ニーチェ著 木場深定訳『道徳の系譜』岩波書店、1940

目次

序言(p.7~)

第一論文「善と悪」・「よいとわるい」(p.19~)

第二論文「負い目」・「良心のしさ」・その他(p.61~)

第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するのか(p.117~)

 

1.序言

○本書に至るまでの、道徳に関する洞察を、ニーチェ自身が振り返る。

・「人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を案出したか。。それらの価値判断はこれまで人間の進展を阻止してきたか、それとも促進してきたか。それらの価値判断は生の窮境・貧困・退化の徴候であるか。それとも逆に、生の充実・力・意志を、その勇気を、その確信を、その未来をかせているか。」 (p.11)

・「同情と同情道徳とのについてのこの問題は[…]、初めは単に孤立的な問題、独立した一つの疑問符にすぎないように思われる。しかし一たびこれに懸かり合い、これを問題にすることを者は、私が遭ったと同じ目に遭うことであろう。[…]―ついには一つの新しい要求が聞こえてくる。[…]―われわれは道徳的諸価値の批判を必要とする、これらの諸価値の価値こそそれ自身まずもって問題とさるべきである、と―」(p.15)

 

2.第一論文「善と悪」・「よいとわるい」

○既存の道徳の成立史(イギリスの心理学)に対する批判検討

・「われわれは「功利」・「忘却」・「習慣」、そして最後に「誤謬」、すべてそうしたものを評価の土台としているのであって、高等な人間はこれまでこの土 台を、人間一般の一種の特権であるかのように自慢してきたのだ。この自慢の鼻先を挫き、この評価を無価値にしなければならない。」(p.22)

・「上位の支配的種族が下位の種族、すなわち「下層者」に対してもつあの持続的・支配的な全体感情と根本感情―、「よい(gut)」と「わるい(schlecht)」との対立の起源なのだ。」(p.23)

根拠:schlecht はschlicht と同義、つまり「平民」のこと、ギリシャ語、ラテン語、ゲール語でも大凡同じようにアプローチできる。

・「最高の階級が同時に階級であり、従ってその僧職的機能を思わせるような尊称が彼らの総称として特に選ばれているといった場合には、政治的優位の概念は常に精神的優位の概念のうちへ解消するというとの通則に対しては、差し当たりまだ一つも例外はない。」(p.29)

・しかし僧職的貴族社会の習慣には、何かしら不健康なものが存在する。例えば、ある種の摂食法(断肉)、断食、性的禁欲、「荒野へ」の逃避式の隔離法。こうした行為により人間の魂はより深くなり、悪くなる。(pp.30-31)

・そしてまた、ユダヤ人は精神的な復讐により、圧政者に対する腹癒せを行ってきた(道徳上の奴隷一揆)。(p.32-33)

・「道徳上の奴隷一揆が始まるのは、《反感(ルサンティマン)》そのものが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここに《反感》というのは、本来の《反動(レアクション)》、すなわち行動上のそれが禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《反感》である。すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は「外のもの」、「他のもの」、「自己でないもの」を頭から否定する。そして否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。」 (pp.36-37)

・「彼[《反感》をもった人間]はまず「悪い敵」を、すなわち「悪人」を考想する。しかもこれを基礎概念として、それからやがてその模像として、その対照物として、更にもう一つ「善人」を案出する―これが自分自身なのだ!……[…]是非とも問われなければならないのは、《反感》道徳の意味で「悪い(ベーゼ)」のはもともと誰であるか、ということだ。手厳しい答えをするならこうだ。貴族道徳における「よい者」、すなわち貴人・強力者・支配者こそが、《反感》の毒を含んだ眼によってただ色合いを変えられ、ただ意味を変えられ、ただ見方を変えられたのだ。

(pp.40-41)→でもそれは「貴族的種族の根柢に潜む金毛獣」(p.44)のせい?

 

3.第二論文「負い目」・「良心のしさ」・その他(p.61~)

○「健忘」「責任」の話から

・「約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものにという一層手近な課題が含まれている。」(p.64)

・「健忘は一つの力、健康の一形式を示すもの」(p.63)

・「責任という異常な特権についての誇らしい知識、この稀有な自由の意識、この自己と運命とに対する力の意識は、彼の心の最も深い奥底まで沈下して、本能に―支配的な本能になっている。[…]この独裁的人間はそれを彼の良心と呼ぶのだ……」(pp.65-66)

○「良心」(あるいは記憶)の歴史と変遷

・「人間の「記憶して」いたものがわるいほど、人類の習慣はいよいよ恐るべき相貌を呈する。わけても刑法の峻厳さは、健忘に打ち勝つために、また社会的共同生活の若干の原始的要件を一時的に感情や欲求の奴隷になった人々のようにするために、人類がどれほどの労苦を費やしたかということに対する一つの尺度である。」(p.67)

○道徳系譜論者への批判、刑罰とは

・「―むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りからして刑罰は行われたのだ。―しかしこの 怒りは、すべての損害にはどこかそれぞれその等価物があり、従って実際に―加害者にを与えるという手段によってであれ―その報復が可能である、という思想によっ て制限せられ変様せられた。」(p.70)

○「損害」と「苦痛」との等価、その起源

・「債権者は一種の―非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感―を返済または補償として受け取ることを許される。」(p.72)

・「―負い目とか個人的責務という感情は、われわれの見たところによれば、その起源を存在するかぎりの最も古い最も原始的な個人関係のうちに、すなわち、買手と売手、債権者と債務者の間の関係のうちにもっている。」(p.79)

○共同体のその成員に対する関係(p.81~)

○正義の起源と《反感》(p.84~)

