ハイデッガー『芸術作品の根源』(Der Ursprung des Kunstwerkes)(平凡社ライブラリー)

第1章 物と作品

「物が物であるかぎり、物は真実のところ何であるのか。われわれがそのように問うとき、われわれは物の物存在(物性)Dingheitを熟知しようとしている。」(17ページ)つまり、存在するものすべてが共有する、あり方のこと。

物性とは?

存在するものすべては「物」である。そのなかには「それ自体自己を示さないもの」、「それ自体出現しない物」、カントの「物自体」、「神」(18ページ) すらも含まれる。しかしここでは、「単なる物」についてのみ、考察する。それは「単純に物であってそれ以上の何ものでもないような純粋な物」(19ペー ジ)、また「わずかに物であるにすぎないもの」(19ページ)である。それは機能や目的、意味によって規定されていない、ありのままの「物」である。

 

物についての考察、歴史的に

①諸属性を担う「基体 Substanz」としての「物」

「石が硬い」「水が冷たい」といった陳述命題において、「硬い」や「冷たい」といった属性は「石」「水」に帰属するものとみなされているようにみえる。そ こからさも「石」や「水」がある種の「基体」として、諸属性をまとめているかのように考えられる。これはSubjectが「基体」という意味と「主語」という意味を両方持っていることから来る「誤解」である。だが、感覚し得ない「基体」を想定するのは「物への襲い掛かり」(外的な基準で物を判断すること か?)でしかない。

 

②受容諸器官において与えられたものの多様性の統一としての「物」

より近代的な「物」観。感覚器官によって捉えられるものとしてのみ「物」を捉える。即物主義的。しかしわれわれは単に感覚のみで「物」を体験しているわけではない。たとえば、音はそれ自体としては単なる空気の振動であるが、われわれは音を聞く際、直接感覚されていない音源を聞いているのである。つまり戸が鳴っているのであり、暴風が鳴っているのである。

 

ハイデガーによれば、いずれの解釈も極端である。物はあくまで「それの<それ自体の内に安らうこと>のままに放置され続けなければならない」(28ページ)。「物そのものは物に固有な常立性Standhaftigkeitにおいて受け取られるべきである。」(同)

 

③形作られた質量としての「物」

伝統的に存在する「質量」と「形相」の対概念を参照する。この場合、「物」とはある「質量」(ないし「素材」)が特定の「形相」(ないし「形式」)を備え たものである。この考えは、とりわけ美学の領域において、長い伝統を有しており、芸術作品にも適応可能なように見える。だが、われわれはこの「物」概念を も信用しない。

というのも、皮肉なことに「質量-形相」関係が「芸術作品」にも「単なる物」にもあてはまりうることが、それがいずれの本質に関わるのか、見えづらくしてしまうためである。したがって、この「物」観もあらためて問い直されなくてはならない。

 

・「質量-形相」関係の問題

質量が形式を規定するのか、形式が質量を規定するのか。一義的には「形相とは・・・或る特別な輪郭、すなわち塊という輪郭を結果としてともなうような質量 諸部分の、空間的・場所的な配分と配置を意味する」(31ページ)。しかし、道具の場合はどうか。「これらの場合、輪郭としての形相さえ、まず第一に質量の配分の結果なのではない。形相が逆に質量の配置を決定するのである」(同)。さらには「形相は、そのうえ、質量のそのつどの特性と選択を規定する」 (同)。

例えば・・・斧のためには硬質なもの、靴のためには丈夫で柔らかいもの。

道具の「質量-形相」関係を規定しているのは「有用性Dienlichkeit」に他ならない。有用性のもとにある存在するものは、つねに製造による「生産物」である。従って、じつは「質量―形相」関係は「単なる物」概念の規定ではなく「道具」概念の規定であることがわかる。

「道具」的な物概念はいかにもすべての存在するものの唯一の体制とみなされてきた。たとえば、神がなんらかの「目的」をもって「諸物」を創り出したという 神学的前提に基づき、自然を一種の道具とみなす考え方がそれである。これは中世のトマス哲学から近代のカント哲学まで広くいきわたった通俗的自然観であ る。結局、この見方もまた「単なる物」への「襲い掛かり」に他ならない。

