ジェルジ・ルカーチ[著] 原田義人・佐々木基一[訳] 『小説の理論』、ちくま学芸文庫、1994年

第一章 全体文化の完結性または問題性と関連する大叙事文学の形式

一 完結した諸文化(ホメロス、ギリシャ芸術)

「生の形式としての哲学、また文学の形式を決定し、それに内容を与えるものとしての哲学は、つねに、内部と外部との分裂の徴候であり、自我と世界との本質の違和、心情と行為との不一致のである。」(p.10)

「叙事詩において、人間と行為とが、明朗で厳格な輪郭のうちに表現されるのは、[…]それは、さまざまな行為が心情の奥深い要求に、すなわち偉大さとか、成熟とか、完全さとかに、このようによく適合しているためなのである。」(p.11)

「ギリシャ人は答えだけを知っていて、問いを知らず、[…]解決だけを知っていて、混沌を知らない。」(p.12)

「われわれの世界は限りなく大きくなり、どの片 隅もギリシャ人の世界にくらべてはるかに多くの贈物とはるかに多くの危険とを含んでいるが、この豊かさは、ギリシャ人の生のささえとなっている積極的な意 味、すなわち総体性を止揚する。なぜなら、あらゆる個々の現象を形成して行く第一要件としての総体性は、完結した何ものかが完成されてあるということを意 味するからである。」(pp.18-19)

「われわれに割り当てられた世界の幻想的な現実 性、すなわち芸術は、こうして自立的なものになった。それはもはや模像ではない。なぜなら、いっさいの原型が消え失せてしまったからである。それはひとつ の創作された総体性である。なぜなら、形而上的領域のおのずからなる統一は、永遠に引き裂かれてしまったからである。」(pp.23-24)

「ジョットォとダンテにおいて、ヴォルフラムとピサノにおいて、トマス・アクイナスと聖フランチェスコとにおいて、世界はふたたびかな、一望に見渡すことのできるものとなり、総体性となった。」(p.25)

 

二 諸形式の歴史哲学の問題(芸術形式・芸術ジャンルにまつわる歴史哲学上の制約、生と本質との関係、生への接近か抽象化か、ギリシャのドラマ→悲劇→叙事詩、叙事文学、戯曲文学、大叙事文学)

「しかし、いまここで問題にしているジャンルを作り出す原理は、志向の変化ということを少しも要求しない。むしろ、それは、古い目標とは本質的に異なった新しい目標をめざす同一の志向を必要とするのである。」(p.29)

「[ギリシャ以降の時代になると]諸ジャンルは、もはやその所在をはっきりとはつかみえない目標をめざす真の探究の、あるいはいいかげんな探究のとして、解きほぐしがたくもつれあい、たがいに交錯しあっている。」(p.30)

「大叙事文学は生の外延的な総体性を形象化し、ドラマは本質性の内包的な総体性を形象化する。」(p.39)

 

三 叙事詩と小説(叙事詩及び小説の定義、生にとっての陳腐さと重さ、軽さ、物語詩を叙事詩へと変えているダンテの詩句、犯罪・狂気は先験的な無故郷性を客観化したものである、慣習と心情、第二の自然=慣習、)

「は、生の外延的な総体性がもはやまごうかたなき明瞭さをもって与えられてはいない時代の叙事詩である。それは意味の生内在が問題化してしまった時代、にもかかわらず、総体性への志向をもつ時代の叙事詩である。」(p.58)

「ただ散文のみが、苦悩と月桂冠、闘争と勝利、 手段と霊力とを強力に包括することができる。散文のもつ無拘束な柔軟性とその無韻の結合のみが、束縛と自由とを、与えられた重さと、見いだされた意味に よっていまや内在的に輝き出した世界のたたかいとられた軽さとを、同等の力をもって扱うことができるのである。」(p.61)

「叙事詩は、それ自体において完結した生の総体性を形象化し、小説は、形象化しながら、生の隠されている総体性を発見し、築き上げるべく探究する。」(p.64)

