吉本隆明『定本 言語にとって美とは何かⅡ』角川ソフィア文庫

第Ⅴ章 構成論

  第Ⅰ部 詩

   1 前提

「表出の価値を、さきにあつかった言語の価値を拡張したものとみなしたとしても、波のように、またがつみかさなるようにおしよせてくる構成の展開は、作品の価値に関与することはないだろうか?」(p. 12)

「すでに、無意識に、転換をあつかったとき、このもんだいは暗示されてきた。わたしのかんがえでは、自己表出としての言語の連続性の内部では、ある正当さをもっている。だが、文学作品の価値は、まず前提として指示表出の展開、いいかえれば時代的空間の拡がりとしての構成にふれなければ、かんがえることができない。」(p. 12)

「文学作品の構成が、なにを意味するか問うことで、このもんだいは解けるはずだ。」(p. 12)

「方法はふたつかんがえられる。ひとつの方法は、詩と散文と劇の成立点で構成の意味とそのいろいろな類型をはっきりさせることだ。」(p. 12)

「もうひとつ[の方法]は、現在の水準で詩作品と散文作品のさまざまな類型をさぐることで、構成の本質をとりだすことだ。」(pp. 12-13)

 

  2 発生論の前提

「詩の(いいかえれば文学の)発生の原型をとりあつかおうとすると、すぐに困難にぶつかる。いまのところ(あるいは永久に)想像力のもんだいとしてしか、あるいは想像的な土台のうちでしか論じえない問題にぶつかるわけだから。 詩の発生点で構成の原型を抽出しようとすれば、どんな資料も実際にはのこされていない。また、現在のこされている最古の詩をもとにしても、意外に高度にできあがった作品であるため、ほんとうはとうてい素材にできない。」(pp. 13-14)

「詩(一般には芸術)の祭式起源説は、とうてい記紀歌謡のような文字にかきとめられるまでに高度になった詩の表現にはつかうことができない。」(p. 14)

○土橋寛『古代歌謡論』の批判的検討

○西郷信綱『日本古代文学史』の批判的検討

「こういった記紀歌謡のあつかい方には、記紀 (歌謡)を、文字による言語の表現としてみる足場が不明瞭で、それとうらはらに、詩(文学)の発生の原型を、まったく理論的に、いいかえれば現在のところ いかなる直接的資料もないという前提のもとで、想像力と理論の浸透性によってきりひらくはっきりとして考え方が不足しているとおもえる。」(p. 19)

○折口信夫「国文学の発生(第一稿)」⇒「この問題意識は、鮮明でつよい像をむすぶ。」(p.21)

「すなわちいうべきことのひとつは、記紀歌謡を それ自体として、文字でかかれた詩的言語の世界としてかんがえること、もうひとつは、記紀歌謡以前の想定されるだけの口伝や口誦の時代を、直接資料がな い、したがってまったく理論として想像すべき詩の時代としてあつかうこと、などだといってよい。」(p. 23)

 

  3 発生の機構

「わたしたちがつきあたるのは、自然が魔力のように人間におおいかぶさっていた時代の社会にさかのぼるということだ。芸術(詩)の発生は、この時代とわかちがたくむすびついている。」(p. 24)

○ハリソン『古代芸術と祭式』⇒「ここで、ハリ ソンがとても正確だとすれば、自然発生的な行為、または自然を対象化しようとする行為がくりかえされているうちに、しだいに行為自体が、一般化された形で 抽出され、これが当の対象化行為のに、記念として再演されるばかりでなく、ついには、当の行為のに、まじないとして再演されると指摘している点だ。」(p. 27)

○トムソン『ギリシャ古代社会研究』⇒「トムソ ンのかんがえは、ひとつの例にすぎないのに芸術の起源が「集団の労働に従事する人体の律動的運動」にあるとみなしている。しかもその人体の律動をもった運 動が、どんな再現過程をへて芸術の律動に抽出されるかを、まったくかんがえていない。」(p. 30)

