カール・バルト『バルト ローマ書講解 世界の大思想33』(河出書房新社)

第12~15章「大きな阻害」、第15~16章「使徒と教会」

倫理学の問題

倫理学とは「神そのものへの思い」(403ページ)である。だが、この神への思いは「神について語ること」を阻害する。ここに一種「不可能」なものとしての倫理学が現れる。

「倫理学の問題は、このような語らいの対象がいかなる客観性、いかなる超越・背後世界でもなく、いかなる形而上学でもなく、心の体験のいかなる宝でも、いかなる超越的浅薄さでもなく、むしろ自然と文化の中に営まれる人間の周知の生活であり、しかも事実生きているかぎり、このような生活であることを明確に想起させ、厳しく教えこませる。」(403ページ)

素朴な「単純さ・実践」や安易な「超越」を否定する。あくまで彼の思考の中心は「目の前に存在しているにもかかわらず、把握しがたいもの」という矛盾にある。

「倫理学の問題はその対象を想起させるために、この語らいを阻害し、これに事態にふさわしい関係を与えるために廃棄し、これを生かすために殺さざるをえない」(404ページ)

 

二つの倫理的行動

「すべての倫理学の意味である人間への絶対的攻撃」(408ページ)。ひたすら人間の無力さが強調される。「神にのみ栄光あれ」(409)と自らを神にのみ捧げることがここでの倫理的行動。

倫理的行動は「この世」の終わりに対応する

「ある行動の倫理的な点は、その行動において――われわれはこれを「ただ」消極的にしかいいあらわせないのは理由のあることである――人間の克服が輝き出 しているというその点に実質をもつ。なぜなら、それはこの世の形態にはっきりと適応するのではなくて、その変化に適応するからである。」(412)つまり倫理とは「人間的なものの否定」の中にある。しかし、

「おそらくはそれ自体でこの世の変化に適応するような行動は一つも存在しない。」(同)

なぜなら、それは「神の行動」であって「人間の行動」ではないから。

そこで、まず第一の「倫理的行動」は思考の転換である。すなわち「人間が神に捧げられたもの」であるという認識。

 

倫理学の立ち向かう「他者」

現実世界において倫理的な行動が対象とするのは他者である。これを聖書においては「隣人」と定義する。

「隣人」とは「すべての人間である。・・・どの人間も神の前にあなたと同じであるということによってかれはあなたの隣人なのである」(キルケゴール、419)

つまり、「隣人」の概念にはあらかじめ集合的な意味がある。

「個人に「勧め」うるのは決して一人の他人ではなくて、他人たちそのものである。」

*「勧め」とはある種の倫理的な勧告

「隣人、すなわち一者とは交わりでなければならない。」(419)

「交わりとは集合体でも有機体でもない」(同)

*ロマン主義的な「有機体的な社会」観や伝統的な宗教共同体の否定

従って、「交わり」は個人の消去ではなく、「すべての個人の他者性を要求し、それぞれの他者性にその意味を与える一致である。」(同)

「それは――それぞれの他人の彼岸にある一者である。そしてそれゆえこの一者個人は他人とならんだ一者でもなければある他者の単なる細胞分裂でもない。すなわちそれは、聖徒、すなわちどの他者に対しても一者の他者性の総括であ」る。

「他者」の「他者性」を担保するのは、そのなかにある「一者」であり、「他者」に「隣人」としての意味を与えるのが「交わり」である。

 

「恵み」とは

ひとはそれぞれ神から「恵み」をうけている。バルトの考えでは、「恵み」が個人を個人たらしめる。それゆえ、「恵み」はすべての人間が同一のものとして扱われるような社会に反するものである。

*ここでも有機的な共同体は否定される

「いわゆる「寛容」の徳を実行することなしにわれわれはなにもやっていくことができないが、その徳はその本来的な交わりを破壊する性格を持っていて、少なくとも神の阻害に対する防禦体制と解されなければならない。」(421)

「われわれがそこで一体となっている一者は不寛容そのものである」。なぜか

「それはかれがあらゆる疎外、裂け目、党派を超えた平和であるがゆえに」である。

現世的な意味での共同体は棄却され、個人に焦点が当てられる。

「ここで役立つのは、各人がまさしく個人として、まさしくその個人たることのかつて例のない特異性において人間が神において一致していることの比喩である、したがって各人は個人としては、その恵みの授与がそれぞれ異なっているためにもかかわらずというより、むしろ異なっているために唯一のものでしかありえず、また唯一のものを欲し、またなしうるにすぎないということの想起である。」(421)

