ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(ちくま学芸文庫)第2部

第七論文 『マダム・エドワルダ』序文

「目を見開いて今起きていることを、今存在しているものを、直視する意志には何かしら暴力的で驚異的なものが関係しているということなのだ。もしも極限的な快楽について何も知らず、極限的な苦悩について何も知らなかったら、私は、今起きていることを知ることはないにちがいない」

「卑猥な冗談で私たちは大笑いをするのだが、そのときこの大笑いが私たちにみえなくしているもの、それこそが、極限的な快楽と極限的な苦悩との一致、存在と死の一致、この光り輝く展望に達して完了する知と決定的な暗闇との一致なのである」(p454)

 →(実存主義的に?)今、ここで起きていること、その極限状態を凝視することを糊塗するものとしての笑い。

 

「死がもはやただ単に消滅を意味しているだけではなく、耐えがたい運動をも意味している、そういう領域があるのだ。この耐えがたい運動とは、何としてでも私たちは消滅してはならないというのに、そのような私たちの願いにもかかわらず私たちが消滅していってしまう、そういう運動のことである」「しかし驚異的でもある恍惚の瞬間を際立たせている、何としてでも存在しなければならないと私たちが願っているにもかかわらず、私たちを凌駕してゆくもの、そのようなものがもしも1つもなくなるならば、私たちは、全力を尽くして向かっているあの常軌を逸した瞬間に、しかし同時に全力を尽くして押し返そうともしているあの 常軌を逸した瞬間に到達できなくなるのである」(p456)

 →消滅への限界状態、自らを凌駕するものへの抵抗の瞬間に生きること。

 

「もしも私たちが、見る可能性を超出するものをあえて見ようとしないならば、つまり恍惚の局面で享楽するのが耐えがたいように、見るのが耐えがたいものをあえて見ようとしないならば、もし私たちが、超出するものを考えようとしないのならば、真実とはいったい何を意味することになるのだろうか」

「この省察の果てに私たちは神を再発見するのである」(p457)

「じつに清純な愛こそが、最も暴力的な錯乱を、すなわち生の盲目的な過剰を死の限界へ導く錯乱を、表に見えない仕方で私たちに教えているのである」(p460)

「際限のない喪失という規模に至ると、存在の勝利を再発見することになる。存在に欠如していたのは、存在を滅ぶべきものにしようとする運動に合体することだけだったのだ。存在は、おそろしい踊りへ自分をかりたてる」(p460)

「そしてこの存在が、ゆがんだ口で空しく(?)聞かせようとしている叫びこそ、際限のない静寂(しじま)へ消えてゆくおおいなる「ハレルヤ」なのだ」(p461)

 →バタイユ的実存主義?

 

結論

「労働と比較すると侵犯は遊びである」

「遊びの世界では哲学は解消する」

「哲学に基礎として侵犯を与えること(略)、これは、言葉を沈黙の凝視に置き換えることである。これは、存在の頂点で存在を凝視することなのだ」(p468)

「その[沈黙、死の]激しさのなかで存在の真実は、生からも生の対象からも解き放たれるのである」(p4699

「言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである」

「侵犯の運動においては、労働によって意識の発展に立脚させられていた思考が、最終的に労働を乗り越えてもはや自分が労働に従属しえないことを認識してゆ くのだが、まさにこの侵犯の運動においてこそ、唯一この運動においてだけ、存在の頂点はその全貌を明らかにするのである」(p470)

 →言葉によって沈黙の存在に思い至らせ、労働によってやせ細った存在を解放するための本がこの本なのであった。