アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論 -時間と自由』第1章

 

アンリ・ルイ=ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941)の『意識に直接与えられたものについての試論 Essai sur les données immédiates de la conscience』(1889)を扱う。訳本は合田正人、平井靖史によるちくま書房版。

本書について:1888年にソルボンヌ大学に提出された同名の学位論文。英訳の題名が「時間と自由」。時間論としての側面が強調されがちだが、そればかりでもない。

 

はじめに

人間が思考の表明のために言語を用いざるをいないこと。大抵は空間のなかで思考すること。「言語は、われわれの抱く観念のあいだに、物質的諸対象のあいだに見られるのと同じ鮮明ではっきりした区別、同じ不連続性をうち立てることを要請する。」(9)しかし哲学的な困難はここに起因するのではないか。持続と延長、継起と同時性、質と量の混同が論じられ、それらの中心に「自由」がおかれるであろう。

 

第1章 心理的諸状態の強度について

一般に「意識の諸状態、様々な感覚や感情、情念、努力といったものは通常、増減を容れるものと考えられている」(12)。しかし、これは実にあやふやであ る。感覚を物体と同じように計量できるか?より強い感覚はより弱い感覚を含むのか。これらの問いは「強度が大きさと同一視されうるのはなぜか」という問い に帰着する。

 

強度量と外延量

含むものも含まれるものも存在しない強度や非延長的なものについて大小を言うことは矛盾している。「にもかかわらず常識は、哲学者たちと一致して、純粋な 強度をひとつの延長とまったく同様のものとみなして、それを大きさへと仕立て上げる」(14)。どうやって?たとえば努力を長い糸の巻かれた糸巻きや大き な発条のようなものとしてイメージすることによって。この「強度の観念のうちに、そしてそれを翻訳する言葉のうちにも見いだされるのは、現在は収縮してい て、したがって将来は拡散するであろうもののイメージ、すなわち潜在的な延長のイメージ、圧縮された空間のイメージ」(15)である。強度的なものが延長 的なものに「すでに翻訳」されている。光の強度など外的な原因を置き、計測できるものについてはそれも可能だろうが、それでは「われわれ自身から発するよ うな深層の心理的事象」は説明できない(例えば、商品の看板と巨匠の絵が与える感動)。また感覚の強度を大脳皮質の分子運動に還元できたとしても、やはり 「意識によってわれわれに与えられるのは感覚」(18)のほうである。そのうえなお、両者の比較に正当性はあるか?以下では場合分けして論じられる (264ページ参照)。

 

数々の深い感情

問題は異なった本性をもつ強度が同じ名で呼ばれていることにある。筋肉運動をともなわない「純粋な強度」は「それ自身で自足」しているように見え、「根本的な情動に浸透している単純な諸状態の数の大小に還元されている」(19)

漠然とした欲求が深い情念となるとき、新たな幼年期が訪れたかのように、すべての観念が一新されたようになる。このとき「意識の深みに降りていくにつれ て、心理的事象を、互いに併置される諸事物として扱う権利が失われて」(19)ゆく。「対象のイメージが、無数の知覚や記憶のニュアンスを変容」させ、 「気づかれないうちに前者が後者に浸透する」。こうした漸次的に変容してゆく心理的諸事象の「集塊」が感情の強度の強まりの本性である。しかし「意識は」 これを「ひとつの肥大しつつある欲望」へと「結晶化」してしまう(20)。多様性を含む未来の観念は未来そのものより魅力的である。喜びや悲しみにおいても、様々な形態の変容が見られる。

 

美的な感情

上述の事情にも関わらず、外見的には情動の大きさが変容しているように見えるものに「美的な感情」がある。しかしこれも質的な変化といえる。例えば、優雅な運動の中には「現在のうちに未来を保持すること」「動的共感」の快楽が含まれる。この快楽は時々刻々と変化してゆくものである。芸術はわれわれに深い感情を体験させる。

「芸術作品の美点は、暗示された感情がわれわれを領するその力能によってよりもむしろ、この感情そのものの豊かさによって量られる。」(29)大部分の感情はそれぞれ独自で、定義不能であり、それを捉えるためには当人の生を生きなおさなければいけないようだが、芸術はそれを可能にする。

また「哀れみの感情」にも質的な変化が認められる。

 

筋肉の努力

「量の形をまとって、あるいは少なくとも大きさの形をまとって無媒介的・直接的に意識に対して現れるかに見える現象」は「筋肉の努力」である(32)。収縮されていた力が展開したものとして筋肉の努力を理解する時、その力もまた空間性を帯びるかのように表象される。

しかしウィリアム・ジェイムズに依れば「われわれは、自分がみずからのうちで放出しているであろう力を意識してはいない。」(35)「展開された筋肉エネルギーについてわれわれが持つ感情は…努力が変容をもたらすところの抹消的な点すべてから」来る。

