ハイデッガー『芸術作品の根源』(Der Ursprung des Kunstwerkes)(平凡社ライブラリー)

第2章 作品と真理

作品とは?

作品を「それ自体の内に立つこと」のなかで考察しなくてはならない。このためには作品をそれ以外のものから切り離して、ただそれだけで放置しなくてはならない。

しかし、そのとき作品自体を、外部から切りはなされ美術館や展覧会で陳列されたものと捉えるのは誤りである。このようにして捉えられた「作品」はもはや「芸術ビジネスの商品」であり、自体性を失っている。というのも・・・

「たとえそれらの保存がどんなにすぐれていても、たとえそれらについての解釈がどんなに確かであっても、美術品や作品集のなかに置き換えることは、それらの作品をそれらの世界から奪い取ってしまう」(57ページ)から。さらにいえば「たとえわれわれが、たとえばパエトゥムの神殿をその場所に訪れ、バンベルクの聖堂をその広場に訪れることによって、作品のそのような置き換えを中止し、あるいは回避しようと努力しても、眼前にある世界は崩壊してしまっている」 (57ページ)のである。

つまり、「世界崩壊と世界奪取とは、もはやけっして取り消されえない」(57ページ)

「作品」はそれをとりまく「世界」と一体のものであり、なおかつ「世界」は「歴史性」ないし「一回性」を帯びている。だが、「世界」とはなにか?

 

作品はどこに属しているか

ひとつの「作品」に注目してみよう。

「建築作品、ギリシアの神殿は何も模写していない。ひび割れた岩の谷のただ中に、それは単純にそこに立っているだけである。建築作品は神の形態を包み込 み、そして隠蔽するという仕方でそれを開けた柱廊空間を通じて聖なる区域へと出で立たせる。・・・神殿作品は、誕生と死、災難と天恵、勝利と屈辱、忍耐と 退廃――が人間本質にとってその命運Geschickという形態を獲得するあの諸軌道と諸連関との統一をはじめて接合fugenし、同時にその統一をそれ自体のまわりに収集するsammeln。これらの開いた諸連関を支配する広がりこそが、この歴史的な民族の世界である。この世界から、そしてこの世界の内で、この民族ははじめて自分自身へと立ち返り、彼らの使命を完遂するに至るのである。」(60ページ)

 

いくつかのキーワードが摘出される。「世界」「民族」「歴史」「開け」。しかしまだ、これらの連関はわからない。ポイントは「神殿作品」によって、これらの概念が明らかになっているということ。

 

「そこに立ちながら、この建築作品は岩の土台の上に安らう。作品のこのような安らいは、岩からそれの従順で、しかも何ものにもせき立てられることのない、になうことの暗さを取り出す。そこに立ちながら、この建築作品は、その上で荒れ狂う嵐に耐え、そのようにしてはじめて嵐そのものをその威力において示 す。・・・作品の不動なることが・・・海の荒れ狂いを出現させる。・・・出来しそして立ち現れることそれ自体を、しかも全体としてのそれを、ギリシア人たちは早初期にピュシスと名づけた。このピュシスが同時に、人間がその上にそしてその内に基づけるあの場所を空け開くlichten[森の中の空地の意味] のである。われわれはそれを大地と名づける。・・・大地とは、立ち現れることが立ち現れるもの一切を、しかも立ち現れるものとして、それの内に返還し保蔵するものである。大地は保蔵するものとして、立ち現れるものの内で、その本質を発揮するのである」(60~61ページ)

 

やはり「神殿作品」を通じて「大地」「立ち現れ」「保蔵」概念がとりだされる。「作品」は「立ち現れ」をつうじて、「立ち現れるもの」を「保蔵」するものとしての「大地」を明らかにする。

「大地」の「保蔵」と「世界」の「開け」の対比もここで示唆される。

 「神殿作品は、そこに立ちながら、一つの世界を開示し、そして同時にその世界を大地の上へと立て返す。大地はそのようにしてそれ自体はじめて[或る民族の]故郷の土地として出来するのである」(62ページ)。

「神殿作品」において「世界」と「大地」が一つのものとして現れる。→「歴史性を帯びたものとしての大地」→「故郷」。この「故郷としての大地」もまた「作品」を通じて「出来」する。

 

