ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意思』(新潮社)

第五章「死に対する権利と生に対する権力」

近代以前の「「生と死の」という形で表されている権利は、実は死なせるか、それとも生きるままにしておくかの権利である」(p172)、しかし近代以降の権力とは「様々な力を産出し、それらを増大させ、それらを整えるためであって、それらを阻止し、抑えつけ、あるいは破壊するためではないような一つの権力である」「生命を経営・管理する権力」であり、近代以前の権力が持っていた「この死は、今や、社会体にとって、己が生命を保証し、保持し、発展させるための権利の、単なる裏面として立ち現れる」(p173)

「今や生に対して、その展開のすべての局面に対して、権力はその掌握を確立する。死は権力の限界であり、権力の手には捉えられぬ時点である。死は人間存在の最も秘密な点、最も「私的」な〔公の手の届かぬ〕点である」「それ[死への固執]は、政治権力が自らの務めとして生を経営・管理することを掲げるに至っ た社会にとって最初の驚きの一つだったのである」(pp175-176)

「身体の隷属化と住民の管理を手に入れるための多様かつ無数の技術の爆発的出現である。こうして「生ー権力(ビオ・プーヴォワール)」の時代が始まるのだ」(p177)

「このような〈生ー権力〉は、疑う余地もなく、資本主義の発達に不可欠の要因であった」「資本主義に必要だったのは、力と適応能力と一般に生を増大させつつも、しかもそれらの隷属化をより困難にせずにすむような、そういう権力の方法だったのである」(p178)

「権力の技術」は「社会体すべてのレベルに存在し、かつ極めて多様な制度によって用いられていたが」「経済的なプロセス、その展開、そこに実現されそれを支えている力といったもののレベルで働いていたのである。そのような政治学の基本はまた、社会的差別と階層化の要因としても作動したのであり、それぞれの階層の力に働きかけ、支配の関係と覇権の作用とを保証したのだ」(p178)

「生命に対する相対的な統御が、死の切迫した脅威のいくつかを遠ざけていたのだ。このようにして手に入った作動の空間で、その空間を組織しつつまた拡大しつつ、知と権力の手法は、生のプロセスを自分の問題として取り上げ、それを管理し変更することを企てる」(pp179-180)

「権力が対象とするのは、もはや、それに対する権力の最終的な支配=掌握が死によって表されるような権利上の臣下ではなく、生きた存在となるのであり、彼 らに対して権力が行使し得る支配=掌握は、生命そのもののレベルに位置づけられるべきものとなる。生命を引き受けることが、殺害の脅迫以上に、権力をして身体にまでその手を延ばすことを可能にするのだ」(p180)

「生とそのメカニズムをあからさまな計算の領域に登場させ、〈知である権力〉を人間の生の変形の担い手に仕立てるものを表わすためには、「生ー政治学(ビオ・ポリチック)」を語らねばなるまい。それは、生が余すところなく、生を支配し経営する技術に組み込まれたということでは毫もない。生は絶えずそこから逃れ去るのだ」(p180)

「近代の人間とは、己が政治の内部で、彼の生きて存在する生そのものが問題とされているような、そういう動物なのである」(p181)

「法は武装しないでいることはあり得ない」「しかし生を引き受けることを務めとした権力は、持続的で調整作用をもち矯正的に働くメカニズムを必要とする」 「生きている者を価値と有用性の領域に配分することが問題となるのだ。このような権力は、殺戮者としてのその輝きにおいて姿を見せるよりは、資格を定め、 測定し、評価し、上下関係に配分する作業をしなければならぬ」「法はいよいよ常態=基準として機能する」「正常化を旨とする社会は、生に中心を置いた権力 テクノロジーの生み出す歴史的な作用=結果なのである」(pp181-182)

「十九世紀にはなお新しいものであったこのような権力に対して抵抗する力は、まさにこの権力が資本として用いたそのものに支えを見出した。つまり人間が生物である限りの生と人間にである」(p182)

「要求され、目標の役割を果すものは、根源的な欲求であり人間の具体的な本質として、彼の潜在的な力の成就であり可能なものの充満として了解された生であ る」「そこには極めて現実的な闘争のプロセスがある。政治的対象としての生は、ある意味では文字通りに受け取られて、それを管理しようと企てていたシステ ムに逆らうべく逆転させられるのだ。権利よりも遥かに生のほうが、その時、政治的闘争の賭金=目的となったのであり、それはこの闘争が権利の確立を通じて 主張されたとしても変わりはない」(p183)

「一方では性は、身体の規律に属する。身体的な力の訓練と強化と配分であり、エネルギーの調整とその生産・管理である。他方では、性は」「住民人口の調整・制御に属する」「性は、身体の生というものへの手がかりであると同時に、種の生というものへの手がかりでもあるのだ。人は性を規律の母型としても用い るし、調整の原理としても用いる」「性的欲望は各人の個性の暗号となる、つまり個人を分析することを可能にするものであると同時に、個人を調教することを も可能にするものだ」「それは政治的操作のテーマ、経済的介入のテーマとなり」「また、教化あるいは責任賦与のイデオロギー的キャンペーンのテーマとな る。それは一社会の力の指標としての価値をもたされる」「このような性に関するテクノロジーの一方の極から他方の極へと、一連の多様な戦術が並んでおり、 身体の規律という目標と住民人口の調整という目標とをそれぞれ度合いを変えつつ結びつけているのである」(p184)