筋肉の増大とは、この末梢的な点の拡大とそれによる質的変化に他ならないが、われわれはこれを特定の部位に局在化し、「そこで消費された心理的な力を、この種の力が延長を有さないにもかかわらず、あるひとつの大きさ足らしめ」てしまう(37)。

 

注意と緊張

深層と表層両方にまたがる感情が言及される。注意は筋肉の努力と同様の変化が見られる。

 

激しい情動

筋肉の緊張をともなうような激しい情動においても事情は同じ。「情動の鋭さは、それに随伴する抹消感覚の数と本性によって評価される。」(42)深層の感情も激しい情動もいずれの強度も単純な諸状態の数の大小のうちにある。

 

情緒的諸感覚

外的な原因を持つ感覚についてはどうか。まず感覚を「情緒的感覚」と「表象的感覚」に分ける必要がある。まず前者について。外的な刺激が感覚であるか?

快楽や苦痛は単に有機体で生じたことや生じていることだけでなく、これから生じるものをも指示する。またこれらは外的な作用とそれに対する反作用のあいだに存している。感覚は自動的な反応への抵抗=自由?の始まり。情緒的状態は準備された運動に存する。

「情緒的感覚の強度とは、無意識的な運動が開始され、当の状態のうちでいわば素描されることについて、われわれが抱く意識に他ならない。」(46-47) 強度を増す苦しみは楽器の増加をともなう交響曲に比せられる。「われわれはある苦しみの強度を、まさにこの苦しみと係ろうとする有機体の部分の大小によっ て評価する」(47)。例えばそれは筋肉の収縮。

快楽についても同様。「われわれの好みというのは、われわれの諸器官の一定の性向」(49)である。快楽を迎えいれる傾向性がその本性。

 

表象的諸感覚

表象的感覚においても情緒的な性格が存在する。その強弱は、情緒的感覚と同様、しばしばそれを前にしたわれわれの活動性によって計られる。弱い刺激はわれ われの努力による強化を要請する(小さな光など)。極度に強い刺激はわれわれの無力を刻印する(大砲の音など)。しかし、中程度の刺激については、音高や 光の強度などをわれわれはひとつの大きさに仕立てる。ここで何が起こっているのか。

 

音の感覚

音の聴取においてもある種の運動感覚が存在する。例えば声を出す時の喉の緊張など。「音の強度がある大きさとして語られるとき、われわれは何よりも、再び 同じ聴覚的体験を得るために、われわれが払わねばならないであろう努力の大小を仄めかしている」(56)これは音高についても同様である。音の上昇、下降 の感覚はそれを出す際の声帯と身体の緊張の努力に由来している。

※筋肉の努力と周波数の知識の合わせ技で量的差異としての音高知覚が出現する。

 

熱と重さの感覚

冷熱は音の感覚と同じ議論。軽重は表層的感情と同様、筋肉の努力が関わる。

 

光の感覚

明るさの感覚の変化は色彩のそれとかわることがない質的なものである。にもかかわらず、人は前者を量的な差異として表象してしまう。精神物理学は光覚を測定可能とするが、そこには「光の客観的な量を連続的に増大させると、数々の灰色の色調が継起的に得られるが、これらの色調のあいだの差異はいずれも、知覚されたもののなかでは最小の物理的刺激の増大であり、その量は互いに等しい。加えて、得られた諸感覚のうち任意のひとつは、感覚ゼロから当の感覚までの先行する諸感覚を互いに分かつ差異の総和に等しい」(70-71)という公準がある。

 

精神物理学

精神物理学の全体は「刺激とその最小限の増加との関係から、「感覚の量」とその対応物たる刺激を結びつける」(72)ことにある。グスタフ・フェヒナーは 刺激の連続的な変化に対して、感覚は飛躍的に変化することを利用する。しかしこれは錯誤を含んでいる。その誤りは連続的な刺激の増加によって生じるある感 覚と別の感覚の間に「間隙」を想定したことにある。この間隙のあいだには単に量的な移行が存在するだけとなる。この「間隙」を最小単位として計測が行われ るようになる。

(中間区分法について:省略)いずれの精神物理学も悪循環を含む。しかしそれは常識の中に潜んでいたものである。こうした常識は心理学者の中にもあった。

 

強度と多様性

以上より、「強度の概念は、研究されているのが外的な原因を表象するところの意識状態であるか、それとも、それ自体で自足した意識状態であるかによって、 二重の相のもとに姿を現す」(83)前者は「習得的知覚」といわれるもので「原因の大きさを結果の何らかの質によっていわば算定することに存する」のに対し、後者は「錯雑な知覚」であり「ある根本的状態の只中に見分けられる単純な心理的諸事象の多様性の大小を強度と呼ぶ。」両者は相互に浸透している。これは知覚が表象的・情緒的両方の性格を有しているため。次章ではこの内的多様性がカウントされるものなのかどうか、が問題となる。