ガストン・バシュラール『科学的精神の形成―対象認識の精神分析のために』 [1938](及川 馥 訳:ちくま学芸文庫、2012年)

はじめに

「科学的精神の確立のために第一になされなければならないこと

  「表象を幾何学化すること」「さまざまの現象のアウトラインを描き出し、一つの経験を決定する事象群を順序正しく配列すること」「具象と抽象のちょうど中 間の、数量の図形化に到達する」「科学的精神が数学と経験、法則と事実をそれぞれ両立させることができると主張しているゾーン」(p.9)

  「空間的特性の素朴な実在論の上にたつこの最初の幾何学的表象作用には、さらに深く隠された合目的性が含まれており、直接表面にでている尺度的関係の根底には、それほど明瞭に結びつけられていない位相的法則が含まれているのだ」(p.10)

本書の意図=「この抽象的な科学的思考の壮大な運命をうきぼりにすること」(p.11)

  ただし、「科学の自己欺瞞と抽象的思考とは同じ意味だという通俗的な科学批判」を意図するものではない。(p.11)

 

バシュラールによる、科学的思考の3つの時代区分(p.13)

  第1期:「自然科学以前の段階」古典古代~ルネッサンス、16/17/18世紀。

  第2期:「自然科学の段階」18世紀末~19世紀全体~20世紀初頭

  第3期:「新科学的精神の時代」1905年以降(=アインシュタインの特殊相対性理論やブラウン運動の理論が発表された年)

「われわれの出発点はほとんどつねに初発の現象体系のイマージュであり、多くはきわめて絵画的なイマージュなのである。こういうイマージュがどのようにして適切な幾何学的形体に置き換えられ、またその場合にどんな障害に遭遇するかをわれわれは考察するであろう。」(p.15)

「対象認識の精神分析によってもたらされた純粋な状態では、科学は知性の美学なのである。」(p.19)

 

第1章 認識論的障害の概念 本書のプラン

「科学の進歩について心理学的条件を探してみるならば、科学的認識の問題は障害ということばで提起されなければならない、という確信にほどなく達するであろう。」(p.23)

  「外側の障害」「人間の精神や五感の欠点」をあばきだすというのではない。

  「科学の進歩が停滞し混乱するのは、認識や行為そのものに深く結びついたかたちで、いわば機能的に不可避なこととして発生するのだ。」(p.23)

  「経験的思考は、理性のさまざまな装置が焦点をあわせたとき、事後的に明快となるのだ。過去の誤謬をふりかえってみると、まさしく知的な悔恨のさなかに真実が発見されるのだ。実際には、ひとはまちがって形成された認識をうちやぶりながら、精神のなかで精神的解釈の障害となるものをのりこえつつ、以前の認識にさからって、認識をおこなうのである。」(p.24)

「科学的な勉学を始めるとき、人間の精神は決して若くはない。それはむしろかなり老いている。なぜならかれの精神はその年齢相応の先入観を有しているからであ る。逆に科学にアプローチすることは、精神的に若がえることである。それはどうしてもひとつの過去にさからって手荒な激変を受け入れることであるから だ。」(p.24)

俗説:「俗説は考えない。俗説はさまざまの欲求を認識として読みかえたものである。[…]俗説こそ乗り越えるべき第一の障害である。」(p.25)

問題意識:「なにはさておき、まず問題のだし方を知らねばならない。[…]まぎれもなくこの問題意識こそ真正の科学的精神のしるしなのである。」(p.25)

実用という価値:「抽象的で明瞭な問いが磨滅して、具体的な回答の方が残る。[…]認識論的な障害が、問いのない認識の上にどっかと腰をすえてしまうのだ。」「実用に供されることによって、観念は不法にも価値をふやす。ひとつの価値は本来複数の価値が流通することには対立するものである。だが精神にとっ てそれは無力さをひきおこす因子なのである。」(p.26)

