カール・バルト『バルト ローマ書講解 世界の大思想33』(河出書房新社)

第1章「序言」

カール・バルト(1886~1968)・・・スイス生まれの神学者・プロテスタント系牧師。代表作である『ローマ書講解』(1918年に初版、1921年に大幅に改訂を施した第二版を出版)において、伝統的な神学や19世紀いらいの自由主義神学から弁証法的神学への転回をしめし、議論を巻き起こす。 1915年に社会民主党に入党。

 

自由主義神学

19世紀にシュライエルマッハーなどが主張。

1. 科学的読解を重んじる。聖書に描かれた奇跡の類もその実在性よりは、なんらかの神学的メッセージを伝えるための比喩として捉える。

2. 聖書本文の文献学的読解を重んじる。聖書はあくまでもある時代・地域の人びとの世界観に基づいてかかれた物にすぎない。一種の価値相対主義。

 

『ローマ書講解』・・・パウロによる「ローマ人への手紙」(『新約聖書』に収録)の読解を通じて、「信仰」「キリスト」「罪」などの神学的テーマを論じてゆく純然たる宗教書。ただし、それは単なる解説ではなく、パウロを通じてバルト自身が議論をしている。彼によれば、「歴史的なものを透視して、永遠の精神である聖書の精神を洞察する」(第1版への序文、5ページ)ことが目的であったという。いわば「パウロ」を再び生きることで聖書的な問題の超時間性をバル ト自身が立証しようとする試み。だが、それは自分の都合のよいように解釈することではない。むしろ一見理解し得ない「近代的意識にとっての躓きの石」 (同、16ページ)を含めて、パウロの思考全てを考察しようとした。

 

第1章 序言

パウロとは誰か?

パウロは「神の僕」である。彼は他の人間と等しくあり、同時に異なっている。しかし、その違いは他の人間には認識不能である。なぜなら彼は「神との関係においてのみ独自な人間」であるから。したがって、このことをパウロが自らの誇りとすることは出来ない。

 

神の救いとは?

パウロが伝える祝福はけして今現在生きている人間に益となるものではない。それは、人間が予想もしないものである。

それは「まったく他なるものとしての神、そしてまさにそれゆえに、人間に救済をあたえる神についての音ずれである」(32ページ)。従って「つねに新しく 語られるからこそ、つねに新しくおそれとおののきをもって聞き取られるべき、あらゆる事物の根原である言葉なのである。」(同) →不可知の存在としての神

したがって、この「言葉」を理解するためにはたんなる「注意」だけでなく「参与」が必要だが、逆にいえば、この「参与」があるいつでもどこでも「神の救い」が起こるのである。

 

瞬間としての救い

われわれの歴史のなかにイエス・キリストがあらわれた瞬間(新約聖書の時間)が救いの「瞬間」である。ここでわれわれの時間と空間が永遠(神の世界)と交わるのである(「絶対的、垂直的奇蹟」)(60ページ)。

「この」時間のあとに「あの」時間が来るものとして、「救済」を捉えているわけではない。その場合の「あの」時間は「この」時間の延長でしかない。

だが、この「瞬間」はいつでもどこでも起こりうる。新約聖書の時間はそれを可視化している点で他の瞬間にたいして優れているにすぎない。

 

救済者としてのイエス

イエスが「救済」を可視的にわれわれに示す。イエスはその死によって我々の原罪をあがなったのち、復活する。この「復活」をつうじてイエスは救済者とし て、われわれによって発見される。このとき「われわれは[古い]人間としては廃棄され、神の中に基礎づけられ、かれを仰ぎみることによって静止しまた動かされ、待ちこがれる者である」(34ページ)。

パウロはこうして「新しい人間」=使徒となったものとして、ローマ書を通じてひとびととに真理を伝えようとする。それは彼の神にたいする「応答真実をささげる責任」による。

使徒は積極的=能動的な存在ではなく、応答的=受動的な人間である。

 

救いの絶対性

神の救いは全ての真理を超越している。「神の力、すなわちイエスをキリストと定めるということは、もっとも厳密な意味において前=提であり、把握できるどのような内容ももたない。」(39ページ)それゆえ、分析・比較不能である。

救いは「この世においては、まったく新しいもの、例のないもの、期待さえもしないものであって、この世においてはただ矛盾としてのみあらわれ、聞きとられ、受けとめられうる」(41ページ)。つまり「死んだ人間が生き返る」という最大の「矛盾」は受け入れられるしかないものである。

「救い」を信じるとは、この「矛盾」を承認することである。

「矛盾」を承認することは、けして「矛盾」が解消することではない。信じがたいものを信じることが要。

「人間の信仰とは、この否をあまんじて受ける畏敬であり、空洞への意志であり、否定の中に動揺しつつ踏みとどまることである。」(44ページ)

 

神の怒り

神の怒りとはわれわれがこうして生きているということに伴うあらゆる困難である。その最大のものが「死」である。

アダムが原罪をおかし楽園から追放されたときに、人間は死ぬようになった。同時に「死」によって縁取られたものとしての「生」を生きるようになった。

「死」は「この」世界を生きる人間にとっては不幸であり、神の怒りである。しかし・・・