作品が作品であるゆえん。世界編

例えば「神」について考えてみる。しばしば「神」には「光輝」「威厳」が備わっているとされる。しかし、それは正しくない。寧ろ「神」は「威厳として、光輝として、現前するのである」(64ページ)。「この光輝の反映の内で、われわれが世界と名づけたあのものが、輝く、すなわちそれ自体を空け開く。」(同)

「作品は作品として、何を立てるのか。それ自体の-内において-そびえたちつつ、作品は、一つの世界を開示し、そしてその世界が支配しつつ滞留するように保持するのである」(65ページ)。だが、世界とは何か。まだわからない。

 

「世界は、われわれの前に立っていて直観されるような何らかの対象ではけしてない。世界はいつも非対象的なものであるが、誕生と死、祝福と神罰の軌道が、 われわれが存在の内へと連れ去られる[生命としての時間を生きている]のをそのままにしておくかぎり、われわれはこの世界の支配下にある。われわれの歴史 の本質的な諸決定が下り、われわれによってそれが引き受けられ、そして見捨てられ、誤認され、そして再度問い求められるとき、そのとき世界は世界となるの である。」(66ページ)

それゆえ「植物も動物も[石と]同様に世界を持たない。植物と動物は、それらが固着している環境の、覆われた殺到に所属しているのである。」(66ページ)

「これに対して、農婦は、存在するものの開けたところの内に滞在するのだから、一つの世界を持つ」(66ページ)

「世界」は「存在の開け」「歴史(時間)」とともにあり、それゆえ「人間」固有のものである。動植物の「覆われ」「固着」というあり方が、「大地」の「保蔵」に対応することに注意。

さらに「農婦」という語から「道具の道具性」すなわち「信頼性」との関連付けがなされる。「道具は、その信頼性においてこの世界に或る固有の必然性と近さとを与える」(66ページ)また、本レポート3ページの引用も参照。(ただし、後述のように、われわれは芸術作品に「安心」する(=無関心でいる)できな い。この点が「道具」と「作品」の相違。)

「作品が作品であることによって、その作品はあの空け広げられたところを空け渡す。空け渡すことは、ここではとりわけ、開けたところの自由さを解放し、そしてこの自由さをそれの諸動向の組み合わせというかたちで整備することを意味する。」(66~67ページ)

「作品は世界という開けたところを開けたままに保つ。」(67ページ)

→どうも「世界の開け」とは、そこでわれわれが生きる時空において「自由」にさまざまな出来事が起こる様を言うようである。

 

作品が作品であるゆえん。大地編

作品は「世界」を開けて立てるのだが、何をもってこちらへと立てるのか。ごく一般的にはそれは「作品素材」と呼ばれる。作品にとって「素材」とはなんだろうか。

道具において「素材」は「有用性」の内に消滅する。それは、「素材は、それが道具の道具存在のなかに埋没して[われわれの意識に対して]抵抗がなくなればなくなるほど、それだけ優れているのであり適材となる」(68ページ)からである。

それに対して「神殿-作品は、一つの世界を開けて立てることによって、素材を消滅させず、・・・素材を現れてくるようにさせる」。(68ページ)

 

ここでいう「素材」とは「大地」に他ならない。「素材」を用いることで、作品は「大地の保蔵性」を明らかにするのであるが、これはいってみれば「大地を閉じたものとして開く」ということである。大地は「覆われ」によって規定されており、それゆえ悟性的な理解を拒否するものである。芸術が開示するのはこのよ うな覆われたものとしての、理解を拒否するものとしての「大地」である。そこで芸術作品が「大地をこちらへと-立てることとは、それ自体を閉鎖するものとして、大地を開けたところの内にもたらすことを意味するのである」(71ページ)。

しかし「開示」において「素材」は単に「閉鎖性」にとどまっては居ない。

 

作品における「世界」と「大地」

「世界とは、歴史的な民族の命運となるような単純にして本質的な諸決定の広い軌道の、それ自体を開けている開け」(73ページ)

「大地とは、つねに自己閉鎖し、そのようにして保蔵するものが、何ものにもせき立てられずに現れてくることである」(73ページ)

芸術作品において、両者の反発しあいながらの統一が目指される。

本来的に「世界」と「大地」は「闘争Streit」するものであるが、そのかぎりで互いに依存してもいる(「闘争の親密さ」)。作品はこの闘争を惹起するのだが、その闘争の頂点は作品の統一に他ならない。そしてこの「闘争の親密さ」において「真理」が現れてくる。では、「真理」とはなにか。

 

「真理」とはなにか?

