ガストン・バシュラール『科学的精神の形成』(及川馥訳)平凡社ライブラリー

第10章 リビドーと対象認識

前科学的精神においてリビドー(性衝動を発動させる力)がいかなる形をとって現れたかがこの章では述べられる。

「リビドーの支配下にあっては、もっとも漠然たるものがもっとも強力である」(p311)

「リビドーは神秘的であり、すべて神秘的なものはリビドーを目覚ますからである。たちまちひとは神秘を好み、神秘を必要とするようになる。そのため多くの文化は幼稚化してしまった。理解したいという欲求を失ってしまうからである」(p313)

「通俗化はわれわれがこのような不純な原因とみなす神秘の要求の下地を作る。結局、こういう通俗化は抽象的思考が飛翔するとき、足かせとなるのである」(p313)

 

前科学的精神においてはこのリビドーに従って事象は性的に捉えられ、性的に捉えられるとき、それはモラルに従うものとなる。

「錬金術は、現代科学とは比較にならぬほど、モラルの価値体系のなかに組み込まれているのである」(p321)

「この純化は客観的になされるというよりは、モラルの理想にそっておこなわれている」(p321)

 

現象の解釈がリビドーに従い、アニミスムと結びつくとき、前科学的精神は「生成」という普遍的な様式をそこに負わせる。

「アニミスムの力はそれが天と地を結合する普遍的な様式に則して捉えられたとき、そのすべての価値を発揮する」(p336)

「アニミスムの哲学においては、個々の例証よりは普遍的着想の方が受け入れやすいし、正確な見解よりは、大ざっぱな見解の方が、裾野よりは頂上の方が、用意に同意できる」(p344)

「前科学的生物学では、生殖細胞が形態よりも力であり、構造よりも潜在力であることがきわめて徴候的である」(p348)

 

「ある程度恐怖を克服した結果、まむしの粉末には価値が付与された。(略)それは、こうした感情[恐怖]を抑圧する大きな助けとなりうるし、しかもまたこの抑圧自体もなんらかのかたちで物質化され ると、無意識を助けることもできるのである。(略)無意識は、大ざっぱに物質化された手段、大まかな具体的な手段によって発散される必要がある」(p354)

 

第11章 量的認識の障害

「直接的な対象認識は、それが真の認識であるというまさにその事実によって、必然的に欺瞞的である。それは修正しなければならないひとつの誤謬を含む。それは対象に主観的印象を必然的に負わせてい る。したがってそれから対象の認識をひきだすべきであり、この認識を精神分析しなければならないであろう。直接的認識はその原理そのものにより主観的なの である」(p356)

 

直接的な対象認識に対して、科学的認識においては現象の量的認識、そして数学的分析が必須のものとなる。

「計るためには熟慮しなければならず、熟慮のために計るのではない。もし計量の諸方法の形而上学をおこなうとするならば、おもむくべきは批判主義にであり、けっして実在論にではないのである」(p360)

「十八世紀には、精度において根拠のないゆきすぎは、いわば規則なのであった」(p362)

「前科学的精神が普遍的見解を無意味な特殊な事象に結合させる」(p363)

「前科学的精神は大きいものと小さいものとの明快な理論をもたない。(略)前科学的精神にとってもっとも欠除しているもの、それは実験の誤差の理論である」(p368)

 

「証拠もなく、あるいは一般的で漠然たる考察のもとに、さまざまの現象の次元に因果関係を確定すること以上に非科学的なことはあるまい」(p371)

「科学的精神は、無視しうるものを無視するこの権利を、明快に判然と公言する。哲学的精神はそれを科学的精神に認めることを飽くことなく拒否しつづけている」(p374)

「現代の科学的な考え方をはばむものは、慣習的直感への執著であり、またわれわれの大きさの秩序のなかで捉えられたこの通常の経験そのものなのである。(略)新しい領域におもむくときは、科学的精神はその構造を根本から組みなおすべきであり、なれ親しんだ大きさの世界の法則性をあらゆるところに押しつけるべきではないのである。(略)常識による知識を放棄することは、つらい犠牲を払うことなのだ」(p380)

 

「経験の数学化は、日常のイマージュによってさまたげられることはあっても、それに助けられることはない」(pp380-381)

 

「数学への敵意は、科学的現象を直接とらえようとする意図と結びついたとき、悪い徴候となる」(p385)

「思想のむずかしさはひとつの根本的特質なのである。このむずかしさが生理的には本物の圧迫となってあらわされ、そしてまた科学的教養に情動性の色合をもたせるのである」(p385)

「数学的思考は物理学の説明の基本であり、したがって抽象的思考の条件は科学的経験の条件とは切り離せない」(p390)

「直観をあまりに誘惑しすぎる幾何図形を代数的に説明すること、つまり間接的に推論をつみ重ねて説明することの必要性」(p391)

「結果だけを教えることはより簡単であろう。しかし科学の結果だけを教育しても、けっして科学的教育とはならない。結果に導いた精神の生産活動の軌跡を明らかにしなければ、おそらく生徒は、この与えられた結果をもっとも身近なイマージュと結合してしまうことであろう」(p395)

「ニュートンの天文学の問題を真の意味で解決できるのは、経験的形体からこの法則をひきだし、そしてその代りに法則にもとづきながら純粋な形体を再構成できたときにかぎるのである」(p399)

 