「恵みとはあきらかに、ある権威が、なにかしら堂々とした、畏敬すべきものが登場するということを意味する。恵みとは明らかに、うち開いた、偏狭でない、かくしだてをしない心をもつことを意味する。」(422)

 

第二義的倫理的行動とは

第一義的倫理的行動=思考の転換にもとづいて、人間世界においてなされる行為が第二儀的倫理的行動。思考の転換を果した人間は他者に対して「恵み」を行う。

「分け与えるべき者は、無邪気に、権威の地位にある者は、真剣に、慈善をなす者は、快くせよ」(424)。なぜそのような「分け与え」を行うのか。

「恵みとは明らかに「受けるよりは与えるほうがさいわいである」ということを意味する」。

「分け与え」=アガペーは人間の克服を目指している。

アガペーはエロスと対極にある。エロスは「人間共同体」のなかに規定されている。「エロスは他者においてただ自分そのものを見るにすぎない・・・しかし愛はたえず他者を選び棄却することである。」(429)つまりエロスにおいては「他者性」が棄却されている。

これに対しアガペーは「他者において一者を求め、一者に仕え、一者を考える」(429)

また、倫理的行為のなかには「無欲」「無行為」も存在している。「それはこの建設に対してはいつもなにかそれを遅らせることをいわねばならない。」(437)建設に対する不信。

「キリスト教は天地のあいだにある人間の状態をあまりにも危険なものとみなすため、・・・ありとあらゆるあの重要なものの重要性を真面目に信ずることができない。」(437)

だが、こうした人間の「高さ」と「低さ」は相対的で絶えず変転するものである。したがって、「われわれのうちのある者や何人かの者に権能をあたえること」は避けられる。

「より高い正義を立てようと欲することはまさしくそれを放棄することである」。(446)自己の側に正義があると思ってはいけない。

「われわれの行為は避けようもなく圧迫することによって他者を「敵」としての地位からおしのけるべきである。」(447)「敵」のなかにいる他者をその不可識性から引き出す。髪に打たれた敵と自己を連帯させること。これのみが「善」である。

それゆえ「悪」によって「悪」に報いてはならない。

 

無行為という行為

現世において、倫理的なものを「勧め」る他者中の「一者」は「個人の多数」において生じうる。ここから、既に成立している国家、法、教会、社会こそが倫理的問いに対する答えを持っているとする考えが生じる。一種の保守主義。

この保守主義を受容するか拒絶するか。「もしわれわれが前者を選ぶなら、われわれは明らかに合法性の原理を選ぶ。もし後者を選ぶなら、明らかに革命の原理を選ぶ。」(449)

「しかしわれわれは神の栄光を実証するものとして、このテキストを軽率に読む人、或いはむしろ・・・反革命的読者が希望するように――たとえば前者を選ばない――がしかし、既に非常に多くの――ローマ書の他の読者がひそかにこの場所で見出そうと望んでいた後者を選ばないで、・・・後者の否定を選ぶ。非革命だ、とわれわれはいう。これとともにわれわれは暗にすでに非合法だ、といったことになる。」(449)

*これまでバルトは盛んに「変化」について述べてきたことに注意。

そこでの焦点は「人間がこれらの秩序を破らないということ、したがってこれらの秩序に対する人間の無行為に」(450)関心がある。

革命主義者のメンタリティーとは「転覆、革新、価値転倒という巨人主義」(450)。「革命的巨人主義はその根原においては反動的巨人主義よりなおきわめて真理に近いのであるから、それだけいっそう危険であり神にそむくものであるといわなければならないであろう」(450)

*これは、より神にちかい存在としての「教会」を否定したときの論法と同じ。

では、保守主義を選ぶのか。

 

秩序とは

しかし、既に述べたように秩序とは「人間が偽善的な仕方でもう一度自分の決着をつけたということを意味する」(450)。それは単に各々の秩序の善悪ではなく「秩序の存立することが問題」(451)である。

なぜなら「この秩序において多数者は共謀して、自分たちの口を通して語るのはあたかも一者であるかのように語る」(451)から。

民主主義的論理に対する否定。「一対九十九」のようなきわめて民主的に見える状況こそ、バルトにとっては最も「不義」である。

「人間は人間とくらべて客観的に正しいという権利はない。そしてそのさい人間がとりかこまれうる客観性という外見が大きければ大きいほど、他者に加える不義はいっそう大きい。」(451)

それゆえ「秩序」は悪を伴っているが、これを打ち負かそうという革命的人間もまた「悪に負かされて」いる。「かれもまた人間のかかげえない要求をかかげる。かれもまた義を実現させる。」(452)

