エマニュエル・カント『実践理性批判』(岩波文庫)

 

(本書を読む前に以前読書会で取り上げたカント『プロレゴメナ』の理論を確認されたい)

第一篇 純粋実践理性の分析論

第一章 純粋実践理性の原則について

第一節 定義

p.47

意志規定の条件を主観自身の意志にのみ妥当する――主観的原則――「格律」

客観的、全ての理性的存在者[有限的存在者:人間、無限的存在者:神]に例外なく妥当する――客観的原則――実践的「法則」

pp.49-51

理性が意志の唯一の規定根拠でない、人間にとっての実践的規則――「命法」

命法――客観的に妥当

格律――主観的原則

「仮言的命法」――作用原因としての理性的存在者の原因性の諸原因を、もっぱら結果とこの結果を生じせしめるに十分であるということを目途にして規定する――実践的指定

「定言的命法」――もっぱら意志そのものを規定することだけに終始して、その意志がなんらかの結果を生ぜしめるに十分であるか否かを問わない――これだけが実践的法則――意志に偶然的に付着した条件にまったくかかわりがない――意志そのものだけに関係し、結果を無視する

 

第二節 定理一

pp.53-54

「感性的意志」――なんらかの衝動あるいは傾向性に従った意志

「自由意志」――理性の指示する動因に従った意志

快・不快を感受する主観的条件にもとづく原理はある主観に対しての格律であって、すべての主観、主観そのものの法則ではない。

 

第三節 定理二

p.54

実質的な実践的原理は自愛あるいは自分の幸福という普遍的原理のもとに総括される。

pp.59-61

理性は、それが自分自身だけで意志を規定する限り、真の上級欲求能力〔理性〕であり、感性的な規定される下級欲求能力はこれに従属している。

理性は、実践的法則によって直接に意志を規定し、そこへ快・不快の感情は介されない。

幸福の原理・自愛の原理を法則として認めることはできない。それは主観的には必然的だが客観的には偶然的な実践的原理である。

 

第四節 定理三

p.64

ある人間の格律を実践的法則とみなしてよいのは、その格律を「実質」に関してではなく「形式」に関してのみ、意志の規定根拠を含むような原理とみなし得る場合に限られる。

実践的原理の実質は、意志の「対象」である。この対象が意志の規定根拠であるならば、意志を規定する規則は経験的条件に左右されるので、実践的法則ではありえない。

pp.64-67

法則から一切の実質を全て除き去ると、この法則の単なる「形式」すなわち「普遍的立法」という形式だけになる。

主観的―実践的原理としての格律はかかる形式によってのみ客観的な普遍立法にふさわしいものとなる。

一切の傾向性を普遍的に支配する法則は不可能である。

 

第五節 課題一

pp.68

法則の単なる形式は、理性によってのみ表象せられ得る、それだから感官の対象ではない、したがってまた「現象」ではない。よってこの形式の表象は原因性の法則によって生起する自然界の規定根拠とは全く異なる。

p.69

このように自然法則にまったくかかわりがないということは、先験的意味における「自由」と呼ばれる。故に、格律の単なる立法形式だけを自分の従うべき法則たらしめ得るような意志は、自由な意志である。

 

第六節 課題二

p.69

自由な意志を必然的に規定しえる唯一の法則は、格律に含まれている限りの立法形式である。

pp.70-71

我々が意志の格律を定立すると、直接に意識するものは「道徳的法則」である。

道徳的法則こそ、最初に我々に現れるものである。理性はこの道徳的法則をいかなる感性的条件によっても侵害されない。この法則は「自由の概念」につながる。

自由の概念は、現象に関しては何事も説明するものではない。

 

第七節 純粋実践理性の根本法則

p.72

君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。

pp.73-74

上記は意志の格律の形式に関してのみ、その意志 をア・プリオリに規定する規則であり、この根本法則の意識を「理性の事実」と称してよい。この法則は、「経験的事実」ではなくて、まったく純粋理性だけの 事実であり、純粋理性はこの事実にもとづいて、自分は本来立法的であると言明する。

p.75

純粋理性はそれ自体だけで実践的であり、我々が道徳的法則と名付けるような普遍的法則を人間に与える。

p.76

道徳的法則は、有限的存在者[例えば人間]にあっては定言的に命令するような命法となる。

パトローギッシュ[パトスによるもの、「感受的」(以文社版)]に触発された意志[恣意](Willkür)は、主観的原因から生じた願望を、従ってまた純粋な客観的規定根拠にしばしば反することのありえるような願望を伴うことから、道徳的強制として実践理性からの抵抗を必要とする。

 

