ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』(ちくま学芸文庫)

第4章:いつ藝術なのか When Is Art?

1.藝術における純粋なもの

「藝術とは何か」というのは問いのたてかたが間違っている。

グッドマンが批判しようとする「純粋主義者の教説(doctrine)」は以下の通り:

「象徴は、作品の魅力の要素であれ娯楽の要素であれ、作品そのものにとり外在的だという仮定」(115)

「現代の多くの藝術家や批評家に言わせれば、肝心かなめな点は、藝術作品そのものを、およそそれが象徴したり指示したりするものから、切り離してしまうことなのである。」(116)

「絵が象徴する(symbolize)ものは絵にとり外的なもので、藝術作品としての絵の外からつけ加わったものだ」(116)

「絵がおこなう象徴作用(symbolization)はどれも重要でないばかりか、邪魔なのである。真に純粋な藝術はあらゆる象徴作用を遠ざけ、何物も指示しない。」(117)

グッドマンによれば、こうした教説は「解釈と注釈の息のつまるような藪のなかから藝術を救い出してやろうと、請けあっているのである。」(117)【ソンタグなどとの関係は?】

 

2.あるジレンマ

ジレンマ:

純粋主義者の教説を受け入れると:ボスの快楽の園やゴヤのカプリーチョスなどの絵画における内容はどうでもよくて、できるなら除いたほうがよい。

純粋主義者の教説をしりぞけると:重要なの作品がそうであるところのものではなく、それ以外の数多くの事柄だと、主張することになる。

【例】『壮絶な病魔と闘いながら演奏するピアニストの、「鬼気迫る」リストの演奏』

このジレンマの解決:グッドマンの提案は、

「最善の道は、純粋主義者の立場を、全面的に正しいが、同時に全面的にまちがったものとみなすことだ」(118)

そこでグッドマンの議論

議論の前提:「作品が再現(represent)するものは、このような若干の例外を除いて、作品の外部にあり、外から加わったものだという点に、今のところ合意しよう。」(119)

「このことは何も再現しない作品は純粋主義者の要求を満足するという意味なのだろうか?決してそうではない。」(119)

理由その1:ボスの怪物の絵や一角獣のタピストリーなど、「間違いなく象徴的といえる作品も、何も再現していない。」(119) これらは具象的な絵であるがゆえに象徴的なので、純粋ではないということもできるが、絵の外にあるものの再現をともなうかどうかは、純粋主義者が言う「純粋」とは関係ないという点は明らか。

理由その2:「具象的作品だけが象徴的であるわけではない。何も再現せずまったく具象的でない抽象絵画が、感情やそのほかの性質、もしくは情動や観念を表出することがある」(120)【例:音楽?】こうなると純粋主義者は、「具象的作品のみならず、抽象的表現主義者の作品もしりぞけてしまうのだ」(120)

純粋主義者によれ ば、作品が純粋であるためには、外部のいかなるものも代表してはいけないということになる。「作品に見いだされるのはそれみずからの特性にすぎない、としてもよい。しかしそれを言うなら、絵にかぎらずおよそあらゆるものがもつすべての特性は―実在の人物を再現するといった特性でさえも―その絵ないしそのものの特性であって、外部の特性ではなくなる。」(121)

そこで特性には藝術にとって重要な特性とそうでない特性があるとかんがえることを提案する。しかしこれを「内的特性、外的特性」と区分することは支離滅裂であるとして退ける。なぜなら、絵の色や形は内的特性とみなされるかもしれないが、色や形という特性でさえ、他のさまざまな対象との間で共有することがありうるし、その特 定の同じ色であるかどうかに関係なく、そもそも色を持つさまざまな対象との間に関係が成立するという意味で、色も外的特性(つまり対象を他の対象と関係づ けるような特性)と言えるからである。(122)

 

3.見本

ここで「例示」の概念が導入される。

「見本とはその特性のうちのあるものの見本であっても、他の特性の見本ではない」(124)

服の生地見本:織り、色などといった特性の見本であるが、大きさや形といった特性の見本ではない。

カップケーキの見本:色、生地、大きさ、形の見本であるが、作成時点の見本ではない。

これを「例示」と名付ける(126)

「見本がこの例示の関係を保つ特性は状況によって変わり、見本がその特性の見本の役をある状況のもとで果たすことによってのみ、これこれの特性として弁別されるにすぎない」(126)

「例示」が藝術作品の存在論にとってどのように重要なのか?

