カール・バルト『バルト ローマ書講解 世界の大思想33』(河出書房新社)

第8章 霊

 人間の不可能性、アンチノミーを超越しているものが神であり、超越させるものがキリストであり、そしてその契機として人間に内在しているのが「霊」である。霊は肯定的な定義すりぬけ、否定的な「あれでも、これでもない」という定義しか受け付けない(否定神学)。

 

 何故神は超越的存在でありながら、遣わしたのは「罪に支配された肉」としてのキリスト・イエスであったのか。それは、キリストの肉としての死によって神の創造物としての肉は廃棄され、そして我々の罪が裁かれるときに、我々人間は「霊によって」その実存的な意義、神に生きる新しい人の実存性を見出すからで ある。

 

 時間(この世界、此岸)においては我々はみな肉にあり、永遠(彼岸)の中では我々はみな霊にある。この霊とは「あなたがたの内にいるキリスト」である。 この「われわれの内にいるキリスト」こそ神から人間に向けられた問いでありかつ答えである。「われわれの内にいるキリスト」により、彼岸において肉は罪と して棄てられ、霊が義として救われる。霊とは真理であり、我々より先にある原初的客観性である。だからこそ、主観的存在である人間はこの真理としての霊と対立する。自分を疑うという人間の主観性は霊の「おまえは人間だ。この世にいるこの人間だ。おまえは神のもの、創造者にして救済者なる神のものだ」という 答えとぶつかり合う。此岸で肉によって支配されている人間は、自らの肉としての罪によって救いを信じることができないが、霊において人間は彼岸で救済され る。霊において死は死ななければならない。

 

 肉によって支配され、神の内にある此岸の人間は囚われ人であるが、キリストと同一である限り人間は自由であり、霊においては神と人間との他者性、対立は存在しない。霊による肉の廃棄とは二重性の廃棄であり、神の「子たる身分の霊」としての新しい人は不可視的実存的自我として認識され、働かされ、生かされ、愛される。

 

 これら霊に関する「真理」は「霊みずからが」語る。そして、このように語られたことの内容は過去・現在・未来において「我々には知りえない」。だが、否定することもできない。我々にできるのは決断を「既に決断されたものとして」決断することだけであり、そしてこの不可知の真理を語る霊は我々の内なる存在 であり、我々はこの問いと答えを「自分自身として聞き、見て、答える」。その向こうに新しい人間が生まれることを「期待」することができ、そして真理を真理たらしめることが神の子である人間の「霊的証拠」である。

 

 真理とはあらゆる延長を持たない「今の時間」であり、キリストにおける「瞬間」である。

 

 人間の不可能性は、人間が神の被造物たるこの宇宙で接する全てのものに対する非直接性(間接性)、死滅性(時間的限界)、として常に認識されざるをえな い。だがこれは、それらが鏡となって映し出される人間の被造性に対する恐怖である。だが、この恐怖と苦難と宇宙の「空虚」の根源において、キリストの十字架と復活によって再建された創造者と被造物との不可視的一致に対する希望が存在する。神の祝福と約束において、人間と世界は自由であり世界は神と同じく永遠である。

 

 人間は「知らねばならないことを知っている」ということにおいて救われている。つまり人間は「霊(=真理)の最初の実」を持り、人間は神の霊から生まれ ている。霊は人間が神の子であることを証言するが、その新しい人とは此岸にある今の自分(古い人)ではなく、彼岸に至って生まれる新しい人であり、我々のアンチノミーは止揚されるが、我々は此岸においては嘆く者であり、新生への期待をするものにすぎない。そしてこの期待を保証するのは神以外にはいない。そ して神に対して人間をとりなすものが霊であり、イエス・キリストである。

 

 人間、被造物、宗教的存在からの神「への」愛は至るところにある。存在が実存する限りにおいて、「神を愛さざるをえない」のである。しかし神「が」愛するものは誰か。それは「神に寄って召命された」ものであり、「召命されていると主張する」ものではない。そしてその召命の証として、人間の似姿としてのイエスとその死が現れる。イエスの死を「今の時間」としてあらゆる瞬間に神を求めるのが「人間の神への愛」である。しかし、人間の愛の真理は「神の内」にあって、「人間の内」にはない。神のみが愛を知り、人間は人間としての実存的存在として神「によって」愛の不可解な道を知ろうとすることしかできない。だが、犠牲となったキリストは霊、真理、神の腕として、我々と共にあり、彼とともに自らが犠牲となり、彼とともに断罪されることによって、キリストにおける不可知の神の愛から自らを離さずにいられることができ、そしてイエス・キリストにおける神の愛は、人間に対する神の愛の、神に対する人間の愛との一致なの である。