フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)

第4章 真正の《ルサンチマン》―ジョージ・ギッシングの「実験」小説におけるジャンルの不連続性とイデオロギー素

 

現実をそのまま描写する「リアリズム」の手法にのっとったギッシングの小説のなかにある《ルサンチマン》を読み取り、そこに内在するイデオロギーを明らかにする。より一般的にいえば、「ある特定の時代の文化もしくは『客観的精神』とは、ひとつの言語環境、それも過去から受け継がれた言葉や概念の残存物だけでなく、社会的な象徴性を有するタイプの物語的統一、私たちがイデオロギー素と名づけたものが群がる環境」(332)であることを明らかにする。作家は既存の物語パラダイム=イデオロギー素を利用しつつ、そこに変容をくわえることで、自らの欲望=イデオロギーを作品化する。

 

たとえば、ディケンズとシューについていえば、前者は「感傷的パラダイム」を、後者は「メロドラマ的パラダイム」を代表する。両者はイデオロギーの観点からは別個のものであるが、同時に「下層階級に関する道徳的教訓を思いめぐらす十九世紀中産階級の、あめとむち」(334)である。つまり、貧しいながらも純粋さを保つディケンズの主人公と、シューにおける制裁を加えられる貧民階級出身の悪党は、その運命を違えながらも、いずれも中産階級の視点で描かれてい るということである。

 

ギッシングの『どん底』においては、「感傷的パラダイム」と「メロドラマ的パラダイム」の両方が痕跡をとどめている。それはこの作品が「ヴィクトリア時代 の貧民街の生活状況に対する記録として読むよりも、そのような貧民街に対する中産階級の幻想を組織化していた物語パラダイムに関する証言として読むのが もっとも適切」(334)であることを示す。それらの物語パラダイムとは「産業労働者や都市のルンペンプロレタリアートの存在によって引き起こされた明らかな階級的不安を解消し、処理し、抑圧してくれるかもしれない『解決』を編みだそうと」(334)するものだ。

 

二つのパラダイムはギッシングの作品では「群集」(=荒れ狂う下層階級)と「断念」(=階級上昇の未遂)という二つのイデオロギー素として現れ、いずれも下層階級に対する「おのれの地位にとどまれ」というメッセージを発している。だが、これらは『どん底』が「変容生産の作業を開始する原材料にすぎない」 (342)。

 

ギッシングにおける主要なイデオロギー素は「民衆」である。「民衆」は社会的全体(階級対立のない状態)に成りすまそうとするが、「それ自身の内的矛盾をシステマティックにさら」している。そこにある矛盾とは、もし「民衆」が単なる記述的・分類的概念であるならば、登場人物は「あらかじめ存在し分類の根拠 となったなんらかの本質の実例」となり、そのメッセージは「あなたがすでにそうであるところの人物とは別種の人物になろうとするな」(342)という禁止になる。これは自然主義文学の「直説法」の「物語言語使用域」によって担保される。他方、「民衆」が階級対立的な含意を持つと、「民衆」という概念の(中産階級に対しての)「他者性」が明らかとなり、それが作者の偽装された中立性を逆に明らかにしてしまう。『どん底』の独自性は、この矛盾をそれ自身の中に記録し、それにたいしての独特な解決を示している点にある。

 

ギッシングの小説もおおくのリアリズム小説と同様、「直説法」のくびきにとらわれている。それは、対象をあるがままに描き、「全体」としての世界を偽装する叙法である。しかし、二つの物語的要素によって、この「全体」は破られる。

 

・「慈善事業」

慈善行為は本来個人の「倫理」に基づくものである。しかし、その対象が際限なく広がってゆくことで、必然的に「階級」や「集団」を問題にしてしまう。それは「必然的に政治的なものにならざるを得ない」(349)。ここで擬制的「全体」の破れが生じる。

 

「不安定性」

ある登場人物の《脱階級》によって、階級間の葛藤がその人物に影響をもたらす。「[ある階級が関心を持って描かれるのは]異なる階級の人物たち、つまり、 階級のもぐり屋、亡命者、脱党者、あるいは使者といった者たちが、それらの領域を横断するときにかぎられる」(354)のである。そのときその人物は「葛藤」のなかで「正しい意味で社会的また政治的変容」をこうむる。

 

この《脱階級》が本章のテーマである「ルサンチマン」とつながってくる。ただしこの「ルサンチマン」は二重化している。

 

第一の「ルサンチマン」はニーチェに基づくもの。それは「主人に対する奴隷の復讐として、またイデオロギー的詭計として診断される。つまり・・・奴隷たちはこのイデオロギーを通して、主人たちに奴隷的な精神-慈善の倫理-を感染させ、彼らの自然な活力や、攻撃的かつまさしく貴族的な倣岸さを奪い取ろうとす る」(362)。すなわち持たざる階級からの持てる階級への妬みが原動力。

 

第二の「ルサンチマン」は《脱階級》者への持てる者からの妬み。つまり「通常は本質的に満足状態にある人民大衆を、このように「不自然な」騒乱へと駆り立 てる者たちの行動を・・・彼らの個人的な不平不満に他ならないのだと」(363)診断すること。それは物語作者自身のなかにあるいわれのない「下層階級の騒乱」への不安をはからずも物語ってしまう。それゆえ「《ルサンチマン》の理論とは、それがどのようなところにあらわれても、それ自体がつねに《ルサンチ マン》の表現であり、《ルサンチマン》の産物なのである。」(364)

このような意味での「ルサンチマン」がドストエフスキーからコンラッド、さらにオーウェルへと受け継がれる「反革命プロパガンダ」に影響している。

 

しかし、ギッシングの作品にはこの「第二のルサンチマン=上流階級への同一化」以外の要素も見受けられる。後期ギッシングにおける物憂げな登場人物の「欲望の断念」は「成功と失敗の全体系」を「堀り崩」し、「商品欲求それ自体の全否定」へとつながってゆく。ここでは、ブルジョワ階級も安定をみいだすことが できない「偏在的な階級意識の世界」(370)が生まれる。それが「真正のルサンチマン」である。