ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意思』(新潮社)

第四章「性的欲望の装置」

第一節:目的

「我々は性がどうなっているのかを知るべく強いられているが、性のほうもまた、我々がどうなっているかを知っているはずだと疑われている」(p102)

性は数百年来、「知の請願」の中心にすえられてきた。西洋世界においては、性は人間を形作る根源的な原因と見なされてきたが、この「真理」への意志、この性にたいする知の請願の歴史を書かねばならない。

 

権力を抑圧のメカニズムとして表象するのは誤りであり、「権力の関係は欲望のある所にすでに存在」(p107)し、また欲望は権力の内でのみ存在しうる。

王政的、法律的に権力を捉えるのではなく、「権力の新しい仕組み、すなわち、法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によっ て、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」(p116)において捉える。

 

第二節:方法

「法律的権利をモデルとも基準とも見なさないような権力の分析学」「権力を、法や禁忌や自由、主権といった言葉で考えるのをやめてみよう」「歴史分析が、 性に関する本物の「テクノロジー」の存在という、単なる「禁止」の作用より遥かに複雑で、とりわけ遥かに積極的なものの存在を明らかにしている」 (p117-118)

ここで探求する権力とは、「特定の国家内部において市民の帰属・服従を保証する制度と機関の総体としての「権力」のことではない」「一つの構成分子あるいは集団によって他に及ぼされ、その作用が次々と分岐して社会体全体を貫くものとなるような、そういう全般的な支配の体制でもない」(p119)

権力とは「無数の力関係」であり、「行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなもの」であり、またそれらが動くときに生ずる「勝負、ゲーム」であり、力関係を切り離す「ずれや矛盾」、そして力関係が社会的に実体化される「戦略」であり、「主権の唯一の中枢」に中心点が存在するのではなく、至る所から生じ連鎖していく「錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである」(pp119-121)

「権力は無数の点を出発点として、不平等かつ可動的なゲームのなかで行使される」(p121)

「権力の関係は他の形の関係」「に対して外在的な一にあるものではなく、それらに内在する」「それが働く場所で直接的に生産的役割を持っている」(p121)

「権力は下から来る」「社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっているのだ」「これら断層の効果は、局地的対決に働きかけて」エコノミーを活動させる。「大規模な支配とは、これらすべての対決の強度が、継続して支える支配権の作用=結果なのである」(p121-122)

「権力の関係は、意図的であると同時に、非ー主観的である」「隅から隅まで計算に貫かれている」が、「権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に由来することを意味しない」「権力の合理性とは」「戦術の合理性であり」「最終的には全体的装置を描き出すところのものだ」「しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表した者もほとんどいない」「無名でほとんど言葉を発しない大いなる戦略」(p122-123)

「抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してない」「なぜなら人は否応なしに法に従属させられているから」「権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない」「それ[抵抗]は権力の関係におけるもう一方の項であり、そこに排除不可能な相手として書き込まれている」「群をなす抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである」「これら抵抗点の戦略的コード化が、革命を可能にするのだ」(pp123-124)

「これらの権力の関係が、この種の言説を可能にし、また反対に、どのようにしてこれらの言説が、それら権力の関係に対して支えとなるのか。どのようにして、これら権力の関係は、その行使そのものによって変更されるに至るのか」「どのようにして、これら権力の関係が、ある一つの総合的戦略の論理に従って互いに結び付けられるのか」(pp125-126)

それを見極めるために「性についての言説の夥しい産出を、多様かつ流動的な権力関係の場に沈めてみることだ」(p126)

そのための4つの規則

「権力の要請」「が、禁止のメカニズムを作動させるのだ、などとは考えないこと」「性的欲望が認識の領域として成立したのは、それを可能な対象として制定した権力の関係を出発点としてである。また、逆に、権力がそれを標的と見做すことができたのは、まさに、知の技術や言説の手続きが性的欲望にそのような価値を与えることができたからに他ならない。知の技術と権力の戦略の間には、いかなる外在性の関係もない、それは両者がそれぞれに特殊な役割を担い、互いの差異を出発点として相互に関係付けられる場合ですらもそうである。従って、〈知である権力〉の「局地的中枢」と呼び得るものから出発することが許されよ う」(pp126-127)

「「権力の分配」とか「知の獲得」とかが表現するのは、結局のところ、最も強い要素の集中的強化とか、関係の逆転、あるいは両項の同時的増大といったプロセスについての、ある瞬間についての切断面以外の何物でもない。〈知である権力〉の関係は、既成の配分形態ではなく、「変形の母型」なのである」 (p128)

マクロ的な戦略も、ミクロ的な戦術も、お互いに不連続ではないが、しかし、拡大・縮小の関係にもない。この戦略と戦術はお互いに条件付けし合いながら大規模な「作戦」を支える。

「言説というものを、一連の非連続的断片として、その戦術的な機能が一様でも一定でもないものとして構想しなければならない」「言説の世界を、受け入れられた言説と排除された言説とに、あるいは支配する言説と支配される言説とに分割されたものとして想像してはならないのだ」

言説は権力の道具でありかつ抵抗の道具でもあり、権力を強化し、かつそれを妨げる。

「同じ一つの戦略の内部で、相異なる、いや矛盾する言説すらあり得る。反対に、それらの言説は、相対立する戦略の間で姿を変えることなく循環することもあ り得る」「これらの言説に問いかけねばならぬのは」「言説の戦術的生産性」「と、その戦略的統合なのである」(pp129-131)