ホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)

第2章 オデュッセウスあるいは神話と啓蒙

1.犠牲とは何か

 犠牲自体が神々と等価交換をするという点において、神々を支配するための人間の企てであって、そこに既に神々に対する瞞着の契機が存在する。そしてこの人間による支配の企ては、犠牲による身代わりの呪術的力をもはや信用しない確立した(啓蒙された?)人間による詭計であり、支配されるものにとって、犠牲の信仰とは、彼らが彼らに加えられた不正を忍ばんがために、改めてそれを自分自身の上に加える場合に従うように教えられた信仰に他ならない。そして、犠牲の実行される必然性がそれ自身すでに真実性を失ったあとも、この信仰としての犠牲は継続されていた。なぜなら犠牲には上記以外の合理性があったからであ る。

 

2.内なる自然の否定・支配としての犠牲

 犠牲の克服をもととして成立した、同一性(アイデンティティ)を守る自己にとって、自らを犠牲とすることは合理的必然性がある。自らを犠牲とすることにより、人間は外部の自然や他の人間を支配し得るからである。しかし、この外部の自然の支配は、自己の内部の自然を否定するという報復を伴う。そして、この自己の内部の自然を否定するということによって外なる自然を支配するということは、外なる自然を支配するという目的と同時に、自分の生の目的すら失うということである。生は本来の目的を失い、手段が目的となり、手段のための手段というトートロジー的論理のみが人間を駆動させることに なる。

 

3.経済人としてのオデュッセウス

 自己を犠牲とすることを内面化することによってのみ人間は自分自身を呪術から解放し、自らを社会化した経済人とすることができる。 だが、この呪術からの解放は上記の内なる自然の否定・支配を内面化することであり、また経済人として自己を社会化することは、他の全ての人間から自己を疎外し、敵対者、道具、物体と他者をみなすことにつながる。そしてオデュッセウスがキュクロプスに対して自らを「誰でもない者」と名乗ったのは、この経済人 としての市民的理性が自分に対抗するあらゆる非啓蒙(自然?)にも同化するフリができるという詭計的本質を表したものに他ならない。「誰でもない」と名乗ることにより、自然への同化(模倣)を偽り、そしてそれによって自然を支配しようとすることこそ、経済人としてのオデュッセウスが「啓蒙」による自然支配の端的な事例であるという証拠である。