第八節 定理四

pp.78-79

意志の自律[自分自身のみに従うこと]は、一切の道徳的法則と、これらの法則に相応する義務との唯一の原理である。

意志[恣意](Willkür)の一切の他律[他のものの力に従うこと]は、責務の原理と意志の道徳性に背くものである。

〔証明〕道徳性の唯一の原理の本質をなすものは、この原理が法則のいかなる実質にもかかわりなく、普遍的立法という単なる形式によってのみ意志を規定することである。

道徳的法則が表現するのは、「純粋実践理性の自律すなわち自由」に他ならない。

欲望の対象である意欲の実質が、実践的法則を成立させる条件に入り込むと、そこから意志[恣意](Willkür)の他律が生じる。

意志[恣意](Willkür)の他律とは、意志がなんらかの衝動もしくは傾向性に従うことであり、従って

また自然法則に依存することである。そうなると 意志が自分自身に与えるのは普遍的法則ではなくて、パトローギッシュな法則を理性に従って遵奉せよという指定にすぎなくなる。そうなると格律は普遍的立法 をみずからのうちに含み得なくなる。このような格律から生じる行為は、道徳的法則に適っているとしても、純粋実践理性の原理にもとり、道徳心意とも相容れ ない。

 

注一

pp.79-80

実質的(経験的)条件を伴うような実践的指定を、実践的法則のなかへ数え入れてはならない。

純粋意志は、実質にかかわりのない自由な意志であり、純粋意志を規定する法則は、この意志を経験的領域とはまったく別の領域に置き、法則の表現する必然性は、自然必然性ではなく、形式的条件によってのみ確立される。

実践的規則の実質は、常に主観的条件にもとづいているが、この主観的条件が実践的規則に与えるのは「条件付きの普遍性」に過ぎない。

 

注二

pp.84-85

「幸福の原理」は格律たらしめることはできるが、意志の法則とすることはできない。

「道徳的法則」は、客観的に必然的と見なされる。

自愛と怜悧の格律は「勧告」[Empfehlen]するだけであるが、道徳性の法則は「命令」[Gebot]する。

pp.91-94

p91の「道徳性の原理における実践的・実質的規定根拠」は実質的であることによって、最高の道徳的法則たり得ない。

純粋理性の形式的な実践的原理、我々の格律に よって可能な普遍的立法という単なる形式を、意志の最高にしてかつ直接的な規定根拠たらしめなければならないところの原理こそ、唯一の「可能的原理」なの である。これが定言的命法すなわち実践的法則として、意志規定における道徳性の原理として用いるに堪えるものである。

 

一 純粋実践理性の原則の演繹について

p.94

〔有限な〕理性的存在者[=人間]の意志はこの存在者が感性界に属するものとしては、〔自然〕必然的に原因性の法則に従っている。

人間は実践的方面では、存在者〔物〕自体としての物の可想的秩序において規定せられえる現実的存在であることを意識している。

(可想:悟性によってのみ表象される、感性的直観をこえたもの 『プロレゴメナ』岩波文庫、p.138参照)

p.96

経験の対象を超越したノウーメノン〔可想的存在者〕としての物〔自体〕に関しては、その積極的な認識が「思弁的理性」に拒否せられたが、思弁的理性はノウーメノンのようなものを考える可能性とこれを考える必然性は確保した。また思弁的理性は、消極的意味における自由[p.70参照]を想定することは認めたが、ノウーメノンについての認識への展望をことごとく遮断してしまった。

pp.96-97

道徳的法則は、思弁的理性がいったん遮断したノ ウーメノンへの展望を再び開くものではないが、感性界におけるあらゆる所与と我々の理論的な理性使用を尽くしても説明できないほどの事実を我々に与える。 この事実が、純粋な悟性界の存在を指示し、道徳的法則を我々に認識せしめる。

p.97

道徳的法則は、「感性的自然」としての感性界に、悟性界の、すなわち「超感性的自然」の形式を与える。

「感性的自然」:経験的条件のもとにおける〔自然〕法則に従うような理性的存在者の実在――理性にとっては「他律」

「超感性的自然」:いっさいの経験的条件にかかわりのない〔道徳的〕法則に従うような理性的存在者の実在――理性の「自律」に属する

p.97

物の現実的存在が、法則に従って認識に存在するならば、そのような法則は実践的法則であるから、超感性的自然とは、純粋実践理性の自律に従うような自然にほかならない。このような自律の法則が道徳的法則である。

p.98

悟性界を理性においてのみ認識される「原型的自 然」と名付け、感性界を「模型的自然」と名付ける。模型的自然は意志の規定根拠としての原型的自然という理念から生じた可能的結果を含む。原型的自然の理 念に従う道徳的法則は我々を感性的自然とは異なるような超感性的自然の中へ移し入れる。純粋理性はかかる自然において最高善〔道徳性と幸福との一致〕を産出する。

