ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(ちくま学芸文庫)第2部

第四論文 近親婚の謎

(近親婚のメカニズムについてはエロティシズム論からいささか離れるので割愛)

「エロティシズムは、魅せられることと恐怖すること、肯定することと否定することが交互に生じて形成される」「エロティシズムの条件は、規則が定められその規則が障害と障害の解除〔つまり侵犯〕を体制として秩序づけたときに、まさにそのような規則によって生みだされたのだ、と」(p359)

「禁止は禁止している対象にエロティックな価値を与えたということなのだ」「自由な性活動に対して加えられた制限が、抗いがたい動物的な衝動に、動物にはない新たな価値を与えたのである」(pp360-361)

 →第一部参照。エロティシズムは動物から人間=社会的存在としての段階で生じたものであり、禁止に付随する侵犯こそがエロティシズムの源泉である。

 

「しかし今ではもう結局この規則は富の分配という有益な意味しか持たなくなっているように見える。女は、子供の産出力と労働力という狭い意味しか持たなくなったのである」(p361)

「性欲の渇望の対象としての女を分配するための規則が、労働力としての女の分配を保証するようになってしまったということなのだ」(p362)

 →労働の社会的絶対化によりエロティシズムは消滅した。しかし・・・

 

「近親者を断念するということ――自分が所有する物の享楽を自分に禁じる留保――が、動物的な貪欲さの対極にある人間的な態度を決定しているのである。(略)このように断念したことで逆に、断念した対象の魅惑的な価値が強調されるのだ」(p372)

 →近親婚の所有者(近親者)の断念という事柄があってこそ、結婚=自分の所有物としての女の贈与はエロティシズム的な価値を持つ。

 

「本質的に重要なのは、どんなに狭い環境であろうと、エロティックな様相など考えられもしない環境が存在していること。および、その余波としてエロティシズムが転覆行為の価値を帯びている侵犯の瞬間である」(p373)

 →エロティシズムを排除した環境とエロティシズムによる侵犯は表裏一体のものとして存在する。しかし・・・

 

「人間が存在する限り、一方に労働があり、他方に禁止による人間の動物性への否定があるのだ」(p365)

「今や結婚は、性行為と、禁止への尊敬との妥協の産物になっている」「結婚とは原則として侵犯なのである」「禁止が作り上げる純潔――母や姉妹の特性であ る純潔――は、母となった妻の方へ、ゆっくりと、部分的に移っていった。こうして、状態としての結婚が、人間的な生活を続行する可能性を確保していったの だ」(pp373-374)

 →エロティシズムを否認する人間的労働世界が、結婚の「瞬間」にのみ侵犯を認め、人間的世界=家族という非エロティシズム世界を構築する。夫婦間では 「性行為」はあっても、エロティシズムは存在してはならないこととなり、女は家族の中において純潔であることを求められる。