ジョン・スチュワート・ミル著『自由論』(山岡洋一訳、光文社古典新訳文庫版)

 

ジョン・スチュアート・ミル…1806年生。東インド会社に勤務しつつ、著述活動を行う。1873年没。

 

冒頭、W. v. フンボルトからの引用。多様性の擁護。

第1章 はじめに

本書でいう「自由」とは「意志の自由 Liberty of the Will」ではなく、「市民的 Civil自由Liberty」「社会的自由」である。(10)つまり「社会が個人に対して適切に行使しうる権力powerの性質と限界」。

この問題は古くて新しい。かつて自由と権威の間の闘争は被支配者subjectsないし被支配階級と政府の間にあった。この場合、自由とは「政治的支配者の圧制からの保護」であった。支配者の権力の制限=自由。抵抗や反乱もしくは憲法による。

現在では、必ずしも支配者と国民は対立するものではない。民主主義の浸透。しかし逆に「国民の自治self-government」や「国民の国民に対する権力the power of the people over themselves」が疑わしいものになる。「権力を行使する「国民people」は権力を行使される国民と同じだとはかぎらない。「国民の自治」とされているものは、各人が自分を支配することではなく、各人が自分以外のすべての人に支配されることを意味する」(16)

「多数派の専制」は必ずしも国家権力を媒介しない。むしろ社会そのものが抑圧oppressionになる。どころか、社会が本来関わるべきでない事項への抑圧は政治権力によるものより恐ろしいものである。「多数派の思想ideasと慣習practicesを社会全体の行動の規則とし、刑罰civil penalties以外の方法を使って反対派に強制しようとする動きに対して、さらには、多数派の習慣と調和しない個性individualityの発展を妨げ、ひとつの模範にしたがって性格を形成するよう社会の全員に強制しようとする動きに対しても、予防策を講じる必要」(17-18)。

では、その制限はどこに置くか。時代や地域によって異なり、習慣化しているので立ちいたって考えられることがない。

各人の「好み」(ミルは畢竟、道徳を好みの問題とする)を左右するものは多様だが、なかでも「自己利益」である。ある国の支配的な社会道徳は支配階級の自己利益である。道徳感情は低級な要因によって左右され、ときに誤る(宗教改革など)。イギリスでは、この基準がまだ曖昧。

本書の原則「人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは(中略)ただひとつ他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的にあるいは精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない」(27)ただし子供や未発達の民族は別(植民地支配を正当化?)。

「効用 utility」こそが最終的な基準だが、それは広い意味においてである。「進歩しつづける存在としての人間の利害を、恒久的な観点からみたものに基づく効用」(30)。社会と関係する部分については個人は責任を負う。しかしそうでない部分は、あくまで本人(とその自発的な仲間)に関わるだけであるから、個人の自由に任される。①意識という内面の領域、②嗜好の自由と目的追求の自由、③個人間の団結の自由。これらが無条件に認められたとき、その社会は自由といえる。しかし現代はますます社会の力を強めようとしている。以下では、まずモデル的に「思想と言論の自由」について扱う。

 

第2章 思想と言論の自由

いまや出版や報道を擁護しなくてはならない時代は過ぎた。政府は世論に拠ったとしても、言論を統制することはできない。

問題は意見そのものではなく、意見の発表。前者は個人に関わるだけだが、後者は人類全体に関わる。なぜか。人々が他者の意見を聞くことによって、みずからの意見を再考する機会が奪われるから(分析的に論証)。

正しい場合でも、間違っている場合でも意見の表明は有効である。①主流の意見が間違っている場合(44以下)。人間は無謬ではない。さまざまな意見を聞くことによって修正が可能である。そこに人間の進歩はあった。

すべての意見が疑義に付されるべきである。その意見が有益かどうかに関わらず。というのも害益の問題もまた意見の領域に属すから(このあたりも分析的)。

「無謬性の想定」とは「ある意見が正しいという確信」ではなく、「ある問題について、他人が判断するべきかを決め、反対意見を聞く機会を与えないこと」(58‐59)である。

※思想は真理値を持つ(真偽が判定できる)が、思想の表明はそうではない?