「芸術(詩)の起源についての、これらのさくそ うした立場の混濁物のあいだから、わたしたちがひろいださなくてはならないとおもうのは、つぎのようなことだけだ。 まず原始的な社会では、人間の自然に たいする動物ににた関係のうちから、はじめに自然への異和の意識があらわれる。[…]この自然からの最初の疎外感のうちに、自然を全能者のようにかんがえ る宗教的な意識の混沌があらわれる。[…] そうして、自然がおそるべき対立物としてあらわれたちょうどそのときに、原始人たちのうえに、最初のじぶん自 信にたいする不満や異和感がおおいはじめる。[…] ここで大切なことは、原始人たちが感じる自然やじぶんじしんにたいする最初の対立感は、自然や自然と してのじぶん自身(生理的・身体的)にたいする宗教的崇拝や、畏怖となってあらわれると同時に、じぶん以外のほかの原始人にたいする最初の対立感や異和感 や畏怖としてあらわれることだ。」(pp.32-34)

「芸術行為のなかにのこされた、現実行為のなかでの人間と自然、また人間のじぶんじしんとの(したがってじぶんとほかの原始人たちとの)関係の痕跡は、再現行為のワクとしてのこされているのではなくて、すでに芸術行為の構成(komposition)として表出のなかにのこされたといっていい。」(pp. 36-37)

 

 4 詩の発生

○柳田・折口系統説への評価、並びに検討=「柳田・折口系統は、その祭りの説を、普遍的な根拠にまで深化することがなかった。そのためにこの構成のもんだいを逸した。」

 

  5 古代歌謡の原型

「記紀の歌謡は、わたしたちのあつかいからは、五つのカテゴリィにわけることができる。」

 

        (2)叙景詩  (4)抒情詩

 

(1)土謡詩 

 

        (3)叙事詩  (5)儀式詩      (p. 50)

「記紀歌謡でかんがえられる詩としての上昇の仕方は、ひとつふたつの例外をべつにすれば、つぎのふたつの経路をへているとかんがえられる。」

 

        叙景詩

 

(1)土謡詩       抒情詩    (2)土謡詩 儀式詩

 

        叙事詩                  (p. 51)

 

(A)土謡詩

「はじめに、眼にふれた自然物に仮託しながら、うたいたいモチーフへゆく土謡の原型は、転換または詩的な喩の起源のかたちになっている。」(p. 54)

「土謡の表出体が、もとにもどらない表出が、つぎつぎとおこり、きえてゆく性質は、この表出体が、文字にかきとめられることのなかった時代の音声表出の性質を、よりおおく保存しているためとかんがえられる。」(p. 55)

(B)叙景詩と叙事詩へ

「土謡の表出体からの上昇は、ふたつの方向におこなわれた。ひとつは叙景詩へ、ひとつは叙事詩へ。なぜ、そしていつ、こういう分化はおこなわれたのだろうか?」(p. 59)

「呪言的な表出は叙景詩のほうへ、律言的な表出は、叙事詩のほうへ上昇した。いいかえれば、古代知識層の自然への意識は叙景のほうへ、じぶんじしんへの意識のほうは部族の社会の関心のほうへ、とむかったのだ。」(p. 60)

(C)叙事詩の典型

「この〈問答対〉のかたちは、太古の口承時代のかけあいのかたちを、痕跡として象徴するものだといえる。」(p. 62)

(D)叙景、叙事から抒情詩へ

「この叙景的または叙事的な詩体のなかに、きゅうにみちびかれた一句または一語が、抒情詩へ転化してゆくことを象徴している。やがて、この凝集された一句または一語が、歌謡のすべてを占めるとき、抒情詩が成立するといえる。 では、抒情的とは本質的になにか? それは構成としてみれば詩のモチーフが凝縮し集中されることだ。」(p. 72)

(E)抒情詩と儀式詩

「柳田・折口系統の方法だけがとらえているの は、国見歌や思郷歌やのような、非個人的な儀式歌、祭式歌の本質についてだとおもわれる。これだけが、共同体の具象的な痕跡をたもったまま、詩の表出とし て高度な精錬をうけて抽象された歌謡だといえる。儀式歌(祭式歌)は、叙景的、叙事的、抒情的という過程をへずに、いわばじかに、土謡歌から儀式歌へと上 昇したものをさしている。」(p. 76)

 

 第Ⅱ部 物語

  1 問題の所在

「歴史的にみると、物語文学が詩の胎内からうま れてでてきたとき、なぜ、そんなうまれ方をしたかはべつに解かれなくてはならない。まず物語は詩のようにじかにこちらへやってこないで、あるところへつれ てゆかれるようにつくられた。資質が拒否するとか反撥するとかいうまえに、詩は共通感をもとにして、わたしたちにちかづく。だが物語は同伴感をもってわた したちをつれてゆく。物語としての言語はまずひとをひきつれてゆくための〈仮構〉線をつくり、それをとって本質へゆこうとするのだ。」(p. 82)