教育の場における、認識論研究の役割

認識論研究における理性の役割:「研究を力動化するのはただ理性だけである。普通の経験(直接的でもっともらしい経験)をこえた科学的経験(間接的で多産な 経験)を示唆するものはただ理性あるのみだからである。[…]ある時代において誤って説明されたひとつの事実は、歴史家にとってはいぜんとしてひとつの事実にすぎない。ところが認識論研究者の考えるところでは、それはひとつの障害である。それはひとつの反-思考なのだから。」(p.31)

教授法的障害:「教師たちは、学生が物理学のクラスに出席するころにはすでに経験的につみ上げられた認識をもっているのだ、ということを考慮していない。こ の場合、実験の教育をあたえるよりは、実験の教育を変化させること、つまり日常生活によってそれまでつみ上げられた認識上の障害をひっくりかえすことが肝 心なのだ。」(p.32)

「科学的教育は、どんなものも、これから詳細に説明するように、知的かつ情的なカタルシスから開始しなければならない。つぎに、もっと困難な課題が残されてい る。科学的教育を恒常的に動的状態におくこと、閉じられた静止した知識を開かれた力動的知識によって置き換えること、実験の全変数を弁証法化すること、発 展するさまざまの理由を理性にあたえること、である。」(p.33)

対立する二つの障害

  「最初の観察」=科学教育における第一の障害。「実際、この最初の観察にはやたらにイマージュがくっついている。」(p.35)

  「最初の外観のあたえる普遍性に盲従する危険」(p.35)

本書で検討する障害(p.37-38)

  「単一さによる自然の説明」

  「効用による自然的現象の説明」

  「ことばの障害」

  「実体論」

  「アニミスムの障害」

 

第2章 第一の障害、最初の経験

「最初の経験」=「批判以前に、しかも批判のおよばないところに位置している経験」(p.41)

  しかしバシュラールは安易な哲学に与しようというわけではない。安易な哲学とは、「つねに開かれている精神にたえずあたえられる明晰、判明、確実しかも恒久的な所与から、直接かれらにあたえられているものである」という主張のこと(p.41-42)。

  これに対してバシュラールの主張=「科学的精神はしぜんにさからって形成されなければならない。[…]科学的精神はわれわれの内面と外界にある自然の衝動や自然の教えにさからい、自然の牽引する力にさからい、色のついた多様な事実にさからって、形成されるべきである。」(p.42)

現代の科学教育では、自然と観察者の間に書物による介在があるために、この障害を現代のわれわれが理解するのはかなりむずかしい(p.43)。しかし「第1期」や18世紀においては、自然科学の本は「自然から出発していた」(p.43)のであり、「筆者はサロンでの講演者のように読者と話し合っている」ように「日常生活に根をおろしている」(p.44)。

  例:ポンスレ師による雷の記述(1769)(p.45)

  例:ゲーテのウェルテルのなかの雷鳴のシーン(p.45-46)

  1781年における太陽光に関する記述=「視線の強さについての強調が徴候的」であり「圧倒的な主観的経験」(p.50)

18世紀の科学における(見せ方の)世俗的特性

「好奇心に直接的満足をあたえ」ること=「科学的精神の陶冶にとって好ましいどころか、その障害になる」(p.52)

「複雑きわまりない現象にかんする最初の理論」:「平易な理論」によって「おもしろおかしく」見せられる。そして「それらの理論は、明証的で徹底的な経験主義のしるしもおびていた」(p.53)

  「電気の最初の経験主義はいかに魅惑的であることか。それは明白な経験主義だけでなく、色彩豊かな経験主義なのだ。ひとびとに理解をせまることなどなにもなく、ただ見るだけでよいのだ。電気の現象にかんしては、世界という書物は一巻の絵本なのである。」(p.54)

  「それゆえ見ることにすべてを傾注しよう。一介の演出家にすぎないこの物理学者を気にかける必要はない、というのだ。実験者の巧妙さ、理論家の才能の特質が賞賛をまきおこす現代では、もはや事情は全く別である。」(p.54)