現在のイギリス社会は意見表明に対し、抑圧的である。

思想表明の自由を妨げることは知識欲も減退させる。

また②主流の意見があっていたとしても、それに反対する意見を抑圧することで、「生きた真理」ではなくなる(82)。絶えず吟味されることで、はじめて真理は真理となる。そうしたフィードバックの仕組みが必要(101)

③さらに対立する双方に真理が部分的にある場合。それも主流派の意見の修正につながる。

複数政党制の効用。キリスト教道徳も無謬ではない。服従、「何々をなすことなかれ」(112)。しかし反キリスト教ではない(ニーチェとの違い)。

119ページ以下でまとめ。議論を行うにあたっての道徳。

 

第3章 幸福well-beingの要素としての個性

みずからの意見に基づいて行動する自由が必要かどうか。「自分でリスクを負担する限り」(126)、「他人に関係する点で他人に迷惑をかけるのを慎み、自分自身だけに関係する点で自分の好みと判断にしたがって行動するのであれば、…自分の責任において自分の意見を実行に移す自由を認めるべき」(127)。多様性の擁護。

「個人の自発性は固有の価値をもつ」(129)こと。フンボルトは「能力と発展における個性」を最大の目標に据える。慣習を疑うこと。正しく有益な慣習であっても疑うこと自体に意味がある。

また個人がみずからの衝動をバランスをもって行使することは、その人にとっても、社会にとっても有益である。しかし現在はそう考えられていない(cf. カルバン派の教え)。

「人間が高貴で美しいといえる人物になるのは、…個性的な性格を育て際立たせることによってである。…個性を育ててゆくことによって…人類がはるかに素晴らしいものになる」(141)。「個性と発展は切り離せないもの」(143)。

自由の活用の利点:天才が発見した新しい知見を多くの人が採用できる。

天才が成育する環境の必要。また凡庸な意見の集合体である世論とは異なった制限的な政治参加の利点を主張(cf. イギリスは本書刊行当時、制限選挙)。

人間は本来的に個性的であり、何が最善かは各人によって異なる(博愛家批判)。進歩と自由は時に反するが、真の進歩は自由によってもたらされる(アジア圏の停滞に言及)。ヨーロッパの進歩の原因は「性格と文化に驚くほどの多様性があることである。個人の間、階級の間、民族の間に極端な違いがある」(162)。階級分離を擁護し、国民国家における均質化を批判。

 

第4章 個人に対する社会の権威の限界

個人の意見や行動について、どこまでが社会の、どこまでが個人の領域なのか。

社会は契約によって作られているわけではないが、社会に対して負う義務はある。①他人の利益を損なわないこと、②各人が負担すべきものとして決められた労働と犠牲を負担すること。個人が自分にのみ関わる部分で行動することは自由であるべき。人は説得によって他者に働きかけることはできるし、付き合いを判断することは出来る。しかし罰することはできない。

社会と個人は区別不可能とする説がある。個人は孤立して生きているわけではない。あるいは自己管理できない人もいる。

そうではない。「この種の行動の結果、その人が他人に対する明確で具体的な義務を怠った場合、その事例は個人のみに関係する問題ではなくなり、言葉の本来の意味での道徳の問題、…道徳的な非難の対象になる」(181)。例:単に「飲酒」しているだけでは非難されない。それが他者に対する義務(扶養など)の怠りであるとき非難される。

しかし「配慮を怠る原因になった点」や「本人のみに関係する誤りで、配慮を怠る遠因になった可能性があるにすぎない点」は非難の対象にはならない。また「見なし損害 constructive injury」は許容される。

個人に対して社会が干渉してはならない最大の理由は、誤った部分に干渉する可能性があるため(186)。

現に起こっている社会からの干渉。イスラム教徒が「豚肉食」を嫌うこと、スペインにおける聖職者の結婚の禁止。さらに、かつてのイギリスにおける娯楽の禁止。現在のアメリカにおける贅沢禁止。社会主義の蔓延。