「起源としてみれば、あきらかに詩と語りとは同 時に発生し、まず、詩的な時代が、はじめに力をもった。そして、必然と偶然とがないまぜられて物語としての言語が、ひとつの〈仮構〉線をつくるまでに上昇 し、物語が文学としての力をもつようになった時期は、律令制が崩壊のきざしをみせ、摂関制として補修された過渡期にあたっていた。」(pp. 82-83)

 

  2 物語の位相

「物語が成立したときに言語は、指示表出域を儀式歌の指示表出性のとどくかぎりにもち、自己表出域を抒情詩の自己表出性の高さのとどくかぎりにまでもった、しかも指示性の展開としての構成の水準を、ひとつの〈仮構〉線の高さにまでたかめることができた、あたらしい言語面の成立をしている。」(p. 88)

 

  3 成立の外因

「物語成立の外的な要因として、ぜひともとりあ げなければならないもんだいが、ほかにも、いくつかかんがえられる。 そのひとつは、土俗信仰が昇華して儀式制度にまでなっていた神道にたいして、とくに 律令制からあと底ふかく浸透した仏教が、あらたな思想を知識層と大衆層に定着させたことだ。」(p. 93)

 

  4 折口説

「巫女から宮廷女房へとかわってゆく、現世の宮 廷での役割のうつりゆきは、いきおい神語の語りきかせという呪術的な職務から、歌、諺、物語の創造による教育という現世の役割を、宮廷女流にうながした。 折口は、ここに物語文学がおもに女流によって成立した本質の根拠をみたのだった。」(p. 99)

 

  5 物語のなかの歌

「わたしのかんがえでは、これらは物語の言語帯 の〈仮構〉線に露頭をあらわした詩の時代の遺制を象徴している。しかし、物語のなかに短歌が露出する仕方は、それぞれちがっている。たとえば説話系である 『竹取物語』では、そこに挿入された短歌は〈儀式歌〉(本稿で定義された意味で)の露岩であり、歌物語である『伊勢物語』では〈抒情歌〉の露岩であること に、注意しなければならない。」(p. 103)

 

  6 説話系

「説話物語の始祖とかんがえられたものは、その当時から『竹取物語』だった。」(p. 106)

 

  7 歌物語系

「『伊勢物語』のような、はじまりの歌物語では、この抒情歌の露岩を構成の連結手または力点として、そのまわりに、もともと、歌詞を説明するとしての意味をもった地の散文が、物語になって集中することになった。」(p. 111)

 

  8 日記文学の性格

「わたしのかんがえでは、こんなふうに短歌が構成の展開のなかで、地の文とおなじ位相にはめこまれている日記文学は、歌物語から上昇した表出だといえる。」(p. 116)

 

  9『源氏物語』の意味

「このようにしてこれらを集大成した位置にある『源氏物語』は、説話系の物語と、歌物語系と日記文学系とを混合し、それらを統一した最初の最大の作品といってよかった。」(p. 121)

 

  10 構成

「詩と物語のばあいの構成の共通性をぬきだすと、つぎのようにいうことができよう。文学作品の構成とは、指示表出からみられた言語がひろがってゆく力点が転換されたものをさす。」(p. 126)

 

 第Ⅲ部 劇

 第Ⅰ篇 成立論

  1 劇的言語帯

「書き言葉としての劇、あるいは書き言葉として の戯曲(的なもの)をもとにした演劇の成立は、世界中どこでも、詩の時代と散文(物語)の時代のあとにやってきている。[……]詩の表出としていちばん高 度な抒情詩では、人間のこころのうちの世界のうごきをえがくことができるようになった。物語の表出では、複数の登場人物の関係と動きをことができるように なった。劇においては、登場人物の関係と動きはのではなく、あたかも、、ことができる言語の表出ができるようになった。」(p. 129)

「舞台とは、舞台のうえの俳優とは、俳優の着ている衣装とは、舞台にならべられた道具や、俳優が手にもっている物()とは、舞踏とは、なにを意味するのか?それはどんなふうに物語の世界と関連しているのか?」(p. 135)

 

  2 舞台・俳優・道具・観客

「わたしは寡聞にして舞台とはなにかについて本質的な問いをだし、本質的な答えをさしだしているものを知らない。」(p. 136)