 

①~③いずれもが、われわれが物の物性、作品の作品性、道具の道具性をそれぞれ考察する際の妨げとなっている。それは、①~③がそれらすべてに当てはまってしまうが故にである。しかし、われわれはそれぞれについて「それがあるがままに」(37ページ)考察を進めなくてはならない。なかでも最も考察しがたい のが「物の物性」であるが、それはこれが「それ自体の内に安らって何ものへもせき立てられな」いでおり、「閉鎖的」な性格を有しているからである。この 「物の閉鎖性」についてはあとで考察されるが、さしあたり、われわれにとって最も手近な「道具の道具性」から攻めてゆくこととする。

 

道具の道具性

道具はその「有用性」によって規定される。しかし、この「有用性」とは何か?たとえば靴について考えてみたい。靴は履かれることによってその「有用性」を満たすと考えられる。この場合、靴がより機能していればいるほど、それを履く農婦は靴のことを意識しない。というのも、我々が靴を意識するのは、それがぶかぶかだったり硬すぎたりして「有用性」を満たさないときだけだから。

だが、絵画に描かれた靴はどうだろうか。ゴッホの描く靴には背景が描かれておらず、それゆえ「用途」への注意を忘れさせる。とはいえ、それにもかかわらず。「靴という道具の履き広げられた内側の暗い開口部からは、労働の歩みの辛苦が屹立している。・・・この道具を貫いているのは、泣きごとを言わずにパンの確保を案ずることであり、困難をまたも切り抜けた言葉にならない喜びであり、出産が近づくときのおののきであり、死があたりに差し迫るときの戦慄であ る。」(42~43ページ)

そこからやや唐突に一つのテーゼが導かれる。「この道具は大地Erdeに帰属し、農婦の世界Weltの内で守られる。このような守られた帰属からこの道具そのものが生じ、それ自体の内に安らうようになるのである。」(43ページ)

 

これは、絵画においてのみ見受けられることだろうか?そうではない。農婦もまた観察や考察なしに、上記のことを知っているのである。農婦が道具を安心して 使用できるのは、そこに「信頼性Verlässlichkeit」をみてとっているからである。信頼性は道具の「本質的な存在の充実」である。「この信頼性の力によって農婦はこの道具によって大地の寡黙な呼びかけの内に放ちいれられており、この道具の信頼性によって彼女は自分の世界を確信するのである」 (43~44ページ)。「世界と大地とは、この農婦にとって、・・・ただそのように、すなわち道具において、そこにあるdasein」(同)。丁寧に言えば、「道具の信頼性がはじめて単純な世界にそれ[世界]が保蔵されていることを与え、大地にそれ[大地]が恒常的に押し迫る自由を確保するの」(44ペー ジ)である。

→このあたりの記述は、この段階では完全には理解できない。ただ、「世界」と「大地」が鍵語的かつ二項対立的に与えられていることはわかる。

 

ところで・・・

ただいまの考察において、ターニング・ポイントとなったのは「ゴッホの絵画」であった。ゴッホの絵画を検討することで、我々は「信頼性」の概念に至ったのである。絵画は「芸術作品」に他ならない。ひょっとすると「われわれはいまや知らぬ間に、いわば付随的に、すでに作品の作品存在について何かを経験してし まったのだろうか」。(45ページ)

「作品の近くで、われわれは突如、ふだんたいてい居るところとは別のところに居たのである」(46ページ)。それゆえ・・・

 

作品の作品性

「芸術作品が、靴という道具が真実のところ何であるかを知るようにうながした」(同)のである。芸術において存在の真理が開示される。「芸術の作品においては存在するものの真理がそれ自体を作品の内へと捉えてしまっている」(47ページ)

ここでいう「真理」とは現実の模像ではなく、「物の一般的な本質の再現」が問題となっている。しかし「どのような真理が作品において生起している」のか。真理はそもそも生起することが出来るのか。次に問われるのは、こうしたことである。