セーレン・キルケゴール『死にいたる病』[1849](桝田啓三郎訳:ちくま学芸文庫)
緒言
題名は「この病は死にいたらず」(ヨハネ伝11.4)よりとられた。
「ただキリスト者だけが、死にいたる病とはどういうことなのかを知っている」(p22)
〔コメント〕
この書物を聖書の中の文章に対する注解、もしくはキリスト教信者に対する説教とみなすだけでよいのか?
第一編 死にいたる病とは絶望のことである
A.絶望が死にいたる病であるということ
A 絶望は精神における病、自己における病であり、したがってそれには三つの場合がありうる。
1.絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)
2.絶望して、自分自身であろうと欲しない場合(本来的な絶望の第一の形態)
3.絶望して、自己自身であろうと欲する場合(本来的な絶望の第二の形態)
【定義】
人間は精神である。
精神とは自己である。
自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。
人間は、無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との綜合、要するに、ひとつの綜合である。(p27)
【他者への依存性】
「もし人間の自己が自分で自己を措定したのであれば、その場合には、自己自身であろうと欲しない、自己自身から脱かれ出ようと欲する、というただ一つの絶望の形式しか問題とはなりえないで、絶望して自己自身であろうと欲する形式のものは、問題とはなりえないであろう」(p28)
「自分自身の力で、ただひとり自分の力だけで、絶望を取り除こうとするとすれば、そのとき彼は、なお絶望のうちにいるのであって、自分では全力をふるって努力しているつもりでも、努力すれば努力するほど、ますます深い絶望のなかへもぐり込むばかりである。」(p29)
「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は、自己を措定した力のうちに、透明に、根拠をおいている」(p30)
B 絶望の可能性と現実性
【絶望とは】
まったく弁証法的に、長所でもあり短所でもある。
「この病にかかりうるという可能性が、人間が動物よりもすぐれている長所なのである。そしてこの長所は、直立して歩行することなどとはまったく違った意味で、人間を優越せしめるものである。なぜかというに、この長所は、人間が精神であるという無限の気高さ、崇高さを指し示すものだからである」(p30)
「このようにして、絶望することができるということは、無限の長所である。けれども、絶望しているということは、最大の不幸であり悲惨であるにとどまらない、それどころか、それは破滅なのである」(p31) → 上昇と下降
【病人と絶望者との相違】
「病人よ、きみはいまこの瞬間にこの病気を招き寄せているのだ」(非人道的)
「(略)絶望者は、絶望している瞬間ごとに、絶望をみずから招き寄せつつあるのである」
「絶望は絶えず現在の時に生ずる、そこには現実の後に取り残される過去的なものといったようなものはなんら生じない。絶望の現実的なあらゆる瞬間において、絶望者は、一切の過去的なものを、現在的なものとして、可能的に荷なっているのである」(p34)
C 絶望は「死にいたる病」である
「絶望の苦悩は、まさに、死ぬことができないということなのである」
「さてこの最後の意味において、絶望は死にいたる病である、永遠に死ぬという、死にながらしかも死なないという、死を死ぬというこの苦悩に満ちた矛盾であり、自己における病である」(p36)
「絶望するものは“何事か”について絶望する。一瞬そう見える、しかしそれは一瞬だけのことである。(中略) 実は“自己自身”について絶望したのであって、そこで彼は自己自身から脱け出ようと欲しているのである」(p38)
【絶望の公式】
「自己について絶望すること、絶望して自己自身から脱け出ようと欲すること」(p40)
B.この病(絶望)の普遍性
「(略)その内心に動揺、軋轢、不調和、不安といったものを宿していない人間など、一人もいないと言うにちがいあるまい。それは知られない或るものに対す る不安、あるいは、人間があえて知ろうとさえもしない或るものに対する不安であり、人世の或る可能性に対する不安、あるいは、自己自身に対する不安なのであって、(略)」(p44)
「また、この通俗的な考察は、(中略)絶望していないということ、絶望していることを意識していないということ、それこそが絶望の一つの形態にほかならないことを、見逃しているのである」(p46)
「さらに通俗的な考察が見逃しているのは、絶望が、病に比べられた場合、普通に病と呼ばれるものとは違った仕方で弁証法的であるということである」
「絶望が表われるやいなや、その人はそれまで絶望していたということが明らかになるのである(p48)
「その弁証法のうちに永遠なものを何ほどか含んでいるのである」(p49)
「人生を空費した人間というのは、人生の喜びや人生の悲しみに欺かれてうかうかと日を送り、永遠に、断乎として、自分を精神として、自己を精神として、自己として自覚するにいたらずにおわった人だけのことである」(p53)
【永遠について】
「ああ、しかし、いつか砂時計が、時間性の砂時計がめぐり終わるときがきたら、俗世の喧騒が沈黙し、休む間もない、無益なせわしさが終わりを告げるときがきたら、君の周囲にあるすべてのものが永遠のうちにあるかのように静まりかえるときがきたら、そのときには君が男であったか女であったか、金持ちであったか貧乏であったか、他人の従属者であったか独立人であったか、幸福であったか不幸であったか、(中略)このようなことにかかわりなく、永遠はきみに向って、ただ一つ、次のように尋ねるのだ、きみは絶望して生きてきたかどうか」
「(略)永遠はきみをきみの自己もろとも絶望のうちにかたく縛り付けてしまうのだ」(p54~55)
[コメント]
