フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)

第2章「魔術的物語」

〈5〉イデオロギー解読のためのジャンル批評へ

「間テクスト的構築体という形式は、決定的で意味のある《不在》を、テクストのなかに記録するのにも利用することができる。ちなみに、ここでいう不在とは、見失われた関係を生じさせたはずの系列を私たちが再確立したとき、はじめて目に見える、そういった不在である」p242

「『のらくら者日記』においては、貴族階級に関するプロットが構造的に抑圧されているが、それはある戦略的理由があってのことだった。革命以降の新たな読 者の立場からいえば、貴族階級にまつわるプロットのはっきりとした現前は、ドイツに擬似封建的な力構造が生き残っていることをいやでも思い起こさせるから というのが、その理由であった」p243

「こうした禁忌(タブー)や逸脱との戯れは、注意をそらすという、なくてはならない機能を果たす、ずらし(ディスプレイスメント)として捉えることができ、はるかにもっと危険な、一触即発の禁忌の力をそらすことを本来もくろんでいる」p243

→間テクスト性に着目することにより、テクスト内の「不在」から歴史的・社会的な構造を読解することができる。

 

「この相互に関係しあった二つの通時的な、あるいは間テクスト的な構築体を念頭に置くことで、私たちは数多くの別々の物語体系が共存したり、矛盾したり、 構造的ヒエラルキーをなしたり、不均衡に発展したりしたものとして、テクストを共時的に読みなおすことができる。そして、このような読みの可能性があってこそ、こんどは逆に社会的象徴行為として、つまり、歴史的ジレンマに対するイデオロギー的な(略)反応として、テクストを理解することができるようになる のである」p244

→間テクスト性に着目することで一つのテクストの中の複雑な構造が明らかになり、それにより共時的理解が可能となり、社会的象徴行為としてのテクストが理解できるようになる。

 

「マルクス主義にみられる通時的再現=表象は、(略)ニーチェがはじめて《系譜学》(ジニアロジー)と認定し名づけたものだった」p245

「新しく生じた力強い形式を持ったジャンルは、必然的に社会象徴的なメッセージとなる。換言すれば、その形式は、内在的・本質的に、それ自体、イデオロ ギーとしての資格をそなえているのだ、と。このような形式はさまざまな社会的・文化的文脈に最専有=横領されて再形成されても、そのメッセージは存続し、 必ず新しい形式のなかに機能的に読み込まれることになる」p246

「形式そのものがイデオロギーであり、それはこのように沈殿堆積し、あとに来る、より複雑な構造のなかに存続する。そして後の時代の諸要素と(略)共存するジャンル的メッセージとなって、存続するのである」p247

→芸術作品の形式そのものがイデオロギーであり(cf.アドルノ『新音楽の哲学』)、それが沈殿しながらも連綿と受け継がれていく。

 

「テクストとは、構造的に相互に矛盾する、つまり異質な諸要素からなる共時的統一体(略)である」p247

「ジャンル理論は正しく適用されるなら、いくつかのジャンル的様式(モード)または要素のあいだの共存や緊張を示すモデルを、なんらかのかたちで、提起することになると思われる」p247

[ジャンルを分類する際の]「その決定の主眼は、それと弁証法的対立関係にあると考えられる別のジャンルと対照して、そのテクストとその様式の特性を規定することにある」

→ジャンル批評、ジャンル理論はジャンルを同定することによって対象とするテクストの共存や緊張や対立を弁証法的に止揚することに主眼がある。

 

「テクストの幻想の水準は、いかなる文化的造型物をも共鳴させる、なにか根本的な原動力のようなものだといえるが、ただし、それは気がつくと必ず他のイデオロギー的機能のために転用されて、私たちが政治的無意識と呼んだものを再付与されている」p250

「小説とは有機的統一体というよりは象徴行為であって、それぞれに独自で相矛盾するイデオロギー的意味を持った異質な物語パラダイムを、再統一あるいは調和させるものなのだ」p252

→テクストには政治的無意識が再付与されており、小説は象徴行為として、内部で相矛盾する物語的パラダイムを再統一あるいは調和させる。

 

「このようなジャンル分析はかくして作動しつづけ、ついには、そのジャンルのカテゴリー(略)を、ジャンルのカテゴリーの理解に不可欠な歴史的矛盾または 沈殿したイデオロギー素へと分解する。ジャンル分析のこの最後の一瞬において、ジャンルの基礎的カテゴリーそのものが、歴史的に脱構築され廃棄され、ひと つの最終原則が提起される。(略)すべてのジャンル的カテゴリーが、(略)最終的にたんなるその場かぎりの、実験的構築物として、理解されることになる。 ジャンルは、特定のテクストのために考案され、分析がその作業を終えるや足場を片付けるように廃棄されてしまうようなものとして、理解されるのである」 p254

「それ[カテゴリー、もしくはジャンル]が比較的恣意的な批評行為と受けとめられているかぎり、分類作業は価値があるけれども、教養小説のカテゴリーのよ うに、「自然な」形式と考えられるようになると、その活力をうしなってしまう。ジャンル批評は、それによって自由を回復し、実験的存在の創造的構築のための新たな空間を切り拓くものなのだ。この創造的構築(略)は「通時的構築体」を提案するものであり、これによって、そうした小説が象徴行為として読める共 時的歴史状況へと、結果的にいっそう確実に立ち返るのである」pp254-255

→ジャンルは確立し、自然となった時点でその分類は批評的意味を失うが、(ジェイムソンのマルクス主義批評における)ジャンル批評は通時的構築体、さらにはそれを象徴行為として読解して共時的歴史状況を暴き出すものである。