ハイデッガー『芸術作品の根源』(Der Ursprung des Kunstwerkes)(平凡社ライブラリー)
第3章 真理と芸術
「作品Werk」という語には「作られたもの」「創作されたもの」という意味あいが含まれている。そして「創作されたもの」について考えるために、まず「創作すること」について考えてみる。
創作すること
創作はいかにして製造と区別されるか。「手仕事Handwerk」という観点が導入される。
芸術家は職人と同様、手仕事によってうみだす。これは古代ギリシアで「テクネー」と呼ばれたものに相当する。しかし・・・
「テクネー」の本来の意味は「現前するものを現前するものとして伏蔵性からことさらにその形姿の不伏蔵性の内へと、直前にもたらすかぎりかぎり、存在するものを生み出すことHervorbringenである。」それゆえ「作るという働きを意味しない」(95ページ)のである。
ここでいう「生み出す」とは「こちらへと-取り-出すhervor-bringen」ことである。それは固有発生的にeigenwuchtigに立ち現れる存在するもの、すなわちピュシスのただ中で生起する」(同)
→「創作」とは芸術家の能動的活動ではなく、むしろ「存在するもの」の生起である。
したがって、再び考察は「存在するもの=作品」の作品性におもむかなくてはならない。このとき創作することは「生み出されるものへと発現させること」 (96ページ)と規定される。しかし、「真理がこのような創作されたものにおいて生起しなければならないとすると、真理とは何なのだろうか」。(96ペー ジ)
作品の作品性(素材について)
「真理は闘争として、生み出されるべき存在するものの内へとそれ自体を整い入れる」(102ページ)。「闘争=亀裂」は「開けたところの内にそびえる自己閉鎖するもの[素材/大地]にそれ自体をゆだねる、といようにしてのみ生起しうる」(103ページ)。
そして「亀裂の内にもたらされ、そしてそのようにして大地の内に立て返され、その結果として確立された闘争が、形態Gestaltである。」(103ページ)
「作品が創作されているということは、真理が形態の内へと確立されていることを意味する」(同)。「形態とは、亀裂がそのようなものとしてそれ自体を組み立てる結構である」(同)。
芸術家が素材を形態化するのではなく、真理のもつ亀裂が形態をもたらすのである。それゆえ、道具と作品はこの点で異なっている。道具において素材は有用性に埋没してしまうが、作品において素材はつねに闘争の一方の極として意識され続ける。
作品の作品性(創作されていること)
作品はまたなんらか「生み出されている」という点で、道具と一致するように見える。しかしここにも相違が存在する。つまり、
道具とは異なり、「作品の内では、創作されていることが、そのものから、つまりそのように生み出されたものから、突出して目立つのである」(105ページ)
たしかに道具もまた生み出されている。しかし、その「生み出された」という「事実」はこれまた「有用性」の内に消滅してしまう。道具が手になじめばなじむほど、それは目立たないものになる。
→つまり、一種の「自然さ」を獲得してしまうということ、あるいは一種の「身体化」が起こるということ。そこでは「存在する」ということが持つあの二重性が忘却される。
しかし、「創作されていること」はそうではない。「創作されていることは、闘争が亀裂によって形態の内に確立されて-存在すること」である。(107ペー ジ)そのさい「創作されていることそのものは、ことさらに作品の内に創り入れられ、そして開けたところの内へ突き入るあの「事実」の静かな衝撃として存立する」(同)。
ここにおいて人は「世界と大地とに対する日常的な諸連関を変更し、それ以後は通俗的な行為と評価、識別と洞察とのすべてを抑制し、作品において生起している真理の内に滞在する」(108ページ)。
このように作品に接することを「見守ることBewahrung」とよぶ。「この見守りに対してはじめて、作品は、その創作されているという点において、現実的なものとして・・・それ自体を示すのである」(109ページ)。従って、「見守り」なしに作品は作品足り得ない。
さらに、このような「見守り」において人間の実存の本質が明かされる。「見守り」はひとつの「知」であるが、それは対象認識的なそれではなく、「空け開けの内に立つこと」である。そして、「存在するもののことを真に知る者は、彼自身が存在するもののただ中で意欲しているものが何であるかを知っている」 (110ページ)。
それは「実存する人間が自己を存在の不伏蔵性の内に脱自的に放ちいれる」(同)意欲である。意欲とは「実存しつつ<自己自身を超え出てゆく>冷静な開-鎖性である。」(111ページ)
「作品を見守ることは、人間たちを各人の体験へと個別化するのではなく、彼らを作品において生起している真理への帰属性の内に引き込み、そのようにして <たがいのために存在すること>と<共に存在すること>とを、不伏蔵性との連関から、現-存在が歴史的に[存在の開けへと]外立することとして根拠づけ る」(111ページ)
→作品の「見守り」において、我々の実存が単なる個別性ではなく、共同存在であることが明かされる。
作品の現実性
最後に、最初の問いに戻る。「芸術家」と「作品」ともどもを成り立たせている、あの「芸術」とは何なのか。
作品の現実性はこれまでの議論から、つまり作品存在の観点からより明確になった。「作品の創作されていることに、創作する者と同様に、見守る者もまた属す るのである」(116ページ)。「芸術が作品の根源であるなら、そのことはすなわち、芸術が作品において本質的に共に属し合うもの、創作するものと見守る 者とを、その本質において発源entspringen lassenさせるということを意味する。」(117ページ)。それでは、芸術それ自体とは?