「の形式を規定する基本の志向は、小説の主人公 たちの真理として客観化される。すなわち、小説の主人公たちは探究する人間たちである。探究するという単純な事実は、いかなる目標も道も与えられてはいな い、ということをあらわしている。[…]別の表現を用いれば、それは犯罪か狂気かでありうる。[…]と悲劇とはこの意味において、犯罪とか狂気とかいうも のをまったく知らない。」(pp.64-65)

「もし或る形式において、不条理の頂点が、[…]容認されねばならないとすれば、そのような形式においては、[…]明確な目標の消滅、生全体のいかんともしがたい無方向性が、構造の基礎として、[…]あらゆる形象と事件との基底にすえられなければならないのである。」(pp.66-67)

「いかなる目標も直接に与えられていない場合に は、心情が人間の形をとるにさいして、人間のあいだで行なうその活動の舞台および基盤として見出すさまざまな形態は、超個人的な、当為としての必然性のな かに、明白な根をもつことができない。[…]それらは慣習の世界を形づくる。そして、その世界の万能の力を奪いとることができるのは、心情のもっとも奥深 い力だけである。」(p.67)

「このような第二の自然は、第一の自然のように、沈黙してはいず、明白でもなく、意味から疎遠でもない。それは硬直した、疎遠となった、内面性をもはや呼び覚すことのない意味の複合体である。」(p.70)

「また、共同体とはひとつの有機的な―それゆ え、それ自体意味にみちた―具体的な総体性である。したがって、ひとつの叙事詩の冒険群はつねに全体の部分として存在し、けっして間然するところなく完結 してはいない。それは内的に無限な生の、充実したひとつの生体であって、この生体は同様のあるいは類似の生体を、兄弟ないし隣人としてもっている。」(p.76)

「ダンテは、主人公のきわだって高い社会的地位とか、共同体をもともに規定している主人公の運命とかを書く必要のなかった唯一の詩人である。なぜなら、かれの主人公の体験は、人間の運命一般の象徴的な統一体だからである。」(p.78)

 

四 小説の内的形式(抽象的な小説の基本性格、形而上的に決定されるところの形式論、生の不協和、小説の過程的性格、イロニー、小説の外的形式、再びダンテ)

「小説の総体性はただ抽象的にのみ体系化されう るものであり、したがって、小説において可能な体系もまた、―それは有機性が完全に消滅した後における、完結した総体性のただひとつ可能な形式であるが― 抽象化された概念の体系でありうるのみであって、そのためその直接性においては、美的形象化の問題とならないのである。[…]このように抽象的な小説の基 本性格から生じる危険は、すでに知られている通り、抒情的なもの、あるいは劇的なものへの超越であり、あるいは、総体性を牧歌的なものへと狭めることであ り、あるいは、ついにたんなる娯楽読物の水準にまで落下することである。この危険はただ、世界の、完結せぬもの、もろくこわれやすいもの、および自己を超 えて行こうとするものを、意識的かつ徹底的に、究極の現実としてすえることによってのみ、防止される。」(pp.79-80)

「小説にあっては、倫理、つまり志向は、どのよ うな細部の形象のうちにも見いだされる。したがって、倫理はそのもっとも具体的な内容性において、詩文学そのものの有力な構成要素なのである。だから小説 は、他のジャンルのように、完全に仕上げられた形式のうちに安らかに存在しているものとちがって、生成の途上にあるもの、つまりひとつの過程として現われ るのである。」(p.83)

「小説においては、この手練とか趣味とかいうものが、大きな本質規定的な意義をかちえるのである。」(p.85)

「主観性の自己認識、つまりその自己止揚は、小説の最初の理論家であった初期浪漫派の美学者たちによって、イロニーと呼ばれた。それは、小説形式の形式的な構成要素として、規範的に詩的な主観が内面性としての主観性へと内部において分裂していることを意味する。」(p.86)

「小説の外的形式は、本質的に伝記的である。生 がつねにそれからている概念体系と、内在的にユートピア的な感性という安らぎにはけっして到達することのできない生複合体とのあいだを揺れ動くことが客観 化されるのは、ただ努力の末に獲得された伝記の有機性においてのみである。」(p.90)