禁酒法。スタンリー卿は醸造酒を購入する個人の自由の侵害を問題視。これに対し禁止側は「種類の販売により、社会の混乱がおきかねないこと」は「社会的権利の侵害」にあたるとする。この「社会的権利」は過大に過ぎる。その他、安息日法、モルモン教の弾圧。「他の社会に文明化を強制する権利がいずれかの社会にあるとは思えない」(206)。宣教師を送るべし。

 

第5章 原則の適用

個別例に照らすことによって、原則の意味と限界を明らかにする。

①「個人は自分の行動が自分以外の人の利益に関係しないかぎり、社会に対して責任を負わない。」

②「個人は他人の利益を損なう行動について社会に責任を負い、社会はみずからを守るために必要だと判断した場合、社会的か法的な処罰をくだすことができる。」

・単なる競争による損害は②に該当しない。商業は社会的行為social actであり、①があてはまらない。とはいえ、ここにも価格設定などで「営業の自由」が認められるべき。しかし労務管理などでは制限を加えるのが正当でもある、また、毒物販売は禁止ではなく、「危険を未然に防ぐ」という観点から、いくつかの制限を加えることが出来る(例えば危険性を知らせるラベル表示、ベンサムの「予定証拠 preappointed evidence」等)。

・他者に行為を勧めることは①に該当するか。どのような行動をとるか相談することも個人の自由の範囲内。しかし反社会的とされる仕事(買春の斡旋、賭博場経営)については微妙。

自由派「生活のためか金儲けのための仕事をしているからといって、そうでないときに許容される行為が犯罪になることはありえない」(220)

規制派「社会と国には、個人の利益のみに関係する行動のそれぞれについて、…善悪を独断的に判断する権限はないが、ある行動が悪だと考えた場合には、その行動が善なのか悪なのか、少なくとも議論の余地があると想定するのは完全に正当である。…利害が絡んだ勧誘、公平ではありえない煽り立ての影響を排除しようとするのは[正しい]」

→賭博は禁止されないが、公開の賭博場は禁止。とはいえこれは異例。普通の商品には適用できない。

・本人のためにならないと考えられるものを国は規制できるか。税金による規制は実際上、妥当。これはそもそも国が税金で成り立っているため、必然的に起こる事態だから。酒類の販売は許可制にすべし。イギリスは家父長制と自由主義が入り乱れている。「自由人として統治」(226)

・個人間の「契約」にも制限はある。これも「第三者の権利を侵害しない」ことや「自分自身にとって害となる」ものでないことなど。後者は「自分の幸福を追求する手段」を放棄するものであるという自己矛盾をはらむ。フンボルトは「結婚」という契約もまったく自由に解消可能としているが、そうではない。一定の義務はある。ひとは行為にあたっては他人の利益を考慮しなくてはならない。

・他者を支配する自由はない。普通教育を受けさせる親の義務。ただし均一的な教育には反対。

 

政府の干渉について。それが個人の自由を制限するものではなく、促進するものだとしたら?

干渉に反対する理由①政府が行うより、個人に任せた方がうまくいく場合、②教育手段として、民間が行った方がいい場合、③政府の権限の肥大化を防ぐ

社会における政府の関わる範囲をどこまで定めるかは難しい問題だ。「効率性を損なわない範囲で最大限に権限を分散すると同時に、最大限に情報を集中し、中央から情報を広める」(248‐249)。行政機関の分散と中央官庁による監督。中央の監督機関は法律の実施状況を監視するのみ(ただし救貧法監督局のように、時により強い権限の行使もありうる)。

個人の努力や発展を支援する政府の活動は正当である

 

 

・ベンサムの功利主義との相違について(中井大介「イギリスにおける功利主義思想の形成―経済社会における一般幸福の意義を通じて―」『社会学研究』第64巻、2号、2013年、29~47ページ)

ミルは当初、ベンサムの思想に影響を受けながらも、そこから離れてゆく。

ベンサム「最大多数の最大幸福」

ミル「快楽の質的差異」「満足した豚であるよりも不満足な人間であるほうがよく、満足した愚か者であるよりも不満足なソクラテスであるほうがよい」(前掲論文、33)

質的な幸福は、「利他主義」によってもたらされる。

『経済学原理』(第1版、1848年)では社会主義に対して否定的だったが、第三版(1852年)では好意的なものに変化する。