pp.99-100

経験の対象としての現実的自然においては、我々の自由な意志は、普遍的法則に従う格律をみずから進んで採用するようには規定されていない。しかし我々は、理性によって一つの法則を意識している。そして我々の一切の格律は、あたかも我々の意志によってある種の〔可想的な〕自然秩序が発生せねばならないかのように、かかる〔実践的〕法則に従っている。それ だからこの法則は経験的に与えられた〔感性的〕自然の理念ではないが、しかし自由によって可能な、超感性的自然の理念でなければならない。そして我々は、 かかる超感性的自然に、実践的見地においては客観的実在性を与える。

p.100

意志「の」従属する〔感性的〕自然の法則においては、意志を規定する表象の原因は客観〔対象〕である。

意志「に」従属する〔超感性的〕自然の法則〔道徳的法則〕では、意志が客観を規定する原因性の根拠は、純粋理性能力、すなわち純粋実践理性である。

p.101

直観がなければ我々にはいかなる客観も与えられないし、またいかなる客観も綜合的に認識せられえない。しかし直観はすべて感性的であるので、直観にもとづく思弁的認識は、可能的経験の達する以上に出ることはできない。

pp101-102

理性はどうして意志の格律を規定し得るのか、そしてこのことは、規定根拠としての経験的表象を介するだけで為されるのか、それとも純粋理性はすなわち実践理性であり、また可能な自然秩序ではあるが、しかし経験的には全く認識せられえないような〔可想的な〕自然秩序の法則であるのかどうか。

超感性的自然の概念は、同時に我々の自由な意志によってこの自然の現実性〔現実的存在〕の根拠となり得るが、しかし超感性的自然を可能ならしめるにはア・プリオリな直観(可想界の)を全く必要としな い。こういう〔知性的〕直観は、超感性的直観であるから、実践理性の場合においても、我々にとってはやはり不可能である。

意欲の格律によって意欲を規定する根拠は、経験的なものであるのか、かかる規定根拠が純粋理性の概念(格律一般の合法則性という)であるのか、かかる規定根拠が純粋理性の概念であるとすれば、この概念はどうして〔意志の〕規定根拠になり得るのか。

重要なのは、意志の規定と自由な意思としての意志の格律を規定する根拠に関することであって、そこから生じる成果〔意志の対象の実現という〕ではない。意志が純粋理性にとって合法的でありさえすれば、意志の能力が何を実現しようと、それは全く問題ではない。

p.103

批判が実践的法則の根底におくところのものは、 直観ではなくて、可想界における純粋な実践的法則の現実的存在という概念、つまり自由の概念である。実践的法則は、意志の自由と関係してのみ可能であり、 意志の自由を前提としてのみ必然的である。実践的法則は、実践的要請として必然的であるから、自由が必然的なのである。

p.104

道徳的法則の演繹で問題にされているのは、どこか他所から理性に与えられるような対象の性質に関する認識ではなくて、対象そのものの実在の根拠となり得る限りにおいての認識であり、また理性がかかる対象の実在によって理性的存在者のうちに原因性を持つ限りにおいての認識である。それだからこの〔実践〕理性は、意志を直接に規定する能力と見なされ得るよ うな純粋理性に他ならないのである。

pp104-106

理性の理論的使用においてなら、人間の洞察の根源的能力を我々に与えることのできるのは経験だけしかない。しかし純粋な実践的理性能力に関しては、ア・プリオリな認識源泉にもとづく演繹の代用品であるところの経験的証明によることは拒否せねばならない。

純粋にして実践的な理性は、経験的原理と見なされ得ない。道徳的法則は、純粋理性の事実として我々に与えられており、我々はこの事実をア・プリオリに意識している。よって道徳的法則の客観的実在性は、 いかなる演繹によっても、また理論的、思弁的理性や経験によって支持された理性によっても証明され得るものではない。しかしそれにも拘らずこの客観的実在 性は、他をまつこと[他律である]なくそれ自体だけで確立されている[自律である]。

pp106-107

思弁的理性は、無条件者をその原因性に関して見出すために自由の能力を想定せざるを得なかった。道徳的法則そのものは、自分自身の正当性を証明すべき根拠を必要としない。そこでこの道徳的法則が、自由 の可能性を証明し、理性的存在者においてこの自由が現実的に実在することを証明する。道徳的法則は、自由による原因性の法則であり、それゆえまた超感性的 自然を可能ならしめる法則である。道徳的法則は思弁的哲学においては消極的な概念でしかなかったような〔自由の〕原因性に対して法則を規定し、またこの原 因性の概念に客観的実在性を与える。

p.108

道徳的法則は、自由の可能性に、積極的規定、意志を直接に(意志の格律の普遍的法則的〔普遍妥当的〕形式という条件によって)規定する理性という概念を付加する。道徳的法則は理性に客観的実在性を与えることができ、超越的理性使用を内在的使用(理性が経験の領域において、理念そのものによって使用する原因になること)に変じる。

pp.108-109

条件の無限遡及に対しても、ある無条件的なもの、自分を全く自分自身だけによって規定すうような原因性〔自由の原因性〕が必然的に存在しなければならない。しかし現象としての物の原因の中には、絶対的に無条件であるような原因性による規定はあり得ないから、この自由の理念に対応するような実例を、経験において見出すことは不可能である。