通俗的な考察や心理学者の考察に対する批判は、どれほど有効なのか。
また、絶望とは一部の人間だけが経験するものではなく、全く普遍的なものとしているが、異教徒の人間には当てはまるのか。
そして、キリスト者(真の信者)との関係はどうなのか。「ほんとうに絶望していない人は、きわめて稀でしかないからである」(p53)。全体を通して読むと、真のキリスト者は、絶望しないということになっているようである。
C.この病(絶望)の諸形態
A 絶望が意識されているかいないかという点を反省せずに考察せられた場合の絶望
a 有限性―無限性という規定のもとに見られた絶望
「自己は無限性と有限性との意識的な綜合であり、この綜合はそれ自身に関係する綜合であって、その課題は、それ自身になるということであるが、これは神への関係をとおしてのみおこなわれうることである」(p58)
α 無限性の絶望は有限性を欠くことである
「無限性の絶望は、想像的なもの、限界のないものである」(P60)→p30も参照せよ。
β 有限性の絶望は無限性を欠くことである
「無限性を欠くことは、絶望的な偏狭さ、固陋さである」(p64)
「絶望せる固陋さとは、原始性を欠いているということである」(p65)
b 可能性―必然性の規定のもとに見られた絶望
α可能性の絶望は必然性を欠くことである
「自己に欠けているものは、いうまでもなく、現実性である」
定式化 現実性=可能性+必然性、 必然性≠可能性+現実性
「自己がこのように可能性のなかをさまよい歩くのは、単に力の不足なのでもない。(中略)そこに欠けているものは、実は、服従する力なのである」(p71)
β必然性の絶望は可能性を欠くことである
「決定的なことは、神にとっては一切が可能である、ということである
「信じるとは、まさに、神をえるために悟性(しょうき)を失うことを言うのである」(p74)
「可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが必要なのだ」(p75)
「決定論者、宿命論者は、絶望しており、絶望者として、その自己を失っている」(p77)
「俗物根性や卑屈さにも本質的に可能性が欠けている」(p79)
B 意識という規定のもとに見られた絶望
【悪魔的なもの】
「悪魔の絶望は最強度の絶望である」(p81)
a 自分が絶望であることを知らないでいる絶望
「自分が絶望していることを知らないでいる絶望者は、それを意識している絶望者に比べると、真理と救済から、否定ひとつ分だけよけいに隔たっているにすぎない。絶望それ自身はひとつの否定性であり、絶望についての無知はまたひとつの新しい否定性である」(p85)
[コメント]
ここで悪魔がでてくる。『不安の概念』第四章二・善に対する不安、において悪魔的なるものについてより詳細な説明がなされている。私見では、キルケゴールの悪魔というものは、人を誘惑し堕落させる外的な存在というよりも、人間そのものが内に秘めている可能的な状態に思える。
また、「漠然と何か抽象的普遍的なもの(国家、国民など)」(p88)と書かれているが、キルケゴールと政治的なものの関係性とはどのようなものなのか考えてみたくなる。ちなみに、デンマークでは1848年に立憲君主制が樹立された。
b 自分が絶望であることを自覚している絶望
α 絶望して、自己自身であろうと欲しない場合、弱さの絶望(女性的)
1 地上的な或るものについての絶望
「純粋な直接性、あるいはいくらかの反省を含む直接性」(p97)
「この形態の絶望は、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、もっと低い場合は、絶望して一個の自己であろうと欲しないことである、あるいは もっとも低い場合は、絶望して自己自身とは別のものであろうと欲すること、新しい自己たろうと願うことである」(p101)
「地上的なものについての絶望、あるいは地上的な或るものについての絶望は、もっとも一般的な種類の絶望であり、とりわけ、或る量の自己反省を伴った直接性という第二の形態のものがそうである」(P108)
[コメント]
ここで或る量の自己反省という言葉がでてきた。量的な規定と新しい質との関係(つまり量の質への転換)については、『不安の概念』第一章二・「第一の罪」の概念において、という章などで触れられている。第一の罪とはもちろんアダムの罪のことである。
2 永遠なものに対する絶望
「さて、この絶望は著しい進歩である。(中略)これは自己の弱さについての絶望である。しかし、この絶望も、やはりなお、弱さの絶望という本質規定のうちにとどまるものであって、βとは異なっている」(p116)
四つの上昇について(P117.118)
β 絶望して、自己自身であろうと欲する絶望、反抗(男性的)
「弁証法的に一歩を進めて、このような絶望者が、なぜ自分は自己自身であろうと欲しないのかというその理由を意識するにいたるならば、事態は逆転して、反抗が表われる、というのは、このときこそ絶望者が絶望して自己自身であろうと欲するのだからである」(p126)
自己についての意識の上昇(p127)
悪魔的なもの(p135)
「弱さの絶望者は、永遠が自分にとってどのような慰めをもっているかについて、まるで耳をかそうとしないが、このような絶望者(β)も、それに耳をかたむけようとしない。しかし、その理由は違っている、後者は、全人世に対する抗議なのであるから、そのような慰めは、まさに彼の破滅となるだろうからなので ある」(P139)
ブックガイド
キルケゴールに興味を持った方は、ハイデッガーやサルトルに影響を与えたという『不安の概念』(岩波文庫で入手可能)を読み進めるとよいでしょう。『死にいたる病』に出てくる概念をより詳しく論述した所もあるので、二冊で一つの書物と考えることができます。
また、神学的な側面に関心のある方は、著作集17巻『キリスト教の修練』(白水社ほか)がお勧めです。雑誌では、『現代思想2014年2月号』(青土社)でも特集されています。