フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)

第3章「リアリズムと欲望」

〈2〉『ラブイユーズ』と物語内主体の不在による願望=白昼夢としての物語

「『ラブイユーズ』は特徴ある二つの診断、二つの独立した相互に排除しあう説明体系つまり二つの「心理学」を利用する。それらは、奇妙にも重なりあい相互 に重層決定しあいながら、一連の性格特性を説明するのに使われる。この奇妙な二重化――つまりその本質が客観的・社会学的である診断と、その本質が主観的・原精神分析的である診断とを重ねあわせること――、これをみきわめることで私たちは小説の心臓部に到達できる」p303

→二重の「心理学」の見極めがこの節の眼目である。

 

「この[フィリップの物語に表される]歴史の再現=表象は、同時に、その本質がイデオロギー以外のなにものでもない考察の場、私たちが前に使った用語でいえば、概念上の二律背反をめぐる考察の場でもある」p305

「このテクストの「政治的無意識」は、家族という象徴を借りて、社会変革や反革命の問題を提起し、そして、古い秩序へと回帰するには、圧倒的な力が必要だ が、しかし、その過程で古い秩序をも吹きとばさない程度の爆発的な力というのは考えられるのだろうかと、自問しているのである」p305

→政治的二律背反の解決の模索としての物語内での象徴の使用。

 

「読者は、このスペクタクルが、自分よりもっと本質的な、だが、いまここにはいない不在の《目撃者》にすでに供されているか、あるいは、そのような《目撃 者》を教化啓発するために差しむけられていると思い至るのである。この不在の《目撃者》、それは、伝記的存在である母親のことだ」p307

「不在の読者、不在の目撃者というこのカテゴリーは、もはや、特定の誰か個人のことではない。それは、相互主観性の軸のようなもの、コミュニケーション回路の空間というか要素のようなものであり、登場人物のアガトと、バルザック自身の母親とを、見分けのつかないくらい混ぜあわせたものなのだ」p307

「物語中のこの再現=表象は、読者の肩ごしに、不在の、だが、きわめて重要な役割を果たす母親的目撃者にむけて語られる具体的教訓という性格をおび」p308

「作者が想定する主体は、テクストの外側に〈他者〉として、一種の〈絶対的読者〉として位置づけられ、この〈絶対的読者〉は、いかなる現実の、あるいは経験的な読者とも、一致しないように思われる。したがって、現実の読者は、物語のこの部分の再現=表象にかぎっていえば、傍観者もしくは行きずりの観察者のようなものであって、いかなる構造的な位置(略)も、物語のなかに、彼ないし彼女のために開かれてはいないのである」pp308-309

→〈絶対的読者〉としてのバルザックの母の存在により、一般読者は傍観者たりえざるをえない。

 

「アガトの副筋ならびに二人の兄妹のライヴァル関係を扱う物語のこの部分は、願望充足の構造をもつ(略)白昼夢の構造をもつ、と。この白昼夢の夢想のなかに、主体は、おのが心に思い描くイメージを投影し、いっぽう、その白昼夢の読者ないし観客は、成熟した普遍的な再現=表象には必ずしつらえてある空席 (略)を残念ながら見出すことはできなくて、ただ、白昼夢のなかの、その他大勢の人物のひとりという役をあてがわれるにすぎない」p309

「バルザックの場合、(略)願望充足という心的メカニズムはずっと途切れることなく現前しつづけるだけでなく、そのうえさらに、願望充足のプロセスに羞恥心を感じていない、そもそも意識すらしていないのである」p310

→バルザックも無自覚な願望充足のプロセスから何が読み取れるか?

 

「ジャン・ジャックの大人になりきれない虚弱性について、異なる二つの説明があたえられている。つまり父親から受け継いだ資質と環境の面から」p315

「この二つのテーマこそ、決定的な役割を果たす不在のイデオロギー素を私たちに特定させるものである」pp316-317

「この二つの意味素――「専制政治」と「放蕩」――の特異な組み合わせに、どのような歴史的メッセージがこめられているかは明らかだ。この組み合わせにあてはまるのは、《旧体制》だけである」p317

「こうした社会的・歴史的意味の重なり合いをバルザックの小説にもたらしたのは、異種混淆的な物語の言語使用域である。この異種混淆的な言語使用域の成立 には、すでにみてきたように、中心化された主体がまだあらわれない心的状況が可能性の条件として、大きく関与していた」p318

「未来の展望に貫かれているこの小説は、そのテクストの冒頭部からすでに、純粋に〈想像界〉的な願望充足として設定されている。〈象徴界〉は、ここでもまた〈想像界〉へとほぐれてしまう。特権的ななにかを願望する夢が、解決不可能な矛盾によって苦しめられる想像力を慰撫するのである」pp318-319

→物語内での中心化された主体の不在による、作者の願望の充足装置としての物語