・「能動的な人間、攻撃的で侵略的な人間は、いつの場合でも反動的な人間よりは百歩も正義に近い。反動的な人間は彼の対象に誤った評価や偏った評価を加え、かつ加えざるをえないけれども、能動的な人間には毫もその必要はない。事実それ故にこそ、攻撃的な人間はより強き者、より勇敢な者、より高貴な者として、常にまた眼、良心をも自分の味方にしてきたのだ。その反面において、良心の上に「良心のしさ」の発明を有する者は一体誰であるか。諸君のすでに察知している通り、それは―《反感》をもった人だ!」(pp.85-86)

○刑罰の起源と目的について、附言(p.88~)

・「果たして生命そのものは、外的状況に対する次第に合目的性を増して行く内的順応だと定義されたではないか(ハーバート・スペンサー)。しかるにこの定義は生命の本質を、その権力意志を見落としている。それはあの自発的な、攻勢的な、襲撃的な、新解釈を与え、新方向を定める形成的な諸力―それらの諸力が作用してこそ初めて「順応」は起こるのだ―のもつ原理的な優越性を見遁している。」(p.91)

○刑罰の「諸多の意味」

・「―ところでわれわれは本題へ、すなわち刑罰へ立ち帰り、これについて二通りのものを区別しなくてはならない。その一つは刑罰における比較的にであって、慣習、動作、「ドラーマ」、諸種の処分のある厳格な手順がそれである。もう一つは刑罰における一時的なものであって、意味・目的、それらの処分の実行に結びついている期待がそれである。」(pp.91-92)

○「良心の疚しさ」の起源に関するニーチェ自身の仮説

・「敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、―これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、「良心の疚しさ」の起源である。[…]しかしこれとともに、最も大きな、最も危険な病気が持ち込まれ、今日まで人類はそれに取りかれている。すなわち、人間が、人間に、つまり自分に苦しんでいるのだ。」(pp.99-100)

・「飼い馴らすために「国家」のうちへ閉じ込められた動物人間は、この苦痛を与えようとする意欲のより自然的な放け口が塞がれて後は、自分自らに苦痛を与えるために良心の疚しさを発案した、―良心の疚しさをもつこの人間は、最も戦慄すべき冷酷さと峻厳さとをもって自分を苛虐するために宗教的前提をわが物とした。神に対する負い目、この思想は彼にとって拷問具となる。彼は自分に固有の除き切れない動物本能に対して見出しうるかぎりの窮極の反対物を「神」のうちに捉える。彼はこの動物本能を神に対する負い目として[…]解釈する。彼は「神」と「悪魔」との矛盾の間に自分自らを挾む。彼は自分自身に対する、自分の存在の本性・本然・事実に対するあらゆる否定を肯定として、存在するもの・生身のもの・現実のものとして、神として、[…]自分自らのうちから投げ出す。」(pp.109-110)

 

4.第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するのか(p.117~)

○ヴァーグナーについて

・「禁欲主義的理想は何を意味するか。[…]例えばリーヒャルト・ヴァーグナーのような芸術家がその晩年に及んで貞潔の誓いを立てるとき、それは何を意味するか。」(p.119)

・「これまで自分の意志の全力を挙げて正反対のものを、すなわち自分の芸術の最高度の精神化と官能化とを―そして単に自分の芸術のそればかりではなく、自分の生活のそれをすらも――志してきた一人の芸術家の側からの自己否認と自己抹殺をまでも見なければならないのであろうか。」(p.122)

○ショーペンハウアー、カント「美的無関心性」、スタンダール「美は幸福の約束にすぎない」(pp.127-)

・「「一人の哲学者が禁欲主義的理想を奉じる場合、それは何を意味するか。」―ここでわれわれは、少なくとも第一ヒントともいうべきものを捉える。すなわち、彼は拷問から脱がれることを意欲するのである、と。―」(pp.130-131)

○哲学者たちと禁欲主義的理想

・「禁欲主義的理想は哲学者にあっては何を意味するか。私の答えは[…]こうである。哲学者はあの理想を一瞥するとき、最も高く最も大胆な精神性の《最善》の諸条件を認めて微笑する。―彼はそれによって「生存」を否定しはしない。」(p.133)

○禁欲主義的僧職者について

・「ここで論争の的になっている思想は、禁欲主義的僧職者の側から見たわれわれの生の評価である。すなわち、彼らはわれわれの生を[…]それが自己自身に刃向 い、自己自身を否定すると、それと対立し矛盾するような全く別種の生存に関係づけてしまう。そしてわれわれの生が場合、すなわち禁欲主義的生活である場合 には、その生はあの別種の生存への橋と見なされる。」(p.147)

・「禁欲生活は一つの自己矛盾だからである。すなわち、ここには一つの比類なき《反感》が支配している。」(p.148)

○禁欲主義的理想からニヒリスムスへ

・「恐れらるべきもの、他のいかなる宿命にも見られないほど宿命的に働くもの、それは人間に対する大なる同情であろう。もしこの両者がいつか交合するとした ら、必ずや直ちに最も不気味なものが生れるであろう。すなわち、人間の「最後の意志」、無への意志が、ニヒリスムスが生れるであろう。」(p.154)

○僧職者は批判される

・「禁欲主義的僧職者、彼は果たしてであるのか。―彼自身がいかに自分を「救い主」として感じ、「救い主」としてめられたがっていようとも、彼を医者と呼ぶことは殆ど許されないというわけをわれわれはすでに理解した。彼によって対治されるのは、ただ苦しみそのもの、苦しんでいる者の不快だけであって、その原因ではなく、本来の病気ではない。」(p.165)

○禁欲主義に反対することは可能か(p.190~)