フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』(松村一人・和田楽訳、岩波文庫版)

ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804~1872年):ドイツの哲学者。ヘーゲルの影響の下に出発したが、後にヘーゲル批判を展開する。その他『キリスト教の本質』(1841年)『唯心論と唯物論』(1866年)など。

本書収録の論文:

「将来の哲学の根本命題」(1843年)

「哲学改革のための暫定的命題」(1842年)

「ヘーゲル哲学の批判」(1839年)

 

主に「将来の哲学の根本命題」を読み、対応する箇所を「哲学改革のための暫定的命題」から〈 〉で適宜指摘する。

全体は65節だが、30節あたりまでは先行する哲学思想の検討・批判に費やされる。それ以降に「新しい哲学」の構想が述べられる。

 

神学と思弁哲学の鏡像関係

近世において神学は人間学に転化・解消する(8)。とりわけプロテスタンティズムによって。それはもはや神学ではなく宗教的人間学である。

他方、神学的な思弁性は近代の思弁哲学に受け継がれる。

「思弁哲学の本質は、合理化され、実現され、現在化された神の本質以外の何ものでもない。(9)

神としての神―ただ、理性によってのみ理解される神―とは実は理性そのものの本質。

理性自身が神において、自らの無制限性を思考している。それゆえ…

「有神論において客体であるものは、思弁哲学においては主体である」(13)

有神論では神は感性的に対象化された本質だが、思弁哲学でなんらかの媒介物なしに思考される。

神は人間だけの対象である。というのはある存在はそれが対象とするものによって規定されるから。(目→光、草食動物→草)

 

普通の神学においては人間の立場が神の立場となる。神は非人間的とされながら実際には人間的である(三位一体)という点で、自己矛盾的である。

思弁的神学・哲学では神の立場を人間の立場にする。神は人間的・理性的であるとされながら、実際には非人間的であるという点で、人間との矛盾となる。→「神」の放棄?

 

デカルトやライプニッツなどの近世の思弁哲学は確かに物質を捨象したが、いまだ有神論の立場を取っていた。

それを完成するのが絶対的観念論。「思考するものと思考されるものとのこの統一」(21)。

 

有神論               思弁哲学

思考する主体→思考する客体     思考する主体→思考する客体

人間    →     神     人間    →    人間

 

有神論における「神的な感性的知識」(神はすべてを知覚する)は「類」としての人類が持つ知識に他ならない(顕微鏡、望遠鏡)。「人間が神についてもつ表象は、個人が自分の類についてもつ表象である」(23)

神の知は世界史において実現される人間の集合知。

 

思弁哲学は神の持つ無前提性を人間に移し変えたもの。そこでは神の諸性質は「思考」という人間の行為となって現れ出る。

思弁哲学は神の肯定であり、否定である。それは有神論かつ無神論。

他方、汎神論は神を否定し、かつ肯定する。

 

有神論       汎神論

人格神       自然および人間

仮象と本質の矛盾  仮象と本質の統一

 

汎神論は有神論の真理であり、神学的無神論である。なぜなら「汎神論は物質、すなわち神の否定を神的存在の述語または属性の一つにする」(31)から。〈汎神論は、神学の立場における神学の否定である〉(99)

 

経験論や実在論は神学を実践的に否定する。近世における自然への関心。

「汎神論は理論的[な]神学の否定であり、経験論は実践的[な]神学の否定である」(33)

神学の否定は近代の運命。

 

汎神論は理性への要求から物質を要求する。ただし唯物論とは異なり、その要求は間接的。理性を直接的に神化するのは観念論。汎神論の真理としての観念論。

「自然科学が光から目に戻らざるをえなかったように、哲学もまた思考の対象から「我思う」に帰らなければならなかった」(37)。哲学において、意識はあらゆる存在の尺度となる。というのも「意識がはじめて存在であるから」(38)。「観念論のうちに神学の本質が、自我のうちに、意識のうちに神の本質が実現される」(38)

カント、フィヒテなどのドイツ観念論がこれに該当。しかし彼らは、いまだ有神論的。ヘーゲルは汎神論的観念論。

 

ヘーゲルにおいて近世哲学は完成する。〈スピノザは現代の思弁哲学の本来の創始者であり、シェリングはその再興者、ヘーゲルはその完成者である〉(97)

「だから、新しい哲学の歴史的必然性と弁明とは、とくにヘーゲルの批判と結びつく」(42)。新しい哲学はヘーゲル哲学の真理であり、その否定である。

 

ヘーゲルに存在する矛盾は汎神論のそれと同様。ヘーゲルは、それ以前の哲学者と同様、純粋な知的存在を神としたが、彼らとは異なり、知性を物質から切り離されたものとは考えない。そうではなく、物質からの解放を自ら為すところに、知性の自由はある。ただ、物質はまた精神の自己外化である。ゆえにヘーゲルにおいて物質とは「理性のうちの非理性、自我のうちの非我、その否定」(44)である。

それゆえ、ヘーゲルにおいて物質と知性の矛盾は解消されていない。むしろ神学に逆戻りする。〈ヘーゲル哲学は、神学の最後のかくれ場所であり、最後の合理的な支えである〉(116)

極度に抽象化された思考は、もはやわれわれのものではなくなる。神学化。〈ヘーゲルの論理学は、理性的にされ、具体的にされた神学、つまり論理学とされた神学である〉(100)

 