「ここで演劇とはなにかについて、いちおうの定義をやっておきたい。演劇とは、劇的な言語帯にはいってくる日記物語の言語と、説話物語の言語とを、歌舞や所作や道具や舞台に(舞台は境界であるが)転化したところの言語としての劇である。」(p. 142)

 

  3 劇的言語の成立

「書き言語としての国劇が成立したのは能(申楽)・狂言にはじまる。」(p. 143)

「言語としての劇は、どんなふうに物語言語のなかから成立したか?」(p. 147)

「物語としての言語から劇としての言語が成り立っていく過程は、つぎのように要約できるとおもう。 (一)[……] (二)[……] (三)[……] (四)[……] (五)[……]」(pp. 150-151)

 

  4 劇的本質

「古代人の「妣が国

信仰と生死観とから流れくだる芸術の信仰起源説は〈田楽〉の構成をかんがえるばあいでも、折口が一貫してとっている立場だ。これにたいするわたしの批評と過大評価も一貫してかわらない。(p. 155)

「[……]構成のうえで物語から の飛躍と断絶がひつようだったのだ。そこでは物語るという次元で登場する人物たちが、劇の作者たちの観念のなかでは、完全に生きた人間の輪郭をたもったイ メージでじぶんで振舞い、じぶんでほかの人物と関係する。描写されているから人間の輪郭があるのではなく、行動している人物のイメージがほんとうの輪郭を もって振舞うから、物語の次元が超えられている。これが劇が成り立つのにかならずなくてはならぬ条件だった。」(p. 156)

 

  5 劇の原型

「こういうわたしたちの見方からは、どうしても狂言から葛物へ、葛物から現在物へという劇の上昇してゆくのがおもな流れだというかんがえになってゆく。この経路がないと物語の言語帯から劇の言語帯へ跳躍することはできないといっていい。(p. 164)

 

  6 劇の構成

「狂言の構成のもとになる支配者と被支配者とのとはなにか? 昆布柿であきらかなように、それはの面白さだ。」(p. 165)

「[……]そしてこういう言語としての劇のうつりゆきは、構成の 時間のうつりゆきとしてあらわれる。劇の登場人物たちは、信仰を現世にあって分担して背負っているのではなく、人間のじぶんじしんにたいするじぶんの関 係、じぶんじしんにたいする他人の関係を背負って分化し、それが物語言語帯からまったく飛躍しきったところで、ついに第二の空間(舞台)と第一の空間(物 語あるいは現実)とのあいだを過程として通ることができる観念の世界が、劇というかたちで表出されてきたとみなすことができる。(pp. 173-174)

 

 第Ⅱ篇 展開論

  1 「粋」と「侠」の位相

○北村透谷『粋を論じて伽羅枕に及ぶ』『徳川時代平民的理想』『徳川時代平民的虚無思想』

⇒「わたしは、ここで浄瑠璃と歌舞伎の構成の根にある思想について、まず、ちかづけるかぎりはちかづいておきたいのだが、透谷がぬきだしている「粋」と「侠」とは、江戸期の遊郭内の倫理あるいは宗教的倫理の要約としては、とても優れた洞察をふくんでいる。(p. 176)

「浄瑠璃や歌舞伎の世界そのものが、透谷のいう「粋」や「侠」を宗教とする閉じられた世界である遊郭と、そのそとで町人社会に流通する実益思想との葛藤のうちに、はじめて成立した劇的な世界だったといってよい。」(p. 176)

「わたしたちは、華やかな紅灯の街の遊女たちが、ひと皮むけばつましい貧困な生活人であるというリアリズムにならされているが、ほんとうの表現と現実とのあい だは、こういうリアリズムのなかにあるのではなく、そこにあらわれる理念と現実との矛盾と背反にあるといってよい。(pp. 189-190)

 

  2 劇の思想

「遊女たちの観念の背反が、いちばん鋭く、じっさいと観念との矛盾につつきだされたとき〈情死〉あるいは〈心中立て〉となってあらわされたとかんがえられる。」(p. 192)

 

  3 構成の思想(Ⅰ)

「問題をほんとうにつきつめてゆけば、謡曲の思 想である中世的なもの、いいかえれば仏教的なものが、なぜに浄瑠璃の思想である世話的なもの、いかえれば遊郭、私娼窟の倫理である〈情死〉や、それを媒介 にせずにはうまれなかった〈不義〉〈密通〉の倫理に移行したのかというふうに立てるよりほかありえない。」(p. 201)