「科学教育の第一原理は、知的領域における この禁欲主義、すなわち抽象的思考であるようにわたしには思われる。(略)われわれは直観を精神分析するものとして厳密さを提示し、また代数的思考を幾何学的思考の精神分析法として提示することにしたい。精密な科学の領域においてさえ、われわれの想像力は昇華作用なのである」(p400)

 

第12章 科学的客観性と精神分析

「対象は直接的な〈客観的なもの〉として示 されるべきではない。換言すれば、対象への歩みは出だしから客観的なものではない、ということである。したがって、感覚的認識と科学的認識のあいだに本当の実在的な断絶が存在する(略)感覚的認識の通常の傾向は直接的なプラグマチスムとレアリスムとによっていかに活気づこうとも、それはまちがった出発点を定めたにすぎず、また虚偽の方向を決定するにすぎないのだ」(pp402-403)

「前科学的精神の出発点の実在論にたいし、 ひとが反発し、あるいは前科学的精神が最初の行動によってその対象を捉えようとするあの意図に反対して、ひとが前科学的精神を解放してやろうと試みるその瞬間に、前科学的精神はこの刺激の心理学をいつも展開させるのである。この刺戟心理こそは確信の中核となる価値であり、したがってそれから客観的制御の心 理学へと順序よく到達するようなことはけっしてありえない」(p403)

 

「刺戟はもはやわれわれの客観化の基礎にはないということをしっかり確認し、客観的制御はひとつの反応というよりは、むしろひとつの改革であることを確認するためには、社会的制御にたちもどるべきである」(p405)

「他者の行動の上に客観性の基礎を据えたい」(p405)

「客観性の理論はどれもこれも対象の認識をつねに他者の制御の下におく」(p406)

「測定が精密になればなるほど、測定は間接的になる。単独な人間の科学は定性的だ。社会化された科学は定量的である」(p408)

 

「誤謬よ、汝は悪にあらず」(p409)

「錯誤におちいった理由を探すことが適切である錯誤と、(略)根拠のない断定にすぎない錯誤(略)を区別する」(pp409-410)

「だんだん巧妙になる誤謬を追いつめることによって、抽象をしだいに緻密にするように、精神を規定しなければならないのだ。この繊細な教育のために、複合的科学的社会、つまり心理学的努力によって論理的努力を補強するような科学的社会が望まれるであろう」(p410)

「学問が社会的になるに比例して、つまり教えやすくなるにつれて、学問はその客観的基盤を獲得するのである」(p411)

 

「授けられた教育は心理学的には経験主義であり、あたえた教育は心理学的には合理主義であるのだ」(p414)

「科学的教育全般にわたって、もしそれが溌剌たるものであれば、経験主義と合理主義が干満をくりかえすため交互にゆさぶられることになる」(p414)

「心理的ダイナミズムのもつ必然性」(p415)

「文化を実在論とか唯名論とかにおしこめるような哲学はすべて、科学的思考の進化にとってもっとも危険な障害となるのである」(p415)

 

「純粋に歴史的な研究は、理性を満足させる ような、ほとんど論理的といえるような意味はあたえるとしても、理由があるという感情の心理を、甘美さと権威という両面価値をふくめて、そのあらゆる複雑なひだまで、われわれに明かしてくれることはないだろう。理性を行使する場合のこの感情をくまなく知るためには、科学的精神形成を体験する必要があり、ま た教えてみなければならない」(p416)

「ものによって人間に打ち勝つこと、これは権力意思ではなく、理性の光ある意思が勝利を収める途方もない成功なのだ」(p416)

「実然判断を失って、知的習慣のレベルに堕してしまう傾向にたえずおびやかされている理性的真実は、それが摩滅することをふせがねばならない(略)われわれから精神の新しさの感覚をすこしずつ奪っていく知的な無神経さにたいしては、科学史にのっとった発明発見の教育が大いに有効な刺戟をあたえるであろう」(p417)

「理性を不安にすること、対象認識の習慣を錯乱させる必要がある」(p417)

「教養あるひとびとは、この上なく明快な科学的解決の背後にさえひとつの神秘を欲する」(p418)

「この命名されないものから、哲学者たちはひとつの命名しえないものをつくる」(p418)

「現代科学がおかれている発展の時点では、 科学者はみずからの知性の放棄という必然性、たえず発生しているこの必然性に直面させられている。(略)[このことが]なくては、遠からず客観的探求はそ の生産力を失うのみならず、発見のベクトルそのもの、帰納的な飛躍までも失うことになるであろう。(略)非主観化へのふだんの努力が必要である。(略)客 観的発見が即座に主観の修正となるのである」(p419)

 

「かつて反省的思考は最初の反射作用に抵抗しておこなわれた。現代科学の思考は最初の反省的思考に抵抗するようひとびとに要求する。(略)大脳にさからって考えなければならないのである」(p423)

「そのときから科学的精神の精神分析はその全力を発揮する」(p423)

 

「価値を判定するためには、人生への有用さはとくに静態的であるのにたいし、精神への有用性は精神的な意味で完全に力動的である(略)生に奉仕するものは生の運動を停止する。精神に奉仕するものは 精神を運動させる(略)科学精神の精神分析はこの二つの相反するものを、それぞれ区別し、生への関心と精神の連帯を断絶することに専念すべきである」(p424)

 

「生涯教育によってのみ科学は存在する。科学はこういう教育を樹立しなければならない。そのとき社会的利害関係は決定的に逆転するであろう。学校は社会のためにつくられるのではなく、社会が学校のためにつくられるのであるから」(p426)