅する傾向を強める」(227)

「しかし、因果律は、それが未来を現在に結びつける限りでは、決して必然的原理の形をとらないだろう」(228)

「継起の諸連関を内属の諸連関へと変形し、持続の作用を取り消し、見かけの因果性を根底的な同一性に置換しようとする」(229)

「事物がわれわれのように持続しないとしても、事物のうちには何か不可解な理由が存しているはずで、そのために、諸現象は一挙に展開されることなく相継起する ものとして現れるということを痛感している。だからこそ、因果性の概念は、同一性の概念に無際限に近づくとしても、これと合致するものとしてわれわれに現 れることは決してないのだ」(230)

「われわれが因果関係を必然的決定の連関へと仕立て上げれば仕立て上げるほど、それによってわれわれは、事物はわれわれのようには持続しないということをより 強く主張するようになる。(略)因果律を強化すればするほど、心理的系列を物理的系列から分かつ差異はより強調される」(230)

「持続は意識的状態に固有な形態たらしめられる。その場合、事物はもはやわれわれのようには持続せず、事物に関しては、現在における未来の数学的存在を認めることになろう」(235)

「物理的諸現象が必然的に決定されていることの原因を、事物がわれわれのようには持続しないことをに求めつつ、まさに持続する自我をひとつの自由な力たらしめるようにわれわれを促す」(236)

 

2.「未来は現在のうちで先駆的に形成されていた」(231)という形での因果律の把握

「この第二の形で考えることに決めたなら、原因と結果のあいだにはもはや必然的決定の連関は存在しないとア・プリオリに主張することができるだろう」(232)

「[先行する]現象Aそのものを、[後続する]現象Bが そこに漠然とした表象の形で含まれているような心理状態たらしめるのは自然な事態である。そうすることでわれわれは、二つの現象の客観的結合は、その観念 をわれわれに示唆してくれた主観的連合に類似していると想定したにすぎない。事物の質はこうして、われわれの自我の状態にかなり類似した真の意味での状態 となるだろう」(233)

「この仮説は、物質に真の意識状態を帰属させながらも、同じく物質にその延長を温存させるからであり、また、物質の有する諸々の質を、内的状態すなわち単純状態として扱っていながら、同時にそれらを延長に沿って展開させるからである」(233)

「この第二の仕方で解された因果連関が、原因による結果の決定をもたらさないということは明白である」(234)

「因果性の連関についての動的な考えは、われわれの持続と瓜二つの持続を、その本性がいかなるものであれ、諸事物に帰するのである。原因と結果の関係をこのように表象すること、それは(略)もはや未来は現在に連帯していないと想定することなのである」(235)

「物理的、心理的を問わずすべての現象が、同じ仕方で持続するものとして、要するにわれわれと同様の仕方で持続するものとして表象される。その場合、未来は観 念の形でのみ現在のうちに現存することになろうし、現在から未来への移行は、抱かれた観念の実現に必ずしも達することのない努力の相を呈するだろう」(235)

「自然現象のなかにまで偶然性を認めるに至る」(236)

「力の観念は、実際は必然的決定の観念を排するものであるのに、自然のなかで因果律が利用されたまさにその結果として、それを必然性の観念と結合する習慣がいわば身に付いてしまっている」(236-237)

「もしわれわれが経験に踏みとどまるならば、われわれは自分を自由であると感じると語り、(略)自分は力をひとつの自発的な自由として知覚すると語るだろう。 しかし他方ではこの力の観念が自然のなかに持ち込まれると、必然性の観念と同道することになり、腐敗してこの旅路から戻ってくる。力の観念は必然性の観念 に侵されて戻ってくるのだ」(237)

「内的因果性の連関は純粋に動的であって、互いに条件づけ合う二つの外的現象のあいだの連関とはいかなる類似も有さない」(239)

「外的現象が法則の構成に関与するのに対して、深層の心理的事象は、ひとたび意識に対して姿を現すや、もはや二度と現出することは決してないだろう」(239)

 

自由の問題の起源

「自由に関しては、その解明を求めるどんな要請も、それと気づかぬうちに、「時間は空間によって十全に表されうるか」という問いに帰着してしまうのだ」(241)

「問題のあらゆる困難は、そして問題そのものもまた、延長に見出されるのと同じ諸属性を持続に見出そうとして、継起を同時性によって解釈し、自由の観念を、それと翻訳することが明らかに不可能な言語でもって表現しようとする点から生じてくるのである」(241-242)