それゆえ、自由にはたらく〔無条件的な〕原因と いう思想を弁護し得るのは、感性界における存在者が、同時にノウーメノン〔可想的存在者〕である場合だけである。存在者の行為は、それが現象である限りに おいては全て自然〔必然〕的条件に従わねばならないが、存在者が〔可想界すなわち悟性界に属する〕悟性的存在者である限りでは、その原因性は自然的条件に かかわりのない無条件的原因性と見なされるので、自由の概念を理性の統整的原理たらしめることができる。

pp.109-110

思弁的理性ではとらえられない、条件の無限遡及の根源的条件に、可想界における自由による原因性という道徳的法則を置くことによって、自由の概念には実践的だけにしても、客観的で疑う余地のない実在性が与えられる。

pp.110-112

ノウーメノン的原因(可想的原因)はどうして可 能かということは思弁的理性では証し得ない。また実践的理性としてもこのことは顧慮されない。実践的理性は、感性的存在者としての人間における原因性を規定する根拠だけを純粋理性の中へ置き、原因そのものの概念を対象の認識のためにではなくて、対象一般に関して原因性を規定するために、つまり実践的見地に おいてのみ使用し、こうして意志を規定する根拠を、可想的秩序の中へ置くことができたのである。

思弁的理性は、〔可想的秩序における〕物を認識するためにどのような原因の概念の規定を持てばよいのかは知ることができない。しかし、思弁的理性は感性界における意志の行為に関しては、その原因性を認識せねば、実践的理性がいかなる行為をも生ぜしめ得ることができない。

しかし実践的理性はノウーメノンとしての自分自身の原因性についての概念を理論的に規定することや、この概念に意義〔客観的実在〕を与えることを必要としない。そうでなくとも原因性の概念は道徳的法則によって意義を持ち得るからである。

理性が、道徳的法則によって原因性の概念に与えるところの意義は、まったく実践的なものである、(意志の)原因性の法則という理念は、みずから原因性をもつか、さもなければ原因性の規定根拠だからである。

 

二 純粋理性がその思弁的使用においてはそれ自体不可能であるような拡張を、その実践的使用においては為し得る権能について

(pp.112-120は『プロレゴメナ』で既に論じていたので略す)

pp.121-122

純粋意志、あるいは純粋実践理性の客観的実在性は、道徳的法則においてア・プリオリに、いわば事実によって与えられている。意志の規定が必然的であれば、それが経験的原理にもとづいていない場合でも、やはり事実と呼べる。

意志の概念の中には、既に原因性の概念が含まれているため、純粋意志の概念の中には、自然法則によって規定され得ない自由による原因性の概念が含まれている。それゆえ経験的直観は、純粋意志〔自由な意志〕の実在性を証明できないが、純粋意志の客観的実在性はア・プリオリで純粋な実践的〔道徳的〕法則において、その正当性が証明されている。

p.122

自由な意志〔純粋意志〕を具えているような存在者の概念は、ノウーメノン的原因の概念である。しかしノウーメノン的原因は、たとえ理性の理論的使用に関しては可能な概念であるにせよ、感性的な直観によっては裏付けされ得ない空虚〔無内容〕な概念である。

p.123

[カントは]ある理性的存在者が純粋意志をもつ 限り、その存在者がどのようなものであるかを知ろうとはしていない。原因性の概念を自由の概念に結びつけるだけで十分なのである。ノウーメノン的原因の概念の実在性を規定する道徳的法則に関係することによって、この概念を実践的に使用するだけの権能しか我々は持たないのである。

pp.123-124

経験的条件に制約されていないような原因性の概念は理論的には直観を欠いた空虚なものであるが、依然として可能であり、客観〔対象〕に関係する。この概念に意義を与えるのは、客観ではなく道徳的法則であり、実践的関係においてだけの話である。しかしこの原因性の概念は、人間の〔道徳的〕心意あるいは格律において具体的な現実的適用を持つ。

pp.124-125

ある純粋悟性概念〔カテゴリー〕の客観的実在性が、超感性的なものの領域に導入されると、この客観的実在性が他の全てのカテゴリーにも同じく客観的実在性を与える。しかし、この実在性は実践的にのみ適用されえる。よってこれは超感性界における対象の理論的認識には結びつかない。カテゴリーを超感性的なものに適用するにしても、それは実践的においてのこ とであり、この理性に超感性的なものに熱中させるつもりはない。