小林秀雄著『モオツァルト・無常という事』新潮文庫、2006年

1.モオツァルト(pp. 7-73)

 ・1:「悪魔が発明した音楽」(p.7)

 ・2:道頓堀エピソード。モーツァルトの肖像画。

 ・3:モーツァルトの天才。

 ・4:音の世界への言葉の侵入。ロマン派音楽、純粋。

 ・5:美に対する沈黙。その沈黙の危機。(その危機を生み出したロマン主義。)

 ・6:天才の苦悩。

 ・7:芸術家のラプトゥス。(首尾一貫性の否定)。批評の方法論。

 ・8:スタンダールの。モーツァルト的。反ロマン主義。

 ・9:モーツァルトの手紙。転調。tristesse allante。モーツァルトの孤独。

 ・10:分析。「単純で真実な音楽」(p.49)。主題の短さ。歌声。(器楽と声楽が等価であるということ)。

 ・11:モーツァルトの多様性。旅行、時代の過渡期。要求に応じること。模倣。自由。「生は、果して生を知るであろうか。」(p.72)

 

2.当麻(pp.74-78)

「不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了うがよい、彼が、もし今日生きていたなら、そう言いたいかも知れぬ。」(p.78) 

 

3.徒然草(pp.79-82)

「彼には常に物が見えている、人間が見えている、見え過ぎている、どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。評家は、彼の趣味をするが、彼には趣味という様なものは全くない。古い美しい形をしっかり見て、それを書いただけだ。」(p.81)

 

4.無常という事(pp.83-87)

「この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それはなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。」(p.87)

 

5.西行(pp.88-107)

 「一西行の苦しみは純化し、『読人知らず』の調べをでる。」(p.107)

 

6.実朝(pp.108-142)

 「何流の歌でも何派の歌でもないのである。又、に独創をって、歌がこの様な姿になる筈もない。不思議は、ただ作者ののうちにあるだけだ。」(p.122)

 「秀歌の生れるのは、結局、自然とか歴史とかという僕等とは比較を絶した巨匠等との深い定かならぬ『えにし』による。

(p.128)

 

7.平家物語(pp.143-147)

「作者を、本当に動かし導いたものは、彼のよく知っていた当時の思想という様なものではなく、彼自らはっきり知らなかった叙事詩人の伝統的な魂であった。」(pp.146-147)

 

8.蘇我馬子の墓(pp.148-164)

 ○国史。歴史哲学。

 「から、学問と宗教とが渡来した時の日本人の驚き、そんなものを私達はもう想像する事も出来ないのだが、考えてみれば、歴史というものはもも、そんな事だらけである。仕方がない。生きた人が死んでった人について、そのなしの想像力をはたらく。だから歴史がある。」(p.152)

 「本当によく自覚された孤独とは、世間との、他人との、自分以外のてとの、一種微妙な平衡運動の如きものであろうと思われるが、聖徳太子にとっては、問題も、との外交も寺院等の文化政策も、そういう気味合いのものではなかったろうか、そして晩年に至り、思想が全く彼を夢殿に閉じ込めて了ったのではなかろうかと推察される。」(p.157)

 「伝統主義も反伝統主義も、歴史という観念学が作り上げる、根のない空想に過ぎない。」(p.164)

 

9.鉄斎Ⅰ(pp.165-170)

 ○文人画家気質からの脱却。

 「したがって、写生術についても、その秘密を決して自然からかに盗もうとする道をとらず、厄介な伝統的写生術にし、その秘密の更生を待つという勤勉と忍耐の要るをとった。」(p.170)

 

10.鉄斎Ⅱ(pp.171-178)

 ○鉄斎のワカガキ。富士山。

 「見て写した形なのでなく、登って案出した形である。日本人は、何と遠い昔から富士を愛して来たかという感慨なしに、恐らく鉄斎は、富士山という自然に対する事が出来なかったのである。彼は、この態度を率直に表現した。讃嘆の長い歴史を吸って生きている、この不思議な生き物に到る前人未到の道を、彼は発見した様に思われる。自然と人間が応和する喜びである。」(p.175)

 

11.鉄斎Ⅲ(pp.179-182)

 ○鉄斎の贋作、晩年様式。

 「岩とか樹木とか流木とかを現そうと動いている線が、いつの間にか化けて、何物も現さない。特定の物象とは何んの関係もない線となり、絵全体の遠近感とか量感とかを組織する上では不可欠な力学的な線となっているという風だ。」(p.180)

 

12.光悦と宗達(pp.183-189)

 ○審美面の判断と歴史。自然。

「時代、歌は高級知識人の社会生活の一部をなしていたという事は、現代短歌の孤独な道から眺めてはど見当のつかぬ事実であり、特に『古今』や『新古今』の歌人等にとって、歌道と書道とは不離のものであったという事は、活字によって短歌を判断する現代人が忘れ果てた異様な美学である。この二つの忘却は、今も僕等を動かすに足りる、万葉歌人の人間性という観念を、僕等が発見する為に必要な忘却であったか。恐らくそうだとも言えるであろう。が、一体、僕等に何もも忘れ果てるという事が出来るのだろうか。僕等が詰らぬ、不要だと思うものを、歴史は本当に流し去ってくれるものだろうか。」(p.184)