「「身体」と「人口問題」の接点にある性は、死の脅威よりは生の経営のまわりに組織される権力にとって中心的な標的となるのである」(p185)

前近代においては「血」が「象徴的機能をもつ現実」として社会を構築していたが、近代以降、「我々は「性(セックス)」の社会に、というかむしろ「性的欲望(セクシュアリテ)をもつ社会」に生きており、そこでは「性的欲望は意味の価値をもつ作用」として社会を構築している。「権力の新しい仕組みこそが、我々の社会を血の象徴から性的欲望の分析学へと移行させた」「法や死や侵犯の側に、象徴的なるものや君主権の側に属する何かがあるとすれば、それは血である。性的欲望のほうは、規準=常態、知、生、意味、規律、調整といったものの側にある」(pp186-187)

「ナチズムは、おそらく、血の幻想(ファンタスム)と規律的権力の激発との最も素朴にして最も狡猾な(略)結合であった」「正反対の極に(略)性的欲望のテーマ系を、法と象徴的秩序と主権のシステムにもう一度書き込もうとする努力を追うことができる。まさに精神分析の政治的名誉であったこと」「それは、性的欲望の日常性を管理し経営しようと企てていたこれら権力のメカニズムの内部にあって、取り返しのつかぬ形で増殖し得るものに疑いをかけたことである」 (pp188-189)

「この研究の目的は、いかにして権力の諸装置が、直接に身体に関係づけられるのかを明らかにすることである」「問題は身体を一つの分析の中に出現させることであり、その分析とは、生物学的なベクトルと歴史的なベクトルとが」「この二つが、生を標的とする権力の近代的テクノロジーの進展につれていよいよ増大 する複雑さに応じて結ばれるような分析なのである」(p191)

「まさに性的欲望の装置が、その様々な戦略において、このような「前提となる性」という考えを設置するのである」「それは性を全体と部分、原理と欠如、不在と現前、過剰と欠乏、機能と本能、合目的性と意味、現実と快楽といった遊戯=働きに従属したものとして立ち現れるようにする。こうして徐々に、性につい ての一般理論の枠組みが形成されたのだ」(p194)

「このようにして生み出されたこの理論は、性的欲望の装置の中で幾つかの機能を行使」(p194)した。

第一に、生物学的、病理学的な概念装置によって、人工的で虚構の「性」という統一原理を生み出し、それを遍在しつつ隠れ潜み、発見されるべき秘密とした。 「性はこうして、唯一なる能記(シニフィアン)であり、普遍的な所記(シニフィエ)であるものとして機能することができるようになった」(p195)

「次いで性は、統一的に、解剖学的現実でありかつ欠如、機能でありかつ潜在性、本能でありかつ意味として自らを提示したから、人間の性的欲望に関する知と生殖に関する生物科学との間の接線を記すことができた」(p195)

「最後のものとして、性という概念は、本質的な反転の運動を保証した。それは性的欲望に対する権力の関係の表象を逆転させ、性的欲望を権力に対するその本質的かつ積極的な関わり方においてではなく、権力がなんとか隷属させようとしている、特殊で変更不能な決定機関に根を下ろしたものとして出現させることを可能にした。こうして「前提となる性」という概念は、権力のまさに「力」をなしているものを巧みにかわすことを可能にする。権力というものをただ法と禁忌 としてのみ思考することを可能にするのである」(p195)

「性は反対に、性的欲望の装置の中で最も思弁的かつ最も観念的で、最も内面的ですらもある要素なのであり、そのような性的欲望を、権力が、身体や身体の物質的現実、身体の力やエネルギー、身体の感覚や快楽に対するその掌握・支配の中で組織していくのである」(p196)

「前提となる性」のもう一つの実用的な役割は「性という、性的欲望の装置によって定められた想像上の点を通過することによってのみ、各人は自分が何者であるかという理解可能性に至り着き(略)彼の身体の全体に到達し(略)彼の自己同一性を手に入れることができるのである」(p196)

「「前提となる、本源的な性」というこの想像上の要素を作り出すことで、性的欲望の装置はその最も本質的な内的機能原理の一つを生じさせた。すなわち、性に対する欲望である」「それは「性」そのものを欲望可能なもの〔欲望の対象となり得るもの〕として作り上げた。そしてまさにこのような性の欲望可能性が、 我々の一人一人をして性を知るべしとの命令に、性の掟=法と権力とを明るみに出すべしとの命令に結びつけるのだ」(p198)

「性的欲望は極めて現実的な歴史的形象なのであって、それが、自己の機能に必要な思弁的要素として、性という概念を生み出したのである」(p198)

「もし権力による掌握に対して、性的欲望の様々なメカニズムの戦術的逆転によって、身体を、快楽を、知を、それらの多様性と抵抗の可能性において価値あらしめようとするなら、性という決定機関からこそ自由にならなければならない。性的欲望の装置に対する反撃の拠点は、〈欲望である性〉ではなくて、身体と快楽である」(p199)

「そして我々としては想像しておかなければならないのだ、性的欲望という策略と、そしてその装置を支えている権力の策略が、いかにして我々を性のこの厳しい王制に服従させて、我々をして性の秘密をこじ開け、この暗がりの中から最も真実な告白を強奪するという際限のない務めに身を捧げるまでに至らしめたのか、それを、身体と快楽の別の産出・分配構造(エコノミー)の中では、もはやよく理解しえなくなるような日が、やがてはやって来るだろうということを。

 この装置の皮肉は、そこに我々の「解放」がかかっていると信じ込ませていることだ」(p202)