『実践理性批判』カント(1788)

第二篇 純粋実践理性批判の弁証論

第一章 純粋実践理性一般の弁証論について

純粋理性のアンチノミーについては純粋理性批判で取り扱った。

「ところが純粋理性の実践的使用においても、事情は少しもよくならないのである。理性は、実践的な純粋理性としても、実践的に条件付きのものに対して、や はり無条件的なものを求める、しかも意志の基底根拠としてではなくて、たとえこの根拠がすでに与えられているにせよ、純粋実践理性の対象の無条件的全体性 を最高善という名のもとに求めるのである

(p220-221)

 

第二章 最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について

 「最高のもの」-「最上のもの」と「完成せるもの」の二つの意味(p225)

 徳と幸福との必然的連結の二通りの仕方(p227)

1 同一性の法則 2 因果性の法則

エピクロス学派とストア学派との違いについて

「ところで徳の格率と自分の幸福の格率とが、それぞれ最上の実践的原理としての徳と幸福とに関して、まったく種類を異にしているということ、またこの二通 りの格率は、いずれも最高善を可能ならしめるに必要であるにせよ、しかし両者は一致するどころか、同一の主観においてすら互に甚だしく制限し合い阻止し 合っているということ」(p229)

 

 一 実践理性のアンチノミー

 徳と幸福との結合は分析的であるか綜合的であるか?- 分析的ではありえない。

「この結合は綜合的であり、しかも原因と結果との必然的連結と考えられねばならない、この結合は、実践的善に-換言すれば、行為によって可能になるような 善に関係するからである。すると幸福を得ようとする欲望が、徳の格率に向かわしめる動因でなければならないか、それとも徳の格率が幸福の作用原因でなけれ ばならないか、二つのうちのいずれかである」(p231)

第一の命題は絶対的に不可能。

第二の命題もまた不可能。

 

 二 実践理性のアンチノミーの批判的解決

 第一の命題は絶対的に虚偽。第二命題は条件付きの虚偽(p233)

「実践理性におけるこのような見かけの矛盾にも拘らず、最高善は道徳的に規定された意志の必然的な最高目的であり、実践理性の紛れもない対象なのである。」(p233)

 

アンチノミーの解決から三つのことが明らかとなった。(p240-241)

1 道徳性に比例するような幸福を期待することは実践的見地からは可能

2 幸福から道徳性は産み出し得ない

3 最上善は道徳性

 

 三 思弁的理性との結合における純粋実践理性の優位について

「それだから純粋思弁的理性と純粋実践理性とが結合して或る認識を形成する場合に、この結合が偶然的、任意的ではなくて、ア・プリオリに理性そのものにも とづいていること、従ってまた必然的であることが前提されるならば、後者すなわち純粋実践理性が優位を占めることになる」(p245)

 

 四 純粋実践理性の要請としての心の不死

「意志と道徳的法則との完全な一致が、実践的に必然的として要求されるとすれば、それは完全な一致を目指す無限への進行のうちにのみ見出され得るということになる。

(p246)

心の不死とは、同一の理性的存在者の実在と人格性とが無限に存続することである。(p246)

 

 五 純粋実践理性の要請としての神の現存

「神の現存を想定することは、道徳的に必然的」(p252)

理性的信について(p253)

「キリスト教における最高善の概念だけが、実践理性の最も厳格な要求を満足させるのである」(p255)

宗教について(p259)

有名な文章「およそ目的の秩序においては、人間は、目的自体であるということ、換言すれば、この場合に人間は同時に目的そのものでもあるということを顧み ずに、何人によっても単に手段として使用され得るものでないということ、それだからまた我々の人格における人間性は、我々にとって神聖でなければならない ということが、ここにおいておのずから明らかとなった。」(p262-263)

 

 六 純粋実践理性一般の要請について

第一の要請:心の不死

第二の要請:積極的意味における自由

第三の要請:神の現存

 

「だが我々の認識は、このような仕方で、純粋実践理性によって実際に拡張されるのだろうか、また思弁的理性にとっては超越的であったものが、実践理性においては内在的になるのであろうか。もちろん、とはいえこれはすべて、実践的見地においてだけの話である。」(p266)

 

 七 一方では実践的見地において純粋理性を拡張しながらそれと同時に他方ではこの同じ理性の認識を思弁的に拡張しないということがどうして考えられ得るのか

 「純粋理性を実践的に拡張するためには、一つの意図がア・プリオリに与えられていなければならない」(p267)

・つまり対象(この場合は最高善)が与えられれば、不当な拡張は起きないとカントは考える。

注) 確実性の度合 蓋然的<実然的<確然的

「しかし理論理性のこのような拡張は、決して思弁の拡張ではない。換言すれば、こんご理論的見地において理論理性を積極的に使用するためではない。実践理性がこの場合に果し得たことは、件の三概念が現実的にそれぞれ対象をもつということだけだからである。」(p268)

・件の三概念とは六.で示された三つの要請のことである。

 

構成的原理と統制的原理について(p270)

「ところで理性がひとたびこのような拡張をなしとげると、理性は思弁的理性として(本来は理性の実践的使用を確保するためだけに)消極的に―と言うのは、 認識を拡張するためではなくて、これを浄化するために、件の三理念をもって仕事に取りかかり、一方では迷信の源泉としての神人同形論や、また経験による拡 張と称してこれらの概念に見せかけの拡張を許すような僭越を防止し、更にまた他方では、かかる不当な拡張を超感性的直観だの、あるいはこれに似たりよった りの感情だのによって約束するところの狂信を阻止するのである。」(p270)

・カントによれば不当な拡張が行われると、迷信や狂信という現実社会において脅威となる現象が起きる。彼はそれを防ぎたいのである。

 

 八 純粋理性の必要にもとづく意見について

「理性の思弁的使用における純粋理性の必要は仮説に到達するにすぎないが、しかし 純粋実践理性の必要は要請に到達する。」(p282)

 実践理性的信という概念について(p290)

 

 九 人間の認識能力は人間の実践的規定に巧みに釣り合っているということについ

 「人間の本性が、最高善の達成を期して努力するように規定されているとすれば、人間の本性に具わっている認識能力のそれぞれの程度や、とりわけこれらの認識能力相互の関係は、この目的によく適合していると見なされねばならない。」(p290)

私見ではこのような文章を書いてしまうから、ベルグソンなどから批判哲学は予定調和的だと書かれてしまうように思える。

 

第二部 純粋実践理性の方法論

 「実践理性批判の方法論は、どうすれば純粋実践理性の法則を人間の心の中に取入れて、心の格率に影響を与え得るか、換言すれば、客観的に実践的な理性を主観的にも実践的なものにすることができるかという仕方を言うのである」(p297)

以後、簡単な教育論が続く。

【この部が極端に短い理由】

 具体的には『道徳の形而上学』を読んでください、ということ。

 

結び

 有名な言葉「私の上なる星をちりばめた空と私の内なる道徳的法則」

 

【参考文献】

1 『カントの批判哲学』ドゥルーズ(ちくま学芸文庫)

ドゥルーズが、敵であるカントが批判的に吟味した純粋理性、実践理性、判断力に関して、その機能を暴力的なまでに要約してしまった本。ドゥルーズの哲学を理解するためには、なぜ彼がカント批判とヒューム再評価を行わなければならなかったのかを知る必要がある。