「光悦や宗達は、こんな自由を知らなかった。彼等は建築や工芸品の要求と必然性とに従って装飾した。自然は彼等のいをれて、その瞬時も止まらぬ無限に不安定なをかくして、永遠に美しい桜の花や月の姿を彼等に見せた。」(p.189)

 

13.雪舟(pp.190-202)

 ○絵画の自律性?自然?媒介と内容。

 「私は、絵を見乍ら、岩というものに対する雪舟の異常な執着と言った様なものを、しきりに思った。一見で奔放と思われる描線も、よくよく見るとの強い緊張し切ったものなのであり、それは、あたかも形を透し、質量にろうと動いている様だ。筆を捨て、鑿を採らんとしている様だ。これ以上やったら、絵の限界を突破して了う、画家の意志が踏みこたえる、そんな感じを受ける。」(p.193)

 「雪舟は職業画家でもなかったし、彼の絵は禅僧の余技でもない。つまり禅を語るのに絵という手段しかない、そういう処まで絵を持って行った人という事になる様だ。何も禅という言葉にこだわる必要はない。今日の言葉で言えば思想である。思想としての絵画の自律性というものを、恐らく日本で最初にに自覚した人であろうと思われる。

(p.199)

 

14.偶像崇拝(pp.203-218)

○信仰なき時代の偶像崇拝。画因について。審美的経験と歴史的教養。美を発見する個性。二科展。ピカソの理智と眼玉。

「絵の好きな人は、絵の作用に応じて、私達のなかに、血行とか消化とかに似た様な、黙しているが確実な或る精神の機能が働くのを知っている。」(p.204)

「私達の間では、もはや過去の信仰は死んでいるのであり、これはどう仕様もない、どうごま化し様もない、そういう事だ。それからもう一つは次の様な事実だ。私達が現に見ている絵は、過去の宗教の単なるではない。総じて過去というものにる単なる道しるべではない。[…]自分の審美的経験を分析してみれば、美の知覚や認識には、必ず何か礼拝めいた性質が見付かるだろう。」(p.205)

「折口氏が『来迎図』の画因と言っている言葉に、ここでは注意したいのだが、それは、画家の製作の動機の事であり、その喜びであり、今もなお画面から発すると感じられる或る力の事なのであって、ある様式の芸術が生産されるについての、あれこれの環境の性質という様な、歴史家の求めている外的原因ではない。

(p.206)

「社会的な支配力を持つと自負しているそういうもの[宗教の教義や儀式や制度]は、決して個々の人の心を本当には支配し得ない。各人は持って生れた宗教心或は心の色合いを、そういうものに映してみるだけである。画家の眼は、それを本能的に見ている。従って、彼は己れ個人の体験から出発するより他はない。例えば恵心はそうした。個人主義という様なものがなかった時代でも、個性は常に個性だったのである。個性的な表現様式が、ち模倣を呼ぶ限り、つまりある時代の一般的な絵画形式の一単位として社会がこれを容認する限り、それは社会的な価値を持つが、幾百年を隔てて尚、『山越しの阿弥陀』に、人を感動させるに足りる普遍的な価値を認める為には、不思議な事だが、例えば折口氏という個性を要する。」(pp.209-210)

「彼[ピカソ]は、何を置いても先ず、あらゆる物に取囲まれた眼玉らしい。あらゆる物という事が肝腎だと彼の眼玉は言うかも知れない。頭脳は、勝手な取捨選択をやる、用もない価値の高下を附ける。みんな言葉の世界の出来事だ、眼には、それぞれ愛すべきあらゆる物があるだけだ、何一つ棄てる理由がない。」(p.216)

 

 

15.骨董(pp.219-225)

 ○美的観照ではなく、美との交際。美を所有したいという悪徳。

 「骨董はいじるものである、美術は鑑賞するものである。」(p.220)

 「もし美に対して素直な子供らしい態度をとるならば、行為を禁止された美の近代的鑑賞の不思議な架空性に関するトルストイの洞察は、僕達の経験にも親しいはずなのである。」(p.223)

 

16.真贋(pp.226-242)

 ○ニセ物の骨董品をめぐる、実体験談。

「美術品の学術的な研究鑑定の世界は別だが、書画というの世界では、ニセ物は人間の様に歩いている。煩悩がそれを要求しているからである。誰だってニセ物をみたくはない。威張り臭った仲間が掴んだ時なぞまことにいい気持ちのものである。自分が掴んだ時は、いや励みになったと減らず口をいて決してりないものである。

(p.228)

「研究者には欲はないが、美は不安定な鑑賞のうちにしか生きていないから、研究には適さない。従って研究心が欲の様に邪魔になる事もある。」(p.230)

「どうしても買った時と同じ美しさなのである。もう皿が悪いとはち俺が悪い事であり、中間的問題は一切ないと決めたから[…]。

(p.232)

「彼[瀬津さん]に信用がつくに従い、彼の茶碗が美しくなった事は言うもない。では美は信用であるか。そうである。純粋美とはである。鑑賞も一種の創作だから、一流の商売人には癖の強い人が多いのである。

(p.233)