フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)

第2章「魔術的物語」

〈1〉ジャンル批評における二つの傾向と、それらの弁証法的歴史化に向けて

「現代のジャンル批評の実践をみていると、一見両立しないはずの二つの傾向があるのに気づく。そのひとつの傾向を意味論的傾向、もうひとつを統語論的あるいは構造的傾向と呼ぶことにしよう」p187

「[意味論的研究方法は]なにか仮想の実体を再構築することで、ジャンルの本質や意味を記述しようとする。ここでいう仮想の実体とは、(略)個々のテクス トの背後にある一般化された実存的経験のようなものである。(略)フライの仕事のなかでは、ジャンルは必然的に《様式》(モード)として把握されることに なる」pp187-188

「統語論的な研究方法は、意味論的な研究方法を直感的・印象的であるとして非難し、たとえば喜劇のようなジャンルのメカニズムと構造を分析して、その法則と限界を確定することをもくろむ」p188

「このように二つの研究方法はたんに相互に反転しただけのものではなく、基本的に通訳不可能である」p188

「このような二律背反の原因は言語の本質そのものに求められそうである。言語は比すべきものがない両義性をもっていて、主体であると同時に客体、フンボル トの術語であれば《エネルゲイア》と同時に《エルゴン》、志向的、意図的な意味をもつと同時に分節化された体系でもあって、概念的に統一できない二つの別 箇の不連続な次元(または「研究対象」)を必然的に提起する。こうした対をなす観念を生みだす実体、すなわち言語を私たちはどういうわけか、統一された現 象として想定する。(略)時期尚早のうちに言語を統一的なものと(略)考えようとする試みは、いつも言語を物象化してしまう」p189

「ジャンルを、固定形式としてみても様式としてみてもかまわない文学的ディスクールとして定義し、両方のパースペクティブからの研究に対して、随意にひらかれているべきものとしておく」p190

→言語の両義性から、以下ではその両方のパースペクティブに対して開かれた批評を目指す。

 

「上述の二通りの解釈方法を弁証法的に再考することで、それらの解釈方法によってなされた発見を歴史的に捉え、次はそれによって、ジャンルとしてのロマン スのイデオロギー的意義と歴史的運命を理解し、さらにはそれを超えて、ジャンルの文学史そのものの弁証法的効用についても、なにがしかの感触を得ようとい うのである」p190

→ジャンル批評を歴史化し、そこに含まれるイデオロギーを読解し、そしてジャンルの文学史の弁証法的効用についての探求を進める。

 

「二つの「方法」を哲学的に選択しているようにみえても、それは実は、言語のなかの客観的な二律背反があらわれたものにすぎないのだ」p191

→前述の二つの方法は客観的な言語の性質に由来する二律背反である

 

「現象学であれ記号論であれ、すべてを普遍化しようとする研究方法はいずれも、否定的なるもの、 欠如、矛盾、抑圧、《言われざるもの》、《思考されざるもの》などを除外するために、戦略的にその方法の視野(パースペクティブ)に枠をはめ、それによっ て、みずからの矛盾を隠し、歴史性を抑圧してしまう。除外されたものを回復するためには、基本的な問題機制を大胆でパラドクシカルな弁証法によって再構築 せねばならない」p191

→除外され、抑圧されたものを回復するためにテクストを歴史化したうえでの弁証法が必要とされる