カント『プロレゴメナ』 [1783](篠田英雄訳:岩波文庫、1977年)1~64頁

純粋理性批判(以下『批判』)第1版が1781年に出版された後、その注釈あるいは要約として『プロレゴメナ』を出版した(1783年)。

 

用語

・「形而上学」=経験や外界の感覚にふくまれないようなものの性質を調べる哲学。例えば、因果関係(causation)、普遍(universal)、神など。ただしカントのテクストでは時々単に「哲学一般」を指すこともある。

・「純粋」=経験や外界の感覚と関係ないこと。ア・プリオリであること。

「理性」「悟性」「感性」

・感性(sensation, aesthetic: Ästhetik)=外界のセンスデータを知覚する力

・悟性(undestanding: Verstand)=モノや概念を知る力(最近の中山元訳では「知性」と訳されている)

・理性(reason: Vernunft)=推論する力(「真理の最高決定機関」(石川文康『カント入門』p.27))

「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」

・ア・プリオリ=経験に関係ない。経験や外界知覚とは関係なく理解できること。

・ア・ポステリオリ=経験を起源とする。

『批判』の企図:経験や外界の感覚に含まれないようなもの(神とか魂とか)を認識するということは、理性に可能なのかどうか?

 

序言

形而上学(≒哲学)の窮状

形而上学が学(science)として世間の賛同を得られない。(p.10)

他の学(science)は不断の進歩を遂げているのに、哲学だけは進歩していない(p.10)

ヒュームの議論

このような窮状の最も決定的な原因となったのがヒュームによる形而上学へのアタック

ヒュームは因果関係(原因と結果との必然的連結)という概念を研究した。「理性は、何か或るもの〔原因〕が設定されるとそれによってまた何か他の或るもの 〔結果〕が必然的に設定されると言うが、しかし理性はいかなる権利をもって、最初の何か或るものがこのような性質をもち得ると思いなすのか」(p.14)

あるものA→あるものB

ヒュームによればこの連結(上の矢印)の必然性は、概念だけをとりあげて(=ア・プリオリに)理性が証明することはできない。なぜなら「この結合は必然性 を含むからである[が]、とにかく何か或るものが存在するからといって、何か他の或るものまでが存在せねばならないという理由や、それだからまたかかる必 然的連結の概念がア・プリオリに導入せられるという理由は、まったく理解できないことである。」(p.14)

例:手に持っているリンゴを放す(原因)と、下に落ちる(結果)。=ヒュームの議論では、「リンゴ」という概念と「手に持っている」という概念と「手から 放す」という概念の中身をいくら調べても(ア・プリオリ)、「下に落ちる」という事柄は出てこない。我々がこれを言えるのは経験的(ア・ポステリオリ)に 何度もリンゴから手を放すとその度にほぼ間違いなく下に落ちる、ということのみである。

ヒュームの最終的な一撃=「理性は、このような必然的連結を、一般的にすら考える能力をまったく持ちあわせていない」「およそ形而上学なるものは存在しない」(p.15)

注意:ヒュームは因果関係なる概念が自然科学に有用かどうかを疑っていたわけではない。そうではなくて彼の問題は「原因の概念は理性によってア・プリオリ に考えられるかどうか、もしかかる仕方で考えられるとすると、この概念はおよそ一切の経験にかかわりのない内的心理を含み、したがってその使用は経験の対 象だけに限定されることなく、更にいっそうの広い範囲に及ぶのかどうかにある」(p.17)

カントの企図は、ヒュームの議論を踏まえたうえで、今一度形而上学の理論的な基礎を作ろう、ということ。

 

すべての形而上学的認識の特性に関する予備的注意

第一節 形而上学の源泉について(p.30)

形而上学が他の学問(science)と違うのは、経験的な認識に基づくものではないということ。

「形而上学的認識の諸原理[…]は、決して経験から得られたものであってはならない、形而上学的認識とは、自然的認識ではなくて超自然的〔metaphysisch〕認識―換言すれば、経験の彼方にある認識を意味する」(p.30-31)

「すると形而上学的認識は、ア・プリオリな認識、すなわち純粋悟性および純粋理性にもとづく認識ということになる」(p.31)

 

第二節 形而上学的と呼ばれ得る唯一の認識様式について

1 綜合的判断と分析的判断との区別一般について(p.32)

内容による判断の区別:

分析的判断=「単に解明的であって認識内容に何ものをも付け加えない」ような判断 (例:「すべて物体は拡がりをもつ」(p.33)「独身者は未婚である」という判断)

綜合的判断=「拡張的であって与えられた認識〔の内容〕を増大する」ような判断 (例:「若干の物体は重さをもつ」(p.33)「独身者は寂しいという判断)

