カール・バルト『バルト ローマ書講解 世界の大思想33』(河出書房新社)

第7章 自由

 人間の自由は、人間の可能性であり、同時に人間の限界づけられたことを示す。恵みを与える、与えられる自由は、神において可能性であり、人間における不可能性そのものであり、人間の自由の限界線を定める律法とは人間が神にその宗教的可能性において神に完全に引き渡されていることを示す。宗教的可能性とその律法とは、人間が人間として持つ可能性とその限界と同一である。この限界とは此岸における人間の限界であると同時に、死から生へと移った新しい人間への 「然り」(肯定)に他ならない。人間の限界、つまり死を超えたところにあるキリスト・イエスの死とは、キリストが神に棄てられるというその限界を超えたと ころで神的性質を持って神の前に立つことであり、彼の復活は否定を超えた彼岸での肯定を意味する。

 

 律法と宗教はただ従うときに意味を持つのではなく、その限界へと挑戦し反抗するときその限界としての意味を現し、それが人間の宗教的情熱となる。律法・ 宗教の限界は、人間において可能なことと神において可能なことを分かつその断絶線である。その限界は人間が死すべき存在であるということであり、そしてキリスト・イエスの十字架上での死と復活こそが、律法を超えた宗教的顕現であり本質であり、その律法の彼岸こそが神から始まる可能性を意味する。

 

 罪はすべての人間的可能性そのものの可能性であり、恵みは人間可能性の彼岸に存在する人間の神的可能性である。人間の可能性は神の可能性によって制限され、人間はこの人間の可能性の限界の向こう側の彼岸で神と出会う。この人間の可能性=罪を示し、徹底した危機の光としての神的可能性(恵み)を想起させるのが宗教である。しかし、人間とその宗教はその限界性において、神を不可知的なものとしてしか感覚できず、それが死に至る病(絶望)を生む。人間は現に人間であるところの人間以上のものにはなりえない。

 

 人間が神を擬人化する、つまり、創造者たる神を被造物の一つとして見なすことに対して神的な「要求」が生ずる。つまり、無限にして不可能的な存在としての超越的な神への信仰とそれによる宗教という「要求」である。被造物のみの世界における無宗教の状態において「罪」は存在せず、人間は「ただ生きている」 のみである。だが、宗教への目覚めにおいて、自己の被造性と未知なる超越的なものの存在を知ったとき、人間の可能性に不可能性という宿命的な光が投げかけられ、「罪が生き始める」。そしてこの罪によって被造物のみの直接的な生は可能性によって破壊され、罪によって超越的なものとの間接性において生きざるをえず、そして神と人間は死と善悪(罪)を媒介として相対する。一度この神との間接性における生を生きた(宗教に目覚めた)人間にとっては、かつての直接性の故郷に帰ることは、神への裏切りであり、神に対する人間の不可能性の表現であり、破局となる。直接性の世界において、死は存在しなかったが、間接性(宗教)を知った人間は死を知り、善悪を知りそれこそが宗教の根幹であり、これを知ることが罪への堕罪、楽園からの追放である。宗教を知った人間が宗教的であろうとすればあろうとするほど、彼は自らの罪をより深く知ることとなり、罪を脱しようとすればするほど、人間はその罪から逃げられない。人間は死すべきものとして罪から逃れられない。宗教とは、この人間の不可能性を了解させるものである。

 

 人間は自分の欲すること(善)は行わず、欲さないこと(罪)をなす。このことを知っている「自分」がいる限り、罪は人間を支配しないとも言われる。しかし、宗教の現実は「私(自分)」の罪の現実のみについて語る。「欲さないことをしている」と認識している自分とは、罪が自分の中に宿っていることの承認に他ならない。自分が欲さなくとも、罪は罪をやりとげる。そして、その宿り主たる人間は他のだれでもない自分ただ一人である。このように、宗教的な人間とは自己の内に引き裂かれた、平和を持たない不幸な存在である。

 

 この不幸な存在としての人間の全的な廃棄こそがキリストの人間としての死であり、キリストを自分の実存的自我とするとき、人間は不幸から脱し、希望を見る。それは自分の罪の全重量に耐えぬいた向こう側にある希望である。