「善において悪に勝ちなさい」とは「現存秩序の中でまた革命の中で勝利する人間の終極」(452)を意味する。それは「謎めいた無行動」によって現れる。つまり「怒らず、攻撃せず、破壊しない」(453)。

そして、実際には革命家の勝利は現存秩序の安定に寄与する。なぜなら人間が義のために行動することは最終的に訪れる神の裁きを遅延するから。人間を廃棄できるのは一人神のみ。

*バルトはここで「保守主義」「革新主義」というイデオロギー的な二元論そのものを「人間」的なものとして退けているように見える。

ローマ書において勧められている「秩序に従うこと」とはしかし、単なる秩序の承認ではない。「現存状態の歌も響きも幻もない[表立ったものではない]承認 がここですすめられているが、その承認以上に精力的に現存状態を転覆するものは存在しない。国家、教会、社会・・・からその激情を奪えば、あなたがたは もっとも確実にかれらを飢え疲れさすのだ」。「非革命は真の革命のもっともよい準備である」(455)。

「善行とはその概念からいって、主体である「この人間」を廃棄することであり、・・・一切の行為中の無行為である」(458)。

 

無行為を超える行為

「われわれが愛を「大きな積極的可能性」と呼ぶのは、愛においては、まさしくエートスの革命的意味があらわれてくるからであり、事実愛においては現存状態 を否定し、破壊することが問題になるからである。」(463)「なぜならわれわれがたがいに愛しあうかぎり、われわれは現存状態そのものを維持したいと欲 することはできないからである。」(同)

 

「あなたの隣り人を愛しなさい」という言明について。

「隣り人」とは「私がその人に対していかなる他者でありつづけることもできないそういう他者、私が神を愛するかぎりで、また確かにそうであるかぎり、「自 分自身を愛するように」愛さなければならないそういう他者である」(465)。「愛」において「私」は他者のなかに「一者」を見ている。それゆえ、

愛は偏愛ではない。愛は「調停的永遠的正義」である。(466)

「愛はあらゆる所与の徹底的な転覆である、それというのも愛はあらゆる所与のなかにひそむ前提=所与を徹底的に承認することだからである。」(467)

それは「愛が誤解しないでつねに個人と多数者の中の一者に語りかけることによって終極である」(467)から。そして、それゆえに愛は「悪の領域を断然凌駕する」。

それゆえに現世においては徹底的な愛も瞬間的=不可能であるが、それゆえに「愛」は真に革命的である。「愛は原則的に時間の中にいかなる永続的なものも、いかなる「現存するもの」もつくろうとしない。」(468)

 

自由な生の試み

「パウロ的に生きるとは自由に生きることである。」(473)それは「あらゆる側面から神に攻められ、神のもとではあらゆる点で廃棄されていきること、たえず死を想起し、つねに生を指示しつつ生きること、いたるところでわれわれの人間的制約、束縛、細事といった洞穴から駆り立てられ、そしてまさにそれゆえ、確固たるもの、生き生きとしたもの、永遠なるものを直視しつつ生きることである。」(同)しかし

そうした「強き者」は否定される。ここでは、ローマ書自身がローマ書に反対する。

「読者がこの警告によってもう一度、自分が理解しとらえたと信ずる一切のものを手から奪いとられることに耐えるかどうか」(474-475)。

 

真の「強さ」とは

「強くあるとは、人間が人間として究極の決して避けることのできない危機の中にいるということを認識することである。」(481)

「強い者」は「いたるところにいるがゆえにどこにもいない」(494)。かれは「立場」というものを持たない。

*これはいわば「なかば死んでいる」状態か?

 

最後にローマ書とは

「ローマ書は決して新しい真理を提示するのではなくて、古い真理を、決して異質の真理ではなくて、既知の真理を、決して個人的な真理ではなくて、普遍的な真理を提示する。」(495)

信じるに足る「パウロ主義」なるものは存在しない。それはいかなる権威にも訴えることがない。「それはだれもがすでに聞いたことをいいあらわす。それはだれもが自分自身で語ることのできることを語る。」(496)

「神学は無限に多くの企図をもち、最高の成果を確信して、まったくなんの企図もなくあらわれねばならないし、どのようなありそうな成果そのものをも決して承認してはならない。」(499)

「かつてローマ書を要求しうるような一般読者が存在していたように、ローマ書が彼ら自身の問いに対する答えとなったような一般読者が存在していた」。「この一般読者にとっては神学は(この神学だ)ただちに現実的主題そのものであったように見える。」(503-504)

ローマ書は「生」の問題に列なっている。第12章の冒頭を想起せよ。