「伝記的な形式においては、実現されぬ、またその孤立性によってとうてい実現不可能な二つの生活圏の均衡から、新しい、独自な、それ自体において―逆説的にではあるが―完成した、内在的に意味にみちたひとつの生が生まれるのである。それは、問題的な個人の生である。」(pp.91-92)

「それら[外界の部分および全体]がひとつの生 を獲得するのは、それらが、外界のなかで道に迷った人間の体験された内面性に、あるいは表現する詩人の主観性の観照し創造する眼光に結びつけられる場合だ けである。すなわち、それらが気分あるいは反省の対象となる場合だけである。」(p.94)

「小説はそれ自体本質的な生の流れのうちに、そ の叙事詩的な総体性をあますところなく展開させようとする傾向をもっている。生の発端と終末とがこのように人間の生涯の発端と終末とに一致しないというこ とは、この伝記的形式がさまざまな理念と結びついた性質をもつものであることを示している。」(p.98)

 

五 小説の歴史哲学的な制約性と歴史哲学的な意味(イロニー、小説は成熟した大人の形式である、デーモン、心情、ゲーテとシラー、詩人との比較、)

「この反省しなければならぬということが、真に 偉大な小説のすべてがもつ、もっとも深い憂鬱なのである。詩人の素朴さ―これは純粋な思索のもつ本質的に非芸術的な性質を、肯定的な表現をもっていい表わ したものにすぎない―は、そこでは暴力的に反対物のほうにねじ曲げられる。」(p.103)

「小説は神に見捨てられた世界の叙事詩である。小説の主人公の心理はデモーニッシュであり、小説の客観性とは、意味はけっして完全には現実に浸透しえないが、現実は意味なくしては本質を欠いた無へと崩れさるだろう、という成熟した大人の洞察である。」(p.108)

 

第二章 小説形式の類型学試論

一 抽象的理想主義 (セルヴァンテス『ドン・キホーテ』論、ダンテ『神曲』との比較、バルザック、ポントピダン)

「世界が神から見捨てられた、ということは、心情と仕事、内面性と冒険とのあいだの不一致となって現われ、人間の努力が、先験的に何ものにも属していないということのうちに現われる。」(p.121)

・心情が「その行為の舞台および基盤として課せられている外部世界よりも」(p.121)広い場合→「戦闘的に外へ出て行く、問題化した個人のデモーニッシュな性格」がはっきり現われる。同時に「内面的な問題性はそれほどくっきりとは現われない。」(p.121)

・「抽象的理想主義のデモニー」(pp.121-122) の志向…「真正な不動の信念をもって、理念の当為からその必然的な実在を導き出し、現実がこのな要求をみたさないのは、現実が邪悪なによって魔法をかけら れているためだとみなし、その魔法を解く呪文をみつけるか、あるいはさまざまな魔力と勇敢にたたかってそれを征服するかするならば、魔法を解いて、現実を 救い出すことができると考えるのである。」(p.122)

「このような主人公のタイプの構造を規定する問題性は、内面的な問題性がまったく欠如している点にあり、またこの欠如の結果として、超越的な空間感情、すなわちさまざまな距離を現実として体験する能力がまったく欠如している点にある。」(p.122)

「[…]ただ世界の歪んだ模像が与えられるだけ であるがゆえに、心情にたいする反作用は、心情とはまったく異質的な諸源泉からやってくることになる。したがって、行為と反抗とは、客観の外延をも質をも 共通にしないし、客観の現実性をも属性をも共通にしない。それゆえ、両者の関係はけっして真の闘争とはなりえないで、ただ滑稽なすれちがいか、あるいはそ れに劣らず滑稽な、相互の誤解による衝突になるだけである。」(pp.123-124)