 

  4 構成の思想(Ⅱ)

「浄瑠璃の劇としての本質は謡曲的なものが下降してゆき、狂言的なものが上昇してゆき、そのふたつがたまたま合流した帯域に位置づけられる。」(p. 204)

「もうひとつの浄瑠璃的なものへのうつりかえを語っているのは、その表現の思想が、仏教的なものから儒教的なものへかわっていることだ。」(p. 207)

「近松にとって劇的という概念がなにを意味したかはあきらかだ。それはひと口にいって「世話的なもの」を意味した。それは遊郭倫理であり、下層町人における現実と観念の分裂がいちばん集中してあらわれた特殊宗教的な世界にほかならなかった。」(p. 208)

 

  5 展開の特質

「たいせつなことは、近松の「碁盤太平記」にある浄瑠璃の狂言への表出の下降が、どうしても人形劇から歌舞伎劇へかわることをうながさずにおかぬものをもっていたという点にあった。そして、この段階では、浄瑠璃語りのいたるところに構成の流れとしてはさまれていた音曲節、俗謡のたぐいは、劇的な構成にとって欠かせないユニットという意味をはなれて、いわば音曲という意味に分離した。それによって、歌舞伎劇から自立した俗謡節として流派をうみ、音曲としての発展にはいったといってよい。(p. 226)

 

第Ⅵ章 内容と形式

  1 芸術の内容と形式

「いま、ここでとりあげたい芸術の内容と形式という主題も、スコラ的なものの象徴で、創造するものに役だたないだけでなく、研究者以外の理論にとってもなにものもあたえない。わたしが、ちかづくのは、その主題がひとつの過去の因襲としてそこにため、その過去がなにか意味ありげに問いかけてくるからだ。」(pp. 230-231)

○ヘーゲル『美学』

○ルフェーヴル『美学入門』

○二葉亭四迷『小説総論』

「ところでわたしはまったくべつのことを主張する。芸術の内容も形式も、 表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、 内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる。その意味では、もちろんこのあいだに、橋を架けることができる。この橋こそは不可視の 〈かささぎのわたせる橋〉(自己表出)であり、芸術の起源につながっている特質だというべきだ。(p. 240)

「芸術の形式は、〈架橋〉(自己表出)の連続性からみられた表現それじたいの拡がりであり、芸術の内容は〈架橋〉(自己表出)の時代的、個性的な刻印からみられた表現それじたいの拡がりである」(p. 244)

 

  2 文学の内容と形式

「第一に、芸術の内容と形式は、表現せられた芸術(作品)以前にも、以外にももとめることはできない。それ以前または以外に内容と形式の 論議をつなぐことは、たとえ〈現実〉の土台とつなぐばあいでも観念的なスコラ主義にしかすぎない。 第二に、芸術の特質は、表現する者と、表現せられた芸 術のあいだの〈架橋〉(自己表出)の、芸術発生の起源からの連続したうつりゆきのなかにある。この〈架橋〉の特質が、自然物に手を加え、これを変え、なに かをつくりだし、これから逆に人間の存在がおしつぶされたりする物質性と、精神のそれとを区別するものだ。芸術が〈労働〉や〈労働時間〉に等価還元できな い特質はこの構造のなかにしかありえない。 第三に、この〈架橋〉は、自動的ではなく表現する者の社会性、土台とのかかわりによって、時代的な、個性的な 刻印をうける。」(pp. 245-246)

○芥川竜之介『文学一般論』

「文学の内容と形式は、それ自体としてきわめて単純に規定される。文学(作品)を言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたときそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容という。もとより、内容と形式とが別のものでありうるはずがない。」(p. 250)

 

  3 註

○ハーバート・リード『現代詩論』

○ヴォリンゲル『抽象と感情移入』

 

  4 形式主義論争

「昭和三年、横光利一の「文芸時評」は、形式論争をさそいだす契機になった。そして、この論争は、文学(芸術)の内容と形式について、当時としてはかんがえられるいちばん高度な論議を展開することになった。この論議が、現在ではとりあげるに価するものを、ほとんどのこしていないとしても、ひとつの歴史の重みとして、かえりみるだけの価値をもっている。」(p. 260)

 

第Ⅶ章 立場

 第Ⅰ部 言語的展開(Ⅰ)