  「自然科学以前の精神は、自然の産物が人工の産物よりも豊かであることをつねに望むのである。」(p.56)

  ライデン瓶の例(p.57):「『年齢や性別階層をとわずあらゆる民衆が、この自然の奇跡を眺めて、度肝をぬかれ、驚異の声を発したのであった』」

  cf:バルト『アインシュタインの脳』

大衆から見られる存在としての18世紀科学

「興味をそそるために、ひとはもっぱら驚異を探すことになる。矛盾する実験が大量にかきあつめられる。」(p.62)

「ひとたび夢想が矛盾するイマージュの領域に導入されるならば、夢想は容易に驚異を濃縮する。夢想はまったく思いがけないさまざまの可能性を一点に集中する。」(p.63)

「イマージュからイマージュへの行ったり来たり」=「こういうイマージュ間の入換えは、想像力を精神分析して治療しないかぎり、しばしばおこるであろう。イ マージュを受け入れる学問は、他の学問よりも、隠喩の餌食となるのである。それゆえ、科学的精神はたえずイマージュ、類比的思考、隠喩を相手にたたかわね ばならないのである。」(p.68)

現代の初等(科学)教育におけるイマージュの弊害

化学ハーモニカharmonica chimique(p.69)(右図)

鉱物化学の基(ラディカル)の例としての爆発実験(p.69)

「あらゆる爆発は、傷つけ、驚かし、破壊したいという漠然たる意志を青少年にたいし暗示するように思われる。」(p.69)

「抑圧された権力への意志や、アナーキーで悪魔的な傾向や、ひとびとを虐待するためのものを自由に支配したいという欲求」(p.69)

「基礎教育において、あまりに激烈な、あまりに色彩にとむ実験はまちがった興味の原因となる。教師にたいして口を酸っぱくしていうべき忠告は、できるだけ早く具体的な事象を抽象化するよう、たえず実験台から離れて黒板にむかえ、ということである。」(p.71)

「実験の理 由づけを本当の意味でのべるためには、ひとつの事実のためのひとつの理由をみつけるだけでは十分ではない。理由[理性]は本質的には多義的な心理的活動で ある。それはいくつもの問題を逆転させ、それを変化させ、相互に置き換え、増殖させる。したがって実験が真の意味で理由づけられるためには、多数の理由が 相互に作用しあっているさなかにおいてなされねばならない。」(p.72)

 

「前科学的な精神の形成において、あたかもリビドーの昇華が芸術家の形成において果たすような役割を演ずる、この時期尚早な<理由づけ>を検討しなければならない。それは明白なる証拠が一切ないところに理由をつけようとする意志のしるしであり、ひとから根源的価値をあたえられていて、それには解釈を加えるべき ではないと信じられているひとつの事象を盾にとることによって、議論をさけようとする意志のしるしである。」(p.73)

「かつて記述が健全な平板さという規則を守ったことは絶対にない。」(p.79)

「じつにコンスタントなこの簡潔さへの意志もいくたの突発的な障害にであう。思いもかけないときに、ひとつの語がわれわれの心のなかで鳴りひびき、そして昔の なつかしい観念とこだまして長く尾をひくからである。比喩は輝き、そしてうむをいわさず一挙に、全体をひとまとめにして、われわれを納得させる。」(p.79)

例えば分類や比較のための情報の羅列にも、「無意識の中核における前科学的な概念の影響」(p.80)が認められる。

  ビュフォンの博物誌(1749-1778)の例:「獅子は動物の王である。なぜならあらゆる存在は、たとえ畜生の類であろうと王をもつということが、秩序の支持者にとっては好ましいことなのだ。」(p.81)

物質にかかわるいくつかの夢想(p.81)

「錬金術の心理的な具象的特性」(p.82)

錬金術に対する評価

19世紀の歴史家;いくらかの実証的な発見には敬意(p.82)がある程度の評価

文学者:邪道の精神(p.83)