「真理とは、真なるものの本質を言う。」(76ページ)一般的にはそれは認識と事柄との一致を意味する。しかし、これは不十分である。というのも、こうした条件の前提として、「事柄そのものがそれ自体を事柄そのものとして示す」(79ページ)ことが必要になってくるからである。真理の「不伏蔵性」がすべて の根本をなす。では「不伏蔵性」とは?

我々は存在するものの中で生きている。そのなかには我々がよく知らないものまでもが含まれる。しかし、それら「存在するものを超えて、しかしそれから離れ去るのではなく、それに先立って、さらになお別のものが生起する」。「全体としての存在するもののただ中に、或る開けた場所Lichtungがその本質を発揮する。空け開けが存在するのである。それは、存在するものの側から考えられるならば、存在するものよりいっそう存在する。」(81~82ページ)この 「空け開け」のみが「存在するもの」を存在させる。では、どのようにして「存在する」のか?

 

「存在」の二重性

「存在する」ということは、ただ単に「空け開け」によってもたらされるのではない。「存在するものが伏蔵されてありうるのも、ただ空け開かれたところという遊動空間の中だけである。出来し、そして出会ってくるあらゆる存在するものは、同時につねに伏蔵性の内に引き籠ることによって、現前にとってのこの奇妙な敵対者を内に保っている」(82ページ)。

存在するものは常に伏蔵性=拒絶を内に有している。

「存在するものはそれ自体をわれわれに対して拒む。存在するものについてわずかに、それは存在する、としか言えないとして、我々がもっとも容易に言い当てるこの一事、一見したところもっとも些細なこのことに至るまで拒むのである。」(83ページ)

「拒むこととしての伏蔵は、まず第一にそしてただ単に、認識のそのつどの限界なのではない。それは空け開かれたところの空け開けの原初なのである」(同)

第二に「存在するものはそれ自体を[別の]存在するものの前に押し出す、一方が他方を覆い隠し、前者が後者を暗黒化し、・・・」(同)。第二の伏蔵によって、我々は見間違いや失敗をする。

存在するものは常にこの二重の不伏蔵性にさらされており、「むしろ空け開けはこの二重の伏蔵することとしてしか生起しない」(84ページ)。つまり、「開け」は恒常的な「閉じ」を前提としたうえで、そのなかで生起してくるものである。

それゆえ、存在するものには「安心できるもの」と「安心できないもの」の両面が付与される。それは「不-気味で途方も-ないものである」(84~85ページ)

だが、これは「真理」は本当のところ「不真理」だといいたいのではない。そうではなく、

「伏蔵する拒絶が、まず第一に拒むこととしてあらゆる空け開けに対して恒常的な由来を付与し、しかし偽装することとしてはあらゆる空け開けに対して惑わしの容赦ない厳しさを付与するかぎり、真理は真理そのものとしてその本質を発揮する」(85ページ)のである。

つまり、二重の伏蔵性こそが「真理」を「真理」足らしめる。「真理」の本質は「空け開け」と「伏蔵」の「原闘争」である。

この原闘争はちょうど「作品」における「世界」と「大地」の闘争に対応する。ただし、「世界」は単なる「空け開け」ではなく「自由に処理できないもの、伏蔵されたもの」に基づいているし、「大地」は単なる「伏蔵性」ではなく、「自己閉鎖しているものとして立ち現れるもの」である。

そのうえで、まとめ的に「真理が生起するこうした仕方の一つが作品の作品存在である。一つの世界を開けて立て、そして大地をこちらへと立てながら、作品はあの闘争を闘わせることなのである。この闘争の内で、全体としての存在するものの不伏蔵性、つまり真理が闘い獲られるのである」(87ページ)。

 

創作されていること

これまでの議論で見落とされていたのは「作品」が「創作されている」という点である。だが、「創作されている」ということはどのように作品に属すのか?とりわけ以下の2点が問題となる。

第一に「創作」は「製造」とどのような点で異なるのか。

第二に「作品」そのもののもっとも内的な本質は何か。

これによって、創作されていることがどのように作品に属すのか、どの程度まで作品の作品存在を規定するのかが測定される。