  1 言語の現代性

「言語を対象としてじぶんのそとにおき、じぶんを言語のそとにおくという表出にまつわる事情を立場として想定してみる。」(p. 274)

「わたしたちは、本稿で言語学者たちが言語について、気づいていないひとつの現代的徴候に気づいていた。」(p. 275)

「現代では、人間がある言語を話そうとおもったり、または書こうとおもったばあい、そのじっさいの条件やじっさいの必要性と、それだから人間が言葉を発し、あるいは書くのだという行為とは、はっきりと水準を区別しなければならない。」(p. 275)

「ふたつの水準には乖離がある。そして言語はこの乖離を構造としてあつかわなければならない。 わたしは、それを言語の自己表出の機軸としてかんがえてきた。」(p. 275)

○シャルル・バイイ『言語活動と生活』

「この立場は、ひろくいえば幻想性と現実性のあいだのくいちがいや、質のちがいをはっきりあつかうべきだというかんがえに根ざしている。 なぜ、わたしたちの時代は、そういうことをしいるのだろうか?」(pp. 277-278)

「産業語・事務語・論理の言葉、そして日常生活 語のある部分で、言語が機能化してゆけばゆくほど、わたしたちのこころの内で、じぶんがこころの奥底にもっている思いは、とうてい言葉ではいいあらわせな いという感じはつよくなってゆく。[……]それは幻想の共同性すべてにわたる根源からの隔たりと遠ざかりを問題にするほかはない。」(p. 279)

○ルナチャールスキイ『マルクス主義藝術論』

○トロツキイ『文学と革命』

⇒「こういう表現のうえの分裂が、芸術的にどん なことなのかを、ヘーゲルの『美学』の嫡流たちは形式と内容との分裂とみなして時代的に位置づけようとした。このかんがえは巨視的には不当ではないとおも える。またその程度の意味しかもっていない。でもこの分裂を倫理とじかにむすびつけるのはまったく誤解でしかない。」(p. 281)

「言語を表出しようとする意識に歪みがあるとい うことは、表現のうちでは、言語の構造が乖離してくることだ。こういう乖離の状態では、自己表出は自己表出の固有性にそってあつかわねばならないし、指示 表出は指示表出の固有性にそって、べつべつにあつかわねばならない。 そこでいえば指示表出は、時代の高度な能率化や機能化の影響をうけとりながら、自己 表出としては太古から連続している表現のつみかさなりを背おっているといったことが、おなじ言語のうちでおこりうるといってよい。(p. 286)

 

  2 自己表出の構造

(一)対象指示性の歪み

「自己表出が言語に作用する仕方は、話体では、意識の強弱がそとにあらわれたアクセントということができよう。」(p. 287)

「なぜ、たとえば〈静かにしてください〉という叱責、非難のアクセントをはらんだ表現が〈静かにしろ〉という不定強命令刑にうつらず、それとはべつに独立して存在できるのだろうか?」(p. 287)

「言語にはこういう対象指示のうごきと、その時 代の共同の幻想が表出されるうごきとによってはさまれている。だから言語を決定しているもうひとつのうごきは、歴史的につみかさねられてきた共同の意識の 現在のすがただといえる。これは自己表出の現在のすがただといってもよい。言語は指示する対象にかこまれていると同時に表出された現在の幻想にもかこまれ ている。じつは、これが〈〉と〈静かにしろ〉とのあいだに無数の総体的な意味の移行がかんがえられるもとになっているのだ。(p. 289)

「このことは、文学体の言語では、喩のうつりゆきとしてあらわれている。」(p. 289)

 

(二)なぜある表現は像をよびおこし、ある表現は概念をよびおこすか

「あるばあいに言語はつよい像をよびおこし、あるばあいによりよわい像がよびおこされるか、といいなおすべきかもしれない。」(p. 291)

○コードウェル『廿世紀作家の没落』⇒「わたしどものかんがえでは、コードウェルはここで言語の自己表出の構造にふれたかったのだ。」(p. 293)

「、コードウェルのかいているようには一致し。 「彼」の表現があたらしいためには、バラをみた体験の言語表現がとるすべての定常性を歪めるだけの自己表出力があたわれねばならない。そして、この問題は (一)でかんがえたことにゆきつく。[……]なぜ、ある言語表現は像をよぶが、ある表現は概念の外指性としての意味しかもたないか?(p. 293)