「純粋主義絵画において重要な特性とは、その絵があらわにし、選択し、焦点をあわせ、展示し、われわれの意識裡に際立たせるような特性―絵がひけらかす特性―要するに絵が単に所有するだけでなく、例示し、絵がそれの見本であるような特性なのである。(126)

「この点で私の見方が正しいとすれば、純粋主義者のもっとも純粋な絵画でさえ、記号作用を行うのである。それはみずからの特性のうちにあるものを例示する。ところで例示はすることはまぎれもなく象徴することである―例示は再現や表出と同じく、指示の一形式なのである。」(127)

ではグッドマンが、純粋主義者の教説が「全面的に正しいと同時に全面的に誤り」とはどういうことか?

「それは外から加わったものはまさに外から加わったものだと言い、絵が再現するものはしばしばたいした重要性をもたないことを指摘し、再現も表出も作品の要件ではないと論 じ、いわゆる内在的または内的特性、あるいは「形式的」特性の重要性を強調する点では、全面的に正しい。しかし、ただ再現や表出だけが絵画のおこないうる記号機能であると想定し、記号が象徴するものはつねに記号の外にあると仮定し、絵画において重要なのはある種の特性の例示ではなく、その単なる所有である と主張する点は、ことごとく誤っている。」(127)

「それゆえ、記号 (象徴)を欠いた藝術を捜す者がいても、何も見つからないだろう―ただし作品の記号作用のあらゆる様態を考慮に入れることが条件である。再現や表出あるい は例示を欠く藝術があるだろうか―そのとおりである。この三者をすべて欠く藝術はあるだろうか―否である。」(127)

「純粋主義絵画にさえ記号作用があると認めること、このことから、どのような場合にわれわれは芸術作品をもち、どのような場合にもたないかという、永年の問題に手がかりが得られる」(128)

「藝術作品であるものとそうではないものとを区別する所以は何なのか。」「この困難は一部、間違った問いを問うこと―同一の事物があるときて藝術作品として機能し、別の時にはそうは機能しないことに由来する。」(129)

 

「いつ藝術なのか」(129)が正しい問いである。

この問いに対するグッドマンの答え:

「同一の対象がある時ある状況のもとで記号―例えば見本―であり、他の場合にはそうでないことがあるように、ある対象がある時藝術作品であって、他の場合にはそうでないことがありうるのである。[…]石はそれが車道にあるあいだはふつう藝術作品ではないが、美術館に展示される場合には藝術作品になりうるのだ。車道では、石はふつう記号機能をなにも果たさない。ところが美術館では、石はその特性―たとえば形、色、肌理―のあるものを例示する。穴を掘っては埋めるという行為は、われわれの注意が例示を行う記号としてのそれに向けられているかぎり、作品として機能する。他方、レンブラントの絵は、破れた窓をふさいだり、覆いとして使われたりする場合、藝術作品の機能を止めるかもしれないのだ。」(129-130)

 

ここで注意!

「もちろん何らかの仕方で記号として機能することは、それだけで藝術作品として機能することではない。[…]事物が藝術作品として機能するのは、その記号作用がある特徴を示す場合にかぎられるのである。」(130)

ではどんな特徴が藝術作品における記号作用とそうでない事物における記号作用を区別するのか?グッドマンはここではその手がかりとなる5つの「徴候」を示している。(130-131)

構文的稠密 syntactic density:アナログ表示とデジタル表示

意味論的稠密 semantic density:どんな温度の差異も必ず尺度記号のうえの差異として対応するような、目盛のない温度計

相対的充満 relative repleteness:あらゆる要素が意味を持つ。北斎の富士山と株価グラフ。

例示 exemplification:

多重で複合された指示 multiple and complex reference:

「これらの徴候は芸術の定義を提供するものではないし、いわんや芸術の完璧な記述やその賛美ではない」(131)

「これら特性は、記号が指示するものから(あるいは少なくとも、それに加えて)記号そのものへ注意をふりむけ集中するようしむける」(132)

「藝術が何をするかを語ることは、藝術が何であるかを語ることとは同じではない。しかし私は前者こそ何をさておいても別格に重要なことだと言いたい。」(133)

 

(参考)

翻訳者 菅野盾樹のブログポスト「フーコー・ブッダ・グッドマン」より

(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20100223)