「かれがその行為の舞台として選ばねばならぬ世 界は、理念には無縁に生命の花を咲かせている有機性と、かれの心情のうちで純粋に超越的な生をいとなんでいる当の理念が凝固した慣習との、奇妙ななのであ る。[…]かれが眼の前に見いだす世界は、たんに生にみちあふれているばかりでなく、ほかならぬあの、かれのうちで唯一の本質的なものとして生命をもつ生 の仮象にもみちあふれているのである。しかし、世界がこのようにもつれたものであるところから、かれがそれに向かって近づいて行くやいなや、相手とかみあ わないで独り相撲をとるかれの滑稽な行動も激しいものになってくる。理念の仮象は、自らのうちに凝り固まった理想の気ちがいじみた顔の前に、雲散霧消して しまい、存在している世界の真の本質、すなわち、自力で生きている、理念を欠いた有機性が、それに約束された全的支配者の地位を占めるにいたる。」(p.126)

「騎士道小説は、或る形式の存立を保証する先験的な諸条件が、すでに歴史哲学的な弁証法によって死を宣告されたのちまでも、純粋に形式上の理由から、その形式を保持し、継続しようとしたところの、あら ゆる叙事詩と同じ運命をたどった。それは超越的な存在のうちにおけるその根を失ってしまった。そしてもはや何ものをも内在化させる必要のなくなった諸形式 は、退化し、抽象的になるほかはなかった。」(pp.128-129)

「セルヴァンテスは最後の、偉大な、絶望的神秘 主義の時期に生きている。[…]そして、敬虔なキリスト教徒であり、素朴で忠誠な愛国者であるセルヴァンテスは、このデモーニッシュな問題性のもっとも深 い本質を、文学的にきわめて的確に表現したのである。それは、超越的な故郷への道がもはやたどれなくなると、もっとも純粋な英雄精神は戯画となり、もっと も堅固な信仰は狂気とならざるをえないということであり、もっとも真実で、もっとも英雄的な主観的確信には、いかなる現実も照応しないということである。」(pp.133-134)

「世界の散文化がますますひどくなり、まだ形を なさぬの、あらゆる内面性にたいする漠然とした反抗に、だんだんと闘いの場を譲り渡して行くあの能動的なデーモンが、遠くに立ち去るとともに、心情をデ モーニッシュにすることにとっては、次のようなジレンマが生ずる。すなわち、「生」という複合体にたいするいっさいの関係をたち切ってしまうか、それと も、真の理念界に直接根を下ろすことをやめてしまうか、というジレンマである。 第一の道を歩んだのは、ドイツ理想主義の偉大なドラマであった。抽象的理 想主義は、たといまだきわめて不照応な関係であろうと、生にたいしてもっていたいっさいの関係を失ってしまったのである。」(p.135)

 

二 幻滅の浪漫主義

「十九世紀の小説にとっては、心情と現実とのど うにもならぬ不照応な関係の、もうひとつのタイプが重要になった。すなわち、心情のほうが、生が心情に提供することのできる運命よりも、はるかに広く、は るかに遠くまでとどく性質をもっているということから生じてくる不照応である。[…]内的現実は外部の現実と競いあうし、豊かな、とした独自の生をももっ ている。この生が自分こそ唯一無二の真のリアリティであり、世界の真髄であると心から思いこんで、その考えを実地に実現しようとして失敗する、その挫折す る試みが、詩の対象になるのである。」(pp.149-150)

「抽象的理想主義の心的構造にあっては、何もの にも妨げられず外部に向かう過度の能動性が顕著な特色をなしていたとすれば、ここにはむしろ、受動性への傾向がいちじるしい。すなわち、外部との葛藤や闘 争を受けいれるよりも、むしろそれを回避しようとする傾向、心情に関することは、すべて純粋に心情のうちにおいて片づけようとする傾向である。」(p.150)

「[…]このリリシズムをささえ、はぐくんでい るのは、幻滅のロマンティシズムの気分である。人生に対立する当為的存在の、あまりに烈しい、あまりに一途な渇望と、この憧憬のむなしさにたいする絶望的 な洞察。すなわち、はじめから、やましい良心と敗北の確信とを抱いているユートピア的夢想である。」(p.157)

 

三 綜合の試みとしての『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』(共同体の観点での「幻滅」タイプとの比較、ノヴァーリスとの比較)

「ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』は、美学的にも歴史哲学的にも、この二つのタイプの形象化の中間に立っている。その主題は、心に深く根を下ろした理想に導かれる問題的な個人と、具体的な社会的現実との和解である。」(p.183)