「わたしの理論的な規定では、この問題はつぎのようになる。 表出された言語の自己表出力の対象指示性との交点が、言語の現在の帯域のそとにあるとき、その表現は像をよび、そのうちにあるときは概念の外指性しかもたないというように。」(p. 294)

「この問題は、思想としてなにを意味するだろう か? わたしたちは、幻想の共同体がつみかさねられてきた現在と、社会のじっさいのすがたが発展してきた現在とが乖離しているという意識を、じぶんの意識 がそとにあらわれたものとして、言語の表出のばあいにねじあわせようとしているといえる。このねじあわせがじぶんの意識のなかで可能だとおもえたとき、そ こでの捩れの緊迫性が、言語に現在的な像をよびおこすとみられる。」(p. 295)

 

(三)倒語的な気質について

「倒語的な気質は、なにを意味するのだろうか?そして、これは言語の表現にとってなんであろうか?」(p. 296)

「かれにとっては〈感受〉であっても〈受感〉で あっても、それが〈物事を感じとる能力〉という概念に誤解の余地がないかぎり等価なものだ。[……]そしてこれを普遍化していえば、かれにとって慣習にた いする無関心、約定にたいする嫌悪があることが象徴されている。かれにはもともと像をよぶべき言語が、像をよばない帯域で流通するのをさけたい抑制があ る。かれの倒語のくせは、造語のくせとかかわりがあるようにおもえる。(p. 297)

「倒語的なくせがあることは、言語の自己表出が構造としてあることを暗示している。言語が現実にたいして生きるものと、幻想にたいして生きるものとのあいだで矛盾をうみ、矛盾としてじぶんの意識のうちがわに集中しているとき、倒語があらわれる。」(p. 298)

 

  3 文学の価値(Ⅰ)

「体験は個別的であり、要請は共同理念的なのが こういった傾向の特徴だといえよう。また、現実社会の土台がどう発展してゆくかということと文学(芸術)の価値をむすびつけようとするのは、ある客観的な 装いをみせているようで、まるで時間の尺度がちがうことをくらべている。文学(一般には芸術)は、残念なことに、こういったすべてに気をもたせはするのだ が、どれにも身を寄せない。そんな矛盾した幻想のそとからみえる領域でだけ文学(芸術)とよばれている。文学の価値とはなにかと問う危険は、そこにあらわれるといってよい。」(p. 299)

○I・A・リチャーズ『文学批評の原理』⇒「ここではリチャーズのかんがえから、ただ表現という思想がないことだけを問題にすえれば充分だとおもう。」(p. 303)

「文学の価値はただ言葉のうえからは、とても簡単に定義することができる。自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値とよぶ。」(p. 304)

Cf. 清岡卓行『愉快なシネカメラ』(pp. 305-309)

 

 第Ⅱ部 言語的展開(Ⅱ)

  1 文学の価値(Ⅱ)

「文学(一般には芸術)作品の価値は、はっきりと自己表現と指示表現がまじわる表現の意識の相乗効果が、時間の流れにそって変化してゆくインテグレーションによって確定される。」(p. 313)

 

  2 理論の空間

「その思想がどんな批判に価するものであれ、思想的な根拠をもって主張せられた文学(芸術)の考察のうち、鮮明な極としてうかびあがってくるのは、社会主義リアリズムとシュルレアリスムであろう。」(p. 314)

「社会主義リアリズムとシュルレアリスムとは、いうまでもなく特殊に純化されていった自然過程の理論にほかならない。この自然過程の性格のなかに、これらの考えが、ただそれだけのスコラ的な、創造に役立たない理論とみなされるほんとの理由がある。」(p. 319)

 

  3 記号と像

○サルトル『想像力の問題』⇒「わたしたちとはまったくべつな考えをしめしている。その考えが、どれだけちがっているかをはっきりさせるために、かれの記号と像の考察をすこしみてみる。」(p. 321)

「サルトルによれば、意味的意識はなにも措定し ないので、たとえば、人が《事務室》という文字をよんだとき、措定的な意識はなにもないのである。そして意味的な意識が断定をともなって、たとえば《事務 室》という文字を読んで〈これは事務室だな〉という断定がおこったとき、それを判断とよぶ。 すでにわたしたちの考察がこれと逆になることはあきらかだ。 わたしたちのかんがえでは、〈事務室〉という文字がかかれていれば、書き手の自己表出と指示表出の錯号なのだ。」(pp. 322-323)