 “グッドマンの指示理論をいま詳細に検討する余裕はないが、ある意味でそうするまでもないかもしれない。なぜならその理論的スキーマ(概要)がかなり単純だからである。まず、グッドマンは、一般に記号がなにかを指示する働き(reference)を、外延指示(denotation)とそれ以外のものに大別する。さらに後者を、例示(exemplification)と表出(expression)に大別する。(じつは指示には他のタイプのものが多数あ りうる。しかし、それらは以上三つの働きが複合されたり、それぞれがなにかしらの要因で制約されたり、あるいは複合と制約を組み合わせたりして成り立 つ。)

 外延指示とは、記号が記号の外部の対象をさす働きである。たとえばケンネルに掲げられた「シベリアン・ハスキー」の名札は、そこに寝そべっているある種の犬を指している。(どのようにしてこの指示機能が成り立つかは、また別の問題である。)

 外延指示には、例にあげた名辞による指示以外に、絵による描写や文章による記述など、じつに多様な形態がある。グッドマンはしばしば記号をラベルに見た てている。例についていうなら、この場合の外延指示は「シベリアン・ハスキー」という「ラベル」をその犬に貼り付ける作用なのだ。(もちろんこれは比喩的説明であって、真に受けてはいけない。「ラベル」を貼ってもらうことを待っているハスキー犬がお行儀よく座っているわけではないだろう。)

 さて例示とは、その名のとおり、カテゴリーが含む事例をカテゴリーの一例として示す機能にほかならない。たとえば「生地見本」を考えてみよう。この小さな布の切れ端は、オーダーしたスーツの柄、色、風合いなどへの差し向け(広義の指示)がともなうかぎりで紛れもない記号である。

 だが例示は、外延指示とは異質な記号機能である点を見過ごしてはならない。記号が対象に貼られるラベルだとして、例示の場合、ラベルを貼られるのは外部の事物ではなく、ラベルという名の事物である。なぜなら、見本が指示する柄、色、風合いなどは見本の外部にある対象ではなく、見本そのものの性質だからだ。この見本の色が濃紺だとする。あつらえるのは、当然ながら濃紺のスーツである。すなわち生地見本も服もどちらも<濃紺>というカテゴリー の事例である。

 このような事態に「例示」という指示機能の構造がはっきりと示されている。一方で、生地見本はスーツの色の事例である(ラベルの事例化)。しかし他方で、この小さな生地は濃紺の服地<の>見本である。この<の>が表わす指向性のおかげで、断ち切られた生地が「記号」の面目を遺憾なく発揮することができる。要約すれば、ある事物がなんらかのラベルの事例であると同時にそれを指示する場合、その事物はラベルの例示をおこなってい る。

 外延指示とは異なり、例示においては、例示する記号がラベル(筆者の言い方ならカテゴリー)を媒介にしてその記号自体にかかわることになる。この意味で例示はまさに「自己言及的な」(self-referential)機能であって、例示する記号系は再帰的構成(recursive construction)をいとなむのだ。この種の記号機能を(真の意味で)発見しその重要性を事例研究によって解明した功績はひとえにグッドマンに帰すべきものである。

 次の表出は、簡単にいえば、比喩的例示にほかならない。たとえば、ムンクが描く「思春期」と題された絵画。画面には裸の少女が正面を向きベッドの縁に腰かけている。見開いた眼、肩の骨ばったからだつき、後ろの壁に投じられた少女の影。外延指示のレベルでおのおのの記号(少女の図像、眼の図像など)が指示するものには、鑑賞者を当惑させるものは何もない。鑑賞者の視線を惑わせる要素は、例示の平面に含まれている。この絵の全体に暗い色調、両手を腿のうえで組んで固く身構えたようなポーズ、見開いた眼の表情など。要するに、画面のそこかしこや画面の全体から感受される「感じ」(feeling)がこの絵の眼目なのだ。(挿絵を参照)

 この感じを仮に「成長の不安」という抽象的な言い方で押さえたとき、視線がゆきあたった謎はほとんど氷解されるかもしれない。別のいいかたをすると、こ の絵画作品は「成長の不安」というラベルの見本なのである。しかし絵画の指示機能を見本のそれ(すなわち例示)と同一視することはできない。布や油性の絵の具などからなるこの事物そのものが「成長の不安」という特性を持つわけではないからだ(生地見本の場合と比較せよ)。そもそも物理的事物は単に比喩的にしか「感じ」を持ちえない。こうして、「表出」とは「比喩的例示」なのである。“