「或るものがあるという証明は、或るものが単に思考されただけのものではない、ということ以外の意味をもたない」(52-53)。

しかしヘーゲル的に思考と同一化した存在では、これを導くことができない。そうではなく、「存在とは、私ひとりではなく、また他の人たちも、何よりもまた対象そのものの、これに関与している或るものである」(53)。

 

抽象的でない「存在」を探究する。

『精神現象学』「感覚的確信」に現れる「このもの」すらも、現実の存在ではない。現実の「このもの」とは「例えば、この妻は私の妻であり、この家は私の家である」(57)。現実には「法の意識」(57)がある。

※ヘーゲルは『精神現象学』で、いかにして素朴な意識から「論理的に」絶対知が導かれるかを論述する。その冒頭「感覚的確信」章では目の前にある事物のみが真実と考える意識が、いかに「一般性」に到達するかが検討される。当初、「このもの」という概念を目の前にある事物にしか適用していなかった意識は、次第に「このもの」が様々な事物に適用可能な一般性を持った概念であることを知る。フォイエルバッハはこの「直接性」から「一般性」へのプロセスに所有の観点が含まれていないことを問題にする。

 

「存在の問題はまさに一つの実践的な問題、われわれの存在が関係している問題、生死の問題である」(58)。そうした存在は「言いあらわすことのできない」(59)ものである。

思考と存在の一致の起源を新プラトン主義にみる。

 

「具体的なもの」はいかに思考されるか?

現実的なものとは「思考の対象であるだけでなく、また思考でないものの対象でもなければならない」(67)。それは「感性的なもの」(67)。感性において思想は実在性を獲得する。しかしそうした「実在性」は思想の外にある。

 

感性を通じて諸実体は互いに作用することができる。

「存在の対象である存在は…感官の、直観の、愛の存在である」(70)。愛において「このもの」は絶対的価値をもち、有限なものが無限となる。そうした無限性が「存在」の秘密である。〈真の哲学の課題は、無限なものを有限なものとして認識することではなく、有限なものを有限でないものとして、すなわち無限なものとして認識することである〉(105)

愛によってのみ、人は「存在」と「非存在」を区別するが、それは苦痛や喜びとして感じられる。〈きみは質を思考するする前に、質を感じる。受動が思考に先立つ〉(106)〈窮迫した存在だけが、必然的な存在である〉(110)

新しい哲学においては、愛されえないものは存在しない。哲学の対象は宗教の対象となる。

※「愛」のもとで諸事象が所有・非所有の区別のもとで捉えられるのであるなら、「愛」は有限なものを無限にしてしまうので、所有物・非所有物は交換不能?

 

或るものが真であるのは、それが直接的なものである場合だけである。「画期的な時代が生じるのは、以前はたんに思考され、媒介されたにすぎなかったものが、…真理となるとき」(74)。

 

「芸術が「真理を感性的なものにおいて描写する」とは正しく理解すれば、芸術は感性的なものの真理を描写する、ということである」(76)〈人間的なものが神的なものであり、有限なものが無限なものであるという、血となり肉となった、確固たる意識が、力、深さ、情熱においてこれまでのすべてにまさる新しい詩と芸術の源泉である〉(104)

宗教や自分自身もまた感性的に認識される対象である。

※デカルト「我思う故に我あり」との対比

 

知識は人々の間で共有されることで確実となる。

「他の事物が私のそとに存在するという確実性そのものは、私にとっては、他の人間が私のそとに存在するという確実性に媒介されている」(78)

 

本質と仮像などの区別も感性的に認識することが可能。

(cf. リンネの植物体系におけるおしべの数)

※ヘーゲルにおいては「本質」や「仮象」は抽象的論理のカテゴリーとして把握される。

 

感性的なものは思想的なものの手前にあるのではない。むしろ、思想の到達点が感性である。「哲学の、学問一般の課題は…普通の目には見えないものを見えるように、すなわち対象的にすることにある」(79)。〈哲学は、あるところのものの認識である。事物や本質をあるがままに思考し、認識すること―これが哲学の最高の法則であり、最高の課題である〉(107)

※社会モデルを考案するものとしてではなく、社会的な亀裂を明らかにするものとしての「社会学」などに通じるか。

 

何かが存在するためには一定の空間と時間を占めなければならない。複数の場所に同時にあることはできない。〈空間と時間はすべての事物の存在形式である〉(108)

矛盾した規定が同一の事物のうちにあるとき、心は苦痛を感じる。

 

現実的なものは、思考においては整数ではなく、分数でのみ現すことができる。ある種の残余を含むものとしての現実。

 

人間学としての哲学

新しい哲学における主体は、その全的な意味における人間である。新しい哲学は神学を人間学に解消する。人間は動物から区別されるが、それは単に思考においてだけではない。感覚においても異なるのである(胃の人間性)。〈神学の秘密は人間学である〉(97)

 

「新しい哲学は、人間の土台としての自然をも含めた人間を、哲学の唯一の、普遍的な、最高の対象とする。」(92)〈すべての学問は自然に基づかなければならない〉(121)

「人間の本質は、ただ、協同体のうちに、すなわち、人間の人間との統一のうちにのみj含まれている。」(94)

新しい哲学は宗教に代わり、宗教の本質(人間にとっての真理)を体現する。〈新しい哲学はしたがって、宗教的感動の真理を否認する神学の否定として、宗教の肯定である〉(113)

まったく新しい哲学へ。