なぜ錬金術は「邪道」とか言われるのにこんなに長く続けられたのか?「錬金術は無意識の中により深い水源を有するにちがいない」(p.83)

錬金術を「強力で、完璧で、持続的なシンボル体系」とみる(p.84)

  シンボル体系:単純な客観的真実として教えられることはない。無意識のなかに前もって存在するシンボル形成力に結びつくことによって教えられる。(p.85)

  「錬金術の書物は内密な省察の秩序を示す必携書となる。そこで検証されているのは、ものでも実体でもなく、ものに対応する心理的シンボルであり、そらにいいか えるなら、それは内密なシンボル化のさまざまな段階なのであり、錬金術はそのシンボルの上下関係を実験してみたがっているのだ。」(p.86)

錬金術では、物質的な実験の成否はもはや問題とならない。「希望の力は無傷である。というのは希望の強い意識はすでに成功しているのだから。」(p.87)

 

さらに「錬金術的実験の物質的失敗を解釈するためなら、さらにいっそう内的な方式がある。それは実験者のモラルの純粋さに疑惑の目をむけることである。」(p.88)

  「いったい錬金の道士がまず自己のたましいを浄化しないで、どうして物質の純化などできようか。」(p.89)

  「かつて錬金術の時代ほど、自己犠牲と誠実廉直さと忍耐力と緻密な方法と仕事への熱中という性質が、職業にぴったり密着して取り入れられたことはない。現代の実験室の人間は、自分の仕事からもっとあっさり離れるように思われる。」(p.90)

  錬金術は「モラルの秘儀伝授」(p.90)

 

第3章 科学的認識の障害となる一般的認識

「一般的という虚偽の理説ほど、科学的認識の進歩をおくらせたものはない。」(p.98)

「一 般的法則が思考を実際に封鎖していることは、だれの目にも明らかである。こういう法則はまとまりとして返答する、というよりは、問いもしないのに答えてい る。[…]前科学的精神にとって、落下するという動詞は十分に描写的であった。それは落下現象の本質をあたえた。要するにしばしばいわれることだが、この 一般的法則は、ものよりもことばを定義する。重い物体の落下の一般法則は重いということばを定義する。」(p.101)

「概念の形成について現代科学の正しい態度とは」(p.107)

「科学的精神は相反した二つの傾向をたどって道を誤った。すなわち、個別なものの魅力、および一般的なものの魅力、この二つによってである。概念化の水準では、この 二傾向を内包的認識と外延的認識の特徴として規定しよう。しかしひとつの概念の内包と外延とが、いずれも認識作用を停止する契機だとすれば、精神の運動の 源泉はいったいどこにあるのであろうか。」(p.108)

内包と外延の中間:科学的概念の多産性はその変形能力によって測られる。(p.108)

価値付加的な前科学的精神 VS 科学的精神 の違い(p.116)

「現代の科学者は実験をやたらとつみ重ねるよりも、その実験領域をむしろ限定するように努める。まず明確に定義された現象をとりあげ、つぎにその諸変動を決定しようとする。」(p.116)

「現代の科学者は現象の概念の数学的理解の上にその基盤をおき、この点で理由(理性)と経験(実験)を等価にしようとする。かれの注意をとらえるものは、もはや一般的現象ではなく、有機的現象、本質と形態との特徴をもった、格づけされた現象であり、またこういうふうに処理されて数学的思考を受け入れやすくされ た現象である。」(p.116)

前科学的精神における「醗酵」(p.118)

  醗酵と消化の比較(p.118)

  「生命の現象をある種の化学現象の基底におくという、前科学的精神によっておこなわれた本末転倒の重大さをよく示している。」(p.119)

  「実験は最初の仮説を修正しなかった。まず最初にとらえた一般的な観点は終始この不動の概念の唯一の属性なのである。」(p.120)

 

