ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(ちくま学芸文庫)第2部
第三論文 サドと正常な人間
「サドを称えている人々は、じつのところ、現代の支配的道徳から遠ざかってはいないのであって、それゆえさらに彼らのサドへの賛辞はこの道徳を強固なものにすることに貢献してさえいる」(p304)
→サドの悪徳が悪徳としてのみ捉えられる限り、それは一般的道徳の強化にしか過ぎない。
「宗教は、ある一定の領域を、踏み越えがたい境界によって正常な生の世界すなわち俗なる世界から分離させ、この一定の領域のなかに、破壊の原則の効力を閉じ込めておこうと配慮してもいるのである」
「神的なものは、その第一の原則たる焼き尽くし破壊する必要性が満たされたあとはじめて、守護神的になるのである」(p307)
「不安げな生と強烈な生、言い換えれば、合理的に縛られた活動とそれからの解放は、宗教的な事業のおかげで、相互に守られた状態に置かれていた」
「不安と喜悦、死と強烈な生は、祝祭のなかで合成されていた。すなわち恐怖が生の解放の意味を示し、焼尽が有益な活動の目的とみなされ続けていた」(p308)
→本書第一部を参考のこと。
「私たちの生は、生の原則への肯定であると同時に、宿命的に、生の原則への否定にもなっているのではないだろうか」(p312)
「この悪習[サディズム]の除去は、人間の存在の最も重要な点に関わるということになる」
「第一にこの命題は、人類のなかに、抗いがたい過剰があることを想定する」
「第二にこの命題は、この過剰およびこの協調にいわば神的な意味合いを、より正確には聖なる意味合いを与える」
「第三にこの命題は(略)理性の第一の運動が至高の態度を排除しまっているのだから自分は至高の態度とは無関係だと思っている人々は、もしもこの原則と正反対の仕方でときどき活動しないなら、衰弱して、全体として老人の状態に近い状態に陥ることになるだろう」
「第四にこの命題は(略)破壊的な諸効果を制限するために、自己意識に到達して、自己意識が至高な仕方で何を渇望するのかしっかり認識しなければならない」(pp314-315)
→ここで列挙された「サディズムの除去」の方策が歴史上、文化・文明史上実在したのは第1部で見た通りである。しかし・・・
「暴力は、人類全体の所行であるにもかかわらず、原則として発話しないまま存在してきた、と。そして人類全体は暴力について何も語らないことで結果的に嘘をついているのであり、言葉はこの嘘の上に立脚している、と」(p317)
「沈黙の方は、言葉が肯定しえないものを排除したりしない。暴力も死も除去しえないものなのだ。たとえ言葉が策を弄して、普遍的な無化、時間のあの静かな作業を包み隠しているにしても、そのことで苦しんだり限界を与えられているのはもっぱら言葉の方なのであって、時間でもなければ暴力でもない」 (p318)
→暴力それ自体は沈黙する。そして人類は「暴力については」沈黙するという嘘をついてきた。言葉は人類の詐術により暴力についての語彙を奪われてきた。
「サドは語っている。しかし彼は、沈黙した生の名のもとに、つまり不可避的に言葉のない完全な孤独の名のもとに語っている」「この人間[サド]は、その孤独ぶりにおいて、至高の存在者になっている。けっして自分のことを釈明せず誰に対しても釈明する義務を負うていない至高の存在者になっている」「この人間は単独であり、他の人々がかれら共通の弱い気持ちから取り結ぶ相互のつながりのなかには断じて加わらない」(p321)
→小説の登場人物の長広舌に反して、サドは沈黙=暴力自体である至高の存在者となってテクストの向こうに存在している。
「ここでいう全面的な否定とは、まず自分以外のすべての人を否定することであり、次いで、恐ろしい論理の展開だが、自分自身を否定することだ。この窮極の自己否定において、犯罪者は、自分が惹き起こした罪悪の洪水の犠牲になって滅んでゆきながら、さらになお罪悪の勝利を享楽するのである。いわば神格化された罪悪が、ついに犯罪者自身に対して収める勝利を享楽するのである。暴力は、論証のいかなる可能性をも終焉させる、このような気違いじみた否定を内包して いるのだ」(pp321-322)
「彼[サド]は(略)自分を断罪した人々への訴訟を、神への訴訟を、そして一般的に、性の快楽の猛威に対置された制限への訴訟をおこなったのである。(略)彼は、宇宙を、自然を、自分の情念の至高性に対立するすべてのものを、攻撃するまでになったのである」(p324)
→第二論文でも出てきた、孤独と罪悪の極限、ありとあらゆるものへの否定の極限としての至高、それへ至る道程としての暴力。
「暴力も、暴力自身を越えて、意識を探し求めている。だが私たちは、暴力的になると意識から遠ざかるし、また同様に、私たちの暴力の衝動の意味を明瞭に把握しようと努めると、暴力が命じるあの至高の錯乱と陶酔から遠ざかってしまうのである」(p329)
「だがサドは(略)意識を暴力に結びつけていることに成功している。意識のおかげでサドは、あたかも事物が問題になっているかのように、自分を錯乱させる対象について語ることができたのである」(p331)
「サドが意識のなかへ入り込ませようとしたものは、まさに意識を憤らせるものにほかならなかった。彼の見るところ、最も憤慨させるものが、快楽をかきたたせるための最も力強い手段だった」(p332)
「サドの本質的な功績は、性の快楽の熱狂のなかに、精神上の変則の役割を発見し、これをはっきり指摘したことにある」(p333)
→暴力と意識という相容れないものを、サドは意識を憤らせるもの、かつ性の快楽を沸き立たせる、「罪悪」を意識のなかに投じるということで、暴力の至高の錯乱と陶酔の中で意識を保たせるということを成し遂げた。
「私たちを最も憤慨させるものは、わたしたちの内部にあるのだから」(pp334-335)
→サドは我々の中にあるものを自覚させた。