ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(ちくま学芸文庫)第2部

第二論文 サドの至高者

「サドは、登場人物たちの単独性を強調する」(p283)

「サドの道徳は「絶対的な孤独という根本的な事実に基づいている」(p285)

 →しかし・・・

「一個の人間の自立は、相互依存に与えられた制約よりましなものではあるが、しかし相互依存がなければ、いかなる人間の生もありえないのである」(p285)

 →だが・・・

「そもそも私たちの内には過剰(エクセ)の瞬間があるのだ。この瞬間は、私たちの生が拠って立っている土台を危険にさらす」「過剰の瞬間を否定すると、私たちは自分の何たるかを見落とすことになるのである」(p285)

 →ではサドの立脚している過剰の瞬間の孤独とは何か?

 

「性の快楽はそのあとに発展がなく、ただ性の快楽をもたらす過剰への欲望によって欲せられているからである」「彼は、性の快楽は罪悪に染まっていればいるほど強烈になると、罪悪が認容しがたいものであればあるほど性の快楽は大きくなると断言している」「他者を否定することは、一人の人間からすれば、自分の生が拠って立っている原則を過剰に否定することなのだ」「罪悪によって人間は性の快楽の最も大きい満足へ、最も激しい欲望の充足へ至るのであるから、罪悪に対立して罪悪の享楽を妨げる人間のあいだの連帯を否定すること以上に重要なことがあるだろうか」(pp286-287)

 →罪悪=他者の否定=自分の拠って立っているところのものを過剰に否定することが性の快楽であり、またその逆も真である。そのとき生の、性の過剰な瞬間が生じる。

 

「私たちは、財の増加が規則になっている世界から最も遠いところにいる感覚を持ちたいと願っている」「私たちは逆転した世界、裏側の世界を欲しているのだ」(p289)

 →私たちはサド的世界を欲している?

 

「サドの理論はエロティシズムの破壊的な形態である。道徳上の孤立は制約の解除を意味している。つまり、この孤立は消費の深い意味を伝えているのだ。逆に、他者の価値を認める者は必然的に自分を制約することになる」(p289)

「人間に対する人間の尊敬は、私たちを、隷属性のサイクルへ放りこむのだ」(p290)

「真の人間は、自分が一人であることを知っているし、一人であることを受け容れている。(略)自分以外の人間に関係しているものすべてのものを、真の人間は否定する」「彼はこの破壊の作業から真のエネルギーの端緒を引き出しているということである」(p291)

 →サドの理論は労働=隷属のサイクルからの解放としての道徳の破棄=人間的制約の解除を意味する。そこにおいてサドの孤独が現れてくる。そしてこの孤独による人間的制約の破壊作業からサドの「真の人間の」エネルギーは引き出される。

 

「無感動は、ただ単に《寄生虫的な》感情を破壊することだけでなく、いかなる情念に対してであれその自発性に対立するということからも成り立っている」 「《感覚帯の不感不動において犯される》罪悪、すなわち闇に包まれていて秘められた罪悪は、すべてに勝って重要なのだ。というのも、この罪悪は、自分のなかでいっさいを破壊したのちに莫大な力を蓄積した魂のなせるわざだからである」(pp291-292)

「自分の無感動性を、つまり感動の否定、無化を享楽しようと欲し、獰猛になったのだ。残虐さとは、したがって自己否定のことにほかならない」「《魂は一種の無感動の状態に入っていくのだが、この無感動はさらに快楽へ変容していく。弱さによって得られる快楽より何千倍も神的な快楽へ変容してゆくのだ》」 (p293)

「存在というのはまた存在の過剰でもあり、不可能なものへの上昇になるのである。過剰は、性の快楽が性の快楽自体を乗り越えて感覚与件にもはや限定されなくなる段階へ人を導く」(p293)

 →罪悪、残虐さの極限としての無感動は、自己否定(=自我の消滅?)に至り、そこにおいて孤独としての性の快楽は神的なもの、感覚を超えたものへと上昇する。

 

「他者の否定は、極限においては自分の否定になる。この暴力的な運動においては個人的な享楽はもはや重要ではなくなる。ただ罪悪だけが重要なのだ」「罪悪が罪悪の頂点に達するかどうか、それだけが大切なのである」「この要求は、個人が始動させたにもかかわらず個人から離れて個人を乗り越えてゆく運動を、個人の上に位置づける」「非個人的なエゴイズム」(p296)

「この否定者は、この世界のなかで、自分以外のすべてのものを否定する極限的な否定として存在し、しかし同時にまたこの否定者自身も、この極限的な否定を免れることはできないのである」「この否定者がおこなう否定の行動こそが、巨大な否定の激しさに対する唯一の防御になっているのだ」(p298)

 →孤独の頂点を超えたとき、それは個人(サド自身)を超えた至高の領域に達する。

 

「「巨大な否定の」というのは、非個人的な否定の、非個人的な罪の、ということだ!それらの意味は、死を超えて、存在の連続性へ私たちを引き戻す!」

「この至高の人間は、その常軌逸脱のなかで、罪悪の連続性に自分を開いたのである!この連続性は何者をも超越しない。この連続性は没落してゆくものを乗り越えたりしない。(略)際限のない連続性を際限のない破壊に結合したのである」(pp298-299)

 →現世に留まった状態、つまり罪悪を連ね続けることによって、超越あるいは没落することを否定し(つまり孤独な自分に留まり続けた状態で)、破壊によって「連続性」を現世に出現させる。