ホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)

第3章「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」

引用凡例(ページ数.行数、bは下から数えた行数の意)

サド侯爵の『悪徳の栄え』を題材に、18世紀啓蒙主義における近代的合理性と伝統的道徳規範との関係を問う。

 

啓蒙的理性とは。

「思考とは、啓蒙の考える所によれば、統一ある科学的秩序を作り出すことであり、諸原理に基づいて事実認識を導き出すことである。」(179.10)

「計算的思考は、自己保存という目的に合せて世界を調性し、対象をたんなる感覚の素材から隷従の素材へとしつらえる」(183.3)

自己に都合のよいように世界を一元的に把握する。そこでは、世界はあらかじめ組織された理論の反映としてのみ理解される。それゆえ、求められるのは理論にたいする「整合性」のみである。これが「形式的理性」を生む。

 

道徳とは。

それに対し伝統的な道徳学説は「説教調であり、センチメンタルである」。サドの著作はこのような道徳に縛られることのない「市民的主体」を描いている。そこでは多くの登場人物が積極的に道徳を破棄し、自らの欲望に忠実であろうとする。

「良心の呵責からの自由は、形式主義的な理性にとっては、愛憎からの自由と同様に本質的なのである。」

道徳に限らず、何かの感情を持つことを「弱さ」の徴として軽蔑する(cf.カント、ニーチェ)。「弱さ」の代表としての女性嫌悪。

 

享楽について。

享楽は自然から疎外された文明の所産である。それは文明化された人々が太古の原始時代に帰りたいと望むことである。つまり、「他者への自己放棄」。文明化された社会においては支配者たちは「享楽を合理的なものとして、つまり完全には制御しきれない自然へ支払う税金として、導入する」(218.11)。そこで享楽はさまざまの行事や催しの中に入りこみ、最終的には個人化され、「休暇」という形態にいたる。