フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)

結語 ユートピアとイデオロギーの弁証法

 

2~5章で言及されなかったマルクス主義についてあらためて検討する。伝統的にマルクス主義と結びついてきたイデオロギー分析は二つの側面を持っている。 第一に「否定的解釈学」の側面、第二に「肯定的解釈学」の側面である。前者は国家や法などの《制度》をイデオロギーの産物として分析してゆく、一般的にうけいれられている理解であり、ジェイムスンもその重要性は疑わない。しかし、同時に彼は後者の意義を強調する。

 二つの理解の決定的な相違は「集団」「個人」の捉え方にある。「否定的解釈学」は「集団性」を「虚偽意識」の産物とみなし、「個人」はその虚偽意識によって「脱中心化」されていると説く。さらに文化をとおして人間は「操作」されている(cf.アドルノ・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』)と考える。それ故、その目標は「文化的造形物がイデオロギー的使命を果たし、権力構造を正当化し、なおかつ、それを永遠化し、さらに虚偽意識(狭い意味でのイデオロ ギー)を育むとき、いかなる方法を用いるのか、それを徹底してあばき、白日のもとにさらすこと」(534)となる。

 他方、「肯定的解釈学」においては、「集団性」そのものがユートピア的であると考えられる。たしかに「集団性」は階級対立の中ではぐくまれるものである が、それでも「集団の統一を表現しているかぎり、ユートピア的」なのであり、文化はそれを成し遂げる道具としてユートピア的である。

 二つの解釈学は同時に遂行されなくてはならない。そして文化のみならず、国家や法、ナショナリズムもまたイデオロギーとユートピアの両面から理解されな くてはならないものだ。例えば、ナショナリズムを単に「擬制」として捉えるならば、現代においてそれがもっている強い力を見誤ることとなるであろう。ナ ショナリズムは「健全であると同時に病的」なのであって、それがもつ「ユートピア的=集団的エネルギー」を取り入れることなしには、マルクス主義は現代に生き残れないであろう。

 このようにユートピア願望と文化を結びつけることで、マルクス主義文化研究は積極的に「政治的実践」に参加することできるのである。