命題は「A〔主語〕はB〔述語〕である」という形式であるから、分析的な判断は主語概念にすでに含まれている属性を述語によって取り出しているに過ぎない ため、認識の内容を増やす効果はない。総合的判断においては、主語概念の中身をいくら調べても、寂しいという性質は出てこないから、この判断を行うには主 語概念の外側の情報を付加してやる必要がある。それゆえ総合的判断は認識内容を増大させる(知識が増える)。

2 すべての分析的判断に共通する原理は矛盾律である(p.34)

分析的判断はすべて矛盾律に基づく。(矛盾律というロジックを心得ていれば、誰でも分析的判断を実施可能である) 

例:「黄金は黄色の金属である」Gold is a yellow metal.(p.35)

例:「独身者は未婚である」という命題が偽であると判断できるためには、「独身者」という概念と「未婚」という概念の間に矛盾関係が成立していることが認識できればよい。

分析的判断はすべてア・プリオリな判断である。(上の命題の真偽を判定するためには、「独身者」という概念と「未婚」という概念を理解していればよい。独身者に対して統計調査を実施する必要はない。)

3 綜合的判断は矛盾律とは異なる原理を必要とする(p.35)

綜合的判断は矛盾律だけでは実施できない。しかし少なくとも矛盾律に従う必要はある(矛盾律に違反していいというわけではない、ということ)。

綜合的判断はすべてア・ポステリオリであるというわけではない。ア・プリオリな判断もある。

綜合的判断の種類:

・経験判断(p.36):常に綜合的判断。

・数学的判断(p.36):すべて綜合的判断。ただし、

・他の基本的数学的な定理から導出される命題は分析的判断のみで(=矛盾律で)真偽を判断できる場合がある。(これが普通の数学のイメージ)しかし、すべての数学の命題がこういう例ではない。

・純粋数学の命題は、ア・プリオリな綜合的判断である。そこでは「直観」(intuition)が重要になる。

例:7+5=12(p.38)⇒これがなぜア・プリオリな綜合的命題なのか?(別紙参照)

・純粋幾何学の命題もすべて総合的判断である。

例:直線は2点間の最短線である(p.39)ここでも直観が重要。

・綜合は、かかる直観を介してのみ可能なのである。(p.39)

ヒュームの誤りとは「純粋数学は分析的命題だけを含むが、これに反して形而上学はア・プリオリな綜合的命題を含む」と考えてしまった点にある (p.42)。つまりこれを持って、ヒュームは「因果律のような形而上学的命題を、数学のような分析的な方法で証明できないじゃないか。だから因果律なる 命題は理性にとっては実在しないのと同じだ」と主張したことになる。

本来の形而上学的判断は、すべて綜合的判断である。(p.43)

・形而上学の命題には多くの分析的命題もあるが、これらは形而上学にとって本質的な命題というわけではない。

・形而上学を決定的に特徴づけるような、「何か或る特殊なもの、この学に独自なものを具えている」(p.43)ようなものとは、「ア・プリオリな形而上学的認識を産出すること」(p.44)である。これを2つに分解して説明すると・・・

・ア・プリオリな認識でなければならない点については、31ページですでに確認したことである。

・綜合的命題でなければならない点については、認識を「産出」できるような判断とは、分析的判断ではあり得ないからである。(分析的判断は認識内容を増やすことができないことは上記で確認済み)

・他の悟性認識(例えば科学的な観察という経験による認識(「空気は弾力性を持つ流動体であり、その弾力性は我々に知られている限りの寒冷度によって消滅 するものではない」p.43)と形而上学が異なる決定的な差異はここにある。形而上学に独自の綜合的命題とは、例えば「物において実体であるところのもの は、すべて常在不変(permanent)である」(p.44)。

・この節の結論=「形而上学がほんらい究明せねばならないのはア・プリオリな綜合的命題である」(p.44)

・ヒュームの問題=「Aが起こるとBが起こる時、AはBの原因である」は、ア・プリオリな綜合的命題?

 

第三節 判断を一般に分析的判断と綜合的判断とに区分することに対する注(p.45)

充足理由律=すべてのことには何らかの理由があるという考え方

 

「プロレゴメナ」の一般的問題

第四節 いったい形而上学は可能なのか(p.48)

・これまでの哲学は形而上学の体系をつくろうとしてきたがうまくいかなかった。したがってヒュームのように形而上学そのものを否定す る者もあった。カントによればそもそも形而上学を理性のみで構築しようとするからおかしくなるのである。形而上学の命題は分析的には判断できないのだか ら、理性のみでは無理である。

・カントの方法:純粋理性の働きの限界や条件を調べる。

その出発点となるのは、純粋数学と純粋自然科学である。なぜならこれらの2つの分野では、ア・プリオリな綜合的認識なるものが存在して重要な役割を持っていることがすでにわかっているから。(p.52)