「かれ[マクブライド]の現象の説明の仕方はすべて、運動と自由という軸と休息と粘着という軸の間をいったりきたりするだけで、直観によって直接あたえられたものの次元から出ることはない。[…]原始的経験主義のはてしない環をぐるぐるまわりながら、ひとが説明の対象とするのは、この特性であり、またこの特性によってひとは説明をおこなうのである。」(p.121)

「固定的空気が固定するといわれてもおどろくにはあたらない。自然科学以前の精神が、同一語族の単語をただよせ集めることにより、まさに語源的なレベルで諸経験を集合するような例は多数みいだすことができよう。」(p.112)

現代の科学者が示す特色は客観性であって、一般性ではない。「客観性とは、属性の精確さと整合性によって決定されるのであって、いくぶんか類似した物体同士の集合によるのではない。」(p.126)

 

第4章 ことばの障害の例、海綿 身近なイマージュの過度の拡大

「海綿」(スポンジ)のイマージュ

「この語がこの上なく多彩な現象を表現できるのを見ることにしよう。こういう現象をひとが表現するとすると、ひとはそれを説明すると信じるのである。ひとが現象を識別するとすると、かれはそれを認識すると思うのだ。」(p.129)

「空気は構造上、海綿状物体に類似する」(p.130)

「それは具象的な一語に抽象的な一語を連合させることにより、思考を前進させたと信じこむことなのである。」(p.132)

「ひとが望むと望まざるとにかかわらず、比喩は理性をまどわせるものなのだ。結びつきの薄い個別的なイマージュが知らずしらずのうちに一般的な図式となってくる。対 象認識の精神分析はしたがってこういう素朴なイマージュを消去すべきだ、とはいわないまでも、光彩を喪失させてしまうようにやるべきであろう。」(p.137)

「対象の認識は、しばしば特別に魅力ある対象のまわりや、工作人のしるしをもつ単純な道具をめぐって集中することにだれもが早々に気づくであろう。」(p.140)

  

  てこ、鏡、ふるい、ポンプなど

 

第5章 科学的認識の障害としての一元的かつプラグマティックな認識

完成の理想

前科学的書物の文学的観点(p.146)

選んだ主題に価値を付与したい(p.148)

「題材をこのように持ち上げる必要があるのは、現象にふさわしい完成の理想と関係があるためである。」「物質から神へ、作品から作者へという完成の段階の上に、光を位置させる」(p.149)

  物理現象の完成度が前科学的精神にとって説明の基本的原理である(p.150)

壮大な一元化の理想

「たったひとつ大文字をつけるだけなのだ。自然の多岐にわたる活動は、このようにして唯一同一の自然Natureの変化せる表出というわけになる。」(p.151)

調和という一元化

多元的な決定:「そこではどんなものでもあらゆるものの原因となるのである。(p.156)

功利性による「誇張された一般化」(p.159)

「功利的な 傾向はほとんど間違いなく、あまりにも遠くまで導いてしまうのである。プラグマティズムはすべて、それが手足を切りとられた思考であるという一事をもって しても、誇張をおこなうことは不可避である。なぜなら人間は有利さを制限できないからだ。功利性はその価値付加作用によってとどめなく資本を蓄積する。」 (p.160)

「ひとが特別な有効性をあたえようとつとめるのは、ひとつの現象のあらゆる細かい部分にたいしてである。[…]プラグマティックな合理主義にとって、有効性のない特性は非合理である。」(p.162)

「十九世紀 には、逆に、即興的な巨匠たちの、卑近なしかももったいぶったこういう文学はほとんど完全に消滅した。科学的な教養の計画はそれによって妙に理解しやすく されている。初歩的な書物はもはや虚偽の本ではない。しかし現代のこのような整理法が、前科学的時代をとおして支配的であったこの混乱を、われわれの記憶 から消し去ってはならない。学界のこのような進展を意識してこそ、科学的思考を心理的に形成する力を真の意味ではじめて理解できるであろうし、また受動的 でもっぱら記録するだけの経験論と、能動的で思考をひきだす経験論との距離をはじめて評価できるだろうから。」(p.165-166)