「すべての芸術は、存在するものそれ自体の真理の到来を生起させることとして、その本質においては、詩作Dichtungである」(118ページ)。
また芸術とは「真理がそれ自体を-作品の-内へと-据えることである」(同)。
「詩作」(ここでは詩を中心としながらも、より抽象化されて意味を持つ)が芸術の本質であるのは、それが言語を扱うからである。言葉は単なる伝達の道具で はない。それは「存在するものをまさに存在するものとして、はじめて開けたところへともたらすのである」(121ページ)。というのも・・・
「言葉がまず第一に存在するものを命名するnennenことによって、そのような命令がはじめて存在するものを語にもたらす、すなわち出現することにもた らす。この命名が存在するものを、その存在からその存在へと呼び出すernennen。そのような発言Sagenは、空け開くという仕方で投企すること Entwerfenである。この投企することのうちで、存在するものがどのようなものとして開けに到来するのかが告げられるansagen」(121ペー ジ)。
詩作はこの投企する発言である。詩作とは「存在するものの不伏蔵性の言である」(122ページ)。
・芸術と民族
ところで、こうしたことどもはすべて現実の中で、あるいは歴史の中で起こることである。「真理を詩作しつつ投企することは、作品の内にそれ自体を形態として立てるのであるから、空虚なものや無規定的なものを目指して遂行されることは断じてない。」「投げ与えられるものは決して恣意的に要求されるものではな い。真に詩作的な投企とは、歴史的なものとしての現存在がすでに投げ入れられているあの場所を開示することである」。(124ページ)
「そこは大地であり、歴史的な民族にとっては彼らの大地、それ自体を閉鎖する根底である」。(125ページ)
詩作は民族的な基盤を開示する。
芸術はつねにある「原初Anfang」をもたらす。それは単なる「原始」ではなく、「不気味で途方もないものの、すなわち安心なものとの闘争の、開示されざる充実を含んでいる。」(126ページ)
この原初が生起するとき、「いつでも、ある衝撃Stoßが歴史の内に到来し、歴史がはじめて、あるいは再び原初する」(127ページ)。
「ここで言う歴史とは、それがどれほど重大なものであれ、時間の内で生じるなんらかの事件ではない。歴史とは、或る民族を、その民族に備わっているものの内へと移し入れることとして、その民族に課せられたものの内へと連れ出すことである」(127~128ページ)。
ある民族の「使命」(60ページを参照。本レポート6ページの引用)が再度現れ、そしてその民族の命運を決定する、そのような衝撃として芸術がある。「芸術が歴史であるというのは、それが歴史を根拠づけるという本質的な意味においてなのである。」(128ページ)
継続する問い
芸術について問うことは、畢竟芸術が民族の根源なのかどうか(sein)否か、またそのようにありうる(können)のか、そうあらねばならない(müssen)のか、もしそうならどのような条件のもとでなのか、これらを問うていくことにつながる。
こうした問いにおいて、われわれは自らの根源に接近していくのだろうか、それは大きな課題として残されている。「根源の近くに住むものは、その場所を去りがたい」(ヘルダーリン「漂白」からの引用、130ページ)。