その方法的手続きは分析的なものになる(p.52)。つまり議論に矛盾がないかどうかを検討しながら考察していく。

 

第五節 純粋理性にもとづく認識はどうして可能か(p.53)

ア・プリオリな綜合的命題の可能性をいまさらここで究明する必要はない(p.54)

究明するべきなのは「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」である(p.54)

「ア・プリオリで純粋なかかる総合的認識〔純粋数学および純粋自然科学〕が実際に存在していないとしたら、この課題そのものをまったく不可能と思うに違い ない。実際にデーヴィド・ヒュームについては、その通りであった、もっとも彼はこの問題を、いま我々がここでしているほど一般的には考えたわけではなかっ たが、しかしこの問題に対する解答が形而上学全体にとって決定的になるというのであれば、その解答はやはりここでしているように一般的な形で行われるし、 また行われねばならない。というのは、この明敏な哲学者がこう言っているからである、――一個の概念が私に与えられている、私はこの概念のそとに出て、こ れをこの概念に含まれていない他の概念と連結することができる、しかもその場合に、この第二の概念はあたかも必然的に第一の概念に属するものであるかのよ うに連結し得るということがどうして可能なのか、このような連結を我々に与えるのは経験だけである(彼は、この課題の解決の困難は、取りも直さず解決の不 可能にほかならないと解したために、このように推論したのである)、そしてこの場合のいわゆる必然性、或いは――すべてのけっきょく同じことになるが、、 ――必然的と見なされたと見なされたア・プリオリな認識なるものは、すべて長いあいだの習慣によって何か或ることを真と認め、このような主観的必然性を客 観的必然性と見なすようになったのである、と。」(p.58)

「我々はこう言ってよい、――すべての形而上学に必然的に先立つところの先験的哲学[transcendental philosophy; Transzendentalphilosophie]の全容は、私がここに提出した問題の完璧な解決――換言すれば、細大もらさず体系的に整頓された解決にほかならない[…]」(p.61)

ここでこの本の道筋が示される。つまり、先験的主要問題の4件を順次検討していく(p.63):

①純粋数学はどうして可能か

②純粋自然科学はどうして可能か

③形而上学一般はどうして可能か

④学としての形而上学はどうして可能か

 

(別紙)

「7+5=12」「直線は2点間の最短線である」は、なぜア・プリオリな綜合命題か?

これは意外と理解が難しい。20世紀になってもこの問題を検討する論文がいくつもある。

1) 以下はJames Van Cleve Problems from Kant (OUP, 1999: p.22)より

7 + 5 = m – n

を考える。この時mとnは人間では想像もできないくらい大きな値であるとする。このようなmとnの組み合わせは無数に存在するはずだが、それらは5と7の 概念をいくら分析しても出てこない。つまりmとnにたどり着くためには主語の概念(5、7)の外側に出ていかなければならない。したがってこれは分析的命題ではなく、綜合的命題である。

2) 1 + 1 = 2

ここでも主語の概念「1」をいくら調べても2は出てこない。しかし「+」も主語ではないのか?これは加えるという概念ではないのか?それともカントが言う ように単なる「二数を一個の数に合一する(the union of two numbers into one)」(p.38)という意味しか含んでいないと考えるべきなのか?

そもそもカントが言っている、ある命題が分析的命題であるための条件、すなわち「主語の概念を分析すれば述語の概念に到達できること」とはどういうことか?

カントの例「黄金は黄色の金属である」は、なぜ分析的命題なのか?これについてはカントの生前に既に異議が唱えられた(Cleve, p.19)つまり主語の概念に述語の属性が既に含まれているかどうかは、主語の定義の仕方次第だ、という批判である。ある人は黄金の定義として、「黄色い金属」以外の情報も含めているかもしれない。そういう人にとっては、分析的な判断となる命題の数は多くなるかもしれない。したがってある命題が分析的かどうかは、この基準では判定できないはずである。

これに対しては、主語概念の定義が異なる場合は、それはもはや同じ命題とは言えないから、命題が分析的かどうかという分類は依然として可能である、という風に(カント擁護の立場によって)反論できる。

さらにカントの提出するもう一つの判断基準は、「その命題の否定が常に形式的な矛盾となる場合、その命題は分析的である」というもの。

例:独身者は未婚である、の否定「独身者は未婚ではない」は、形式的に矛盾。だからこの命題は分析的。

では上記の算術命題はどうか?

7 + 5 = 12 の否定「7 + 5 ≠ 12」は形式的に矛盾しているか?形式的というのは、論理的な演繹と、定義上の言い換えのみが許されることを言う。