「[…]このような内面性は、一方においては、 かなり広い包容力をもつ、したがって温和で柔軟な、具体的になった理想主義であり、他方においては、行動し、現実に働きかけ、静観的にではなく生き抜こう とする心情の拡大である。そこでこの内面性は理想主義とロマンティシズムとの中間の地点に位置し、自らのうちに両者の綜合と超克とをめざしながらも、妥協 として両者から拒否されるのである。」(p.184)

「『ウィルヘルム・マイスター』においては、共 通の目標をめざす努力は実を結びうるものであるということが、このような相対性の世界観的基礎をなしているのである。幻滅小説にあっては、生の描く曲線の 相交わらぬ平行性が人間の孤独をいっそう強めるばかりであったのに反し、ここでは、個々の人物たちは、この運命の共同体によってたがいに深く結ばれている のである。[…]この形象化のタイプの基本的な志向としてのヒューマニティは、行動性と静観とのあいだの均衡、世界に向かって積極的に働きかけようとする 意欲と、世界を受けいれる能力とのあいだの均衡を要求する。」(pp.187-188)

「浪漫的な現実形象化の、こうしたイローニッ シュなのうちには、この小説形式のもうひとつの大きな危険がひそんでいる。[…]この危険とは現実を完全に現実の彼岸にある領域にまで浪漫的に夢幻化する 危険であり、あるいはまた、本来の芸術的な危険をいっそうはっきりと示すものであるが、小説の形象化する形式がもはや手の届かないような、完全に問題から 解放された、問題の彼岸にある領域にまで現実を浪漫的に夢幻化する危険である。」(p.195)

「現実の浪漫的な夢幻化は、それらのものを、ただ詩の抒情的な外見をもってい包むだけである。」(p.197)

 

四 トルストイと生の社会的諸形式からの超脱(自然と文化、死の描写、歴史哲学的な占いの課題としてのドストエフスキー)

「十九世紀ロシア文学にその志向および形象化の 基盤として与えられていた、有機的=自然的な原状態への接近をまってはじめて、たんに対立的なものでなく、創造的な論争が可能になってくる。本質において は「ヨーロッパ的」な幻滅の浪漫主義者であったツルゲーネフの後に、トルストイが、もっともはなはだしく叙事詩へと超越して行く小説のこうした形式を作り あげた。トルストイの志向は、偉大な、真に叙事詩的なものであって、あらゆる小説形式から遠くはなれているが、そのトルストイが追求しているのはひとつの 生である。この生は、同じ感じ方をする、単純で、自然と深く結びついた人間たちの共同体の上に築かれた生であり、自然の大きなリズムと溶けあい、生誕と死 という自然ののうちを動き、自然的でない諸形式のもつなもの、分離するもの、解体するもの、凝固させるものをすべて自らのうちから排除する。」(p.206)

「[…]その世界はただ叙事詩的な形象化の一要 素にとどまっていて、叙事詩的な現実そのものではないのである。なぜなら、昔の叙事詩の自然的=有機的な世界は、なにはともあれひとつの文化であり、それ の特殊な質がそれの有機的な性格となっていたのであるが、トルストイによって理想として立てられ、また存在するものとして体験された自然は、そのもっとも 深い本質において、自然として考えられたものであり、そういうものとして文化に対置されているからである。そのような対比が必然的であるということが、ト ルストイの小説の解決しがたい問題性なのである。」(pp.207-208)

「この二つの体験群[精神的なものの消去、慣習的な世界の倦怠]にたいして、自然の本質体験が対立している。きわめて稀な偉大な瞬間に――大ていそれは死の瞬間であるが―、人間にひとつの現実がひらけてくる。」(p.213)

 

「これら三つの現実の層[死、生、慣習]に、ト ルストイの世界の三つの時間概念[慣習の世界の無時間性、トルストイ的な自然の大河、あの偉大な瞬間]が対応する。そして、それら三つのものを調和させる ことができないというところに、実に内容豊かな、内面の深みから形象化されたこれらの作品の、内的な問題性がもっとも強く露呈しているのである。」(p.215)