ハイデッガー『芸術作品の根源』(Der Ursprung des Kunstwerkes)(平凡社ライブラリー)

 

『杣道 Holzwege』(1950年)の一部として発表される。執筆時期は1935・36年。

『杣道』の序言

「杣Holzとは森Waldのより古い名称である。杣のなかには道Wegeがある。それらはたいてい雑草に覆われており、そして誰も歩いたことのない場所 で突然途切れる。/それが杣道である。/それぞれの道が別々に走っているが、しかし同じ森のなかにある。しばしば、或る道は別のそれと同じもののように見える。しかし、それはそう見えるだけである。薪職人や森番は道を熟知している。かれらは杣道の途上にあること、つまりひどい思い違いをすることauf einem Holzweg seinがどういうことかを知っているのだ。」

 

序言

・ 「根源」についての一般的な通念

「根源Ursprungとはここでは、或る事柄が、それからそしてそれによって、その事柄にほかならないものであり、まさにその事柄らしいあり方においてあるような、かのものを意味している」(10ページ)

「われわれは、或るものが、まさにそのものらしいあり方において、そのものにほかならないものであるような、そういうものを、その或るものの本質Wesenと名づける。」(10ページ)

「或るものの根源とは、その或るものの本質の由来Herkunftである。」(10ページ)

→根源を問うことは「何によってそれがそのようにあるのか」を問うことである。(だが、ここにはそもそも「そのものらしさとは何か?」という問いが胚胎している)

 

芸術作品における根源とは?

「芸術作品の根源への問いは、芸術作品の本質の由来を問う。通念にしたがえば、作品は芸術家の働きから、そして彼の働きによって生まれる。」(10ページ)

 

では、芸術家とは?

「しかし、芸術家は、何によって、そして何から芸術家に他ならないものであるのか。それは、作品によってである。」「芸術家は作品の根源である」(10ページ)

→作品を生み出す存在として芸術家は定義される。ここにはすでにハイデガー特有の循環論法が現れている。作品を生み出す存在としての芸術家によって本質付けられたものとしての作品。

「芸術家と作品とは、各々それ自体のうちで、そしてそれらの交互連関の内で、第三のものによって存在する。それが第一のものであり、芸術家Künstlerと芸術作品Kunstwerkとがその名称をそれから得ているあのものである。すなわち両者は芸術Kunstによって存在するのである。」(10ページ)

 

芸術が芸術作品と芸術家の根源であるとは?

「芸術はどこに、そしてどのようにあるのだろうか」(11ページ)

「実体」として芸術は存在するのだろうか、という問い。

芸術作品や芸術家にたいして我々が持つ、なんらかの「集合観念」(美術館に飾ってあるもの、コンサートホールで演奏されるもの、芸術大学を卒業した人た ち)のようなものかもしれない。「かりに芸術という語が集合観念以上のことを表す場合でさえ、芸術という語によって、意味されることは、さまざまな作品と 芸術家たちの現実性の基礎の上でだけ、存在できるにすぎないであろう」(11ページ)

→我々が「芸術」に近づくためには、現実に存在する「作品」「芸術家」からアプローチするよりない。しかし・・・

「あるいは、事柄は逆なのだろうか。作品と芸術家は、ただ芸術が両者の根源として存在するかぎりでのみ、あるのだろうか」(11ページ)

→再度、循環論法にいたる。「芸術を生み出す/から生み出された存在としての芸術家・作品から接近されるものとしての芸術」

だが、この「堂々めぐりを遂行しなければならない」(13ページ)。われわれの思考はまさにこの循環を辿ることによってのみ強さを得るのである。→『杣道』の序言へ

 

ハイデッガーはこの「辿り」の第一段階として作品を考察する。「作品の内で現実的に支配している芸術の、その本質を見出すために、われわれは現実の作品へと赴き、作品に対してそれ[芸術]が何であるか、そしてどのようにあるのかを問おう。」(11ページ)

 

作品とは?

作品は事物と同じように、自然に眼前的にvorhanden(手元に)存在する。それゆえ「あらゆる作品は物的なもの Dinghafteをもっている」(14ページ)し、まずもって我々は物として芸術作品に触れるのである。しかし、この「物的なもの」とは何か?同時に、 芸術作品は単なる事物ではなく、それ以上のものを有している。芸術作品が事物と「物的なもの」を共有しつつ、それとは異なっていることを明らかにせねばな らない。