アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論 -時間と自由』第2章

第2章 意識的諸状態の多様性について―持続の観念

 

数的多様性と空間

一般に数は、単位の集合として…一と多の綜合として定義される。私が何かを数え上げているとき、何を行っているのだろうか。「私は、相継起するイメージを保持するとともに、他方では新たな諸単位の観念を喚起しつつ、諸イメージをこれらの単位の各々と併置するのでなければならない。」(91)この併置が行われるのは空間においてである。

われわれは意図せずして、数え上げにおいて持続の中に空間の概念を導き入れている。

数の観念には二通りある。ひとつは不可分の単位としての数、もうひとつは細分化されるものとしての数。後者において数は対象化される。「全面的かつ十全に 認識されるかに見えるものを主観的なものと呼び、たえず増大する多数の新たな印象によって、それらについて現に抱かれている観念が置換されうるような仕方 で認識されたものを客観的なものと呼ぶ」(98)ならば、後者は客観的な数の観念である。客観的な数こそが「空間の諸部分であり、精神が数を構築する際の 素材であり、精神が数をそこに位置づけるところの媒体なのである」(99)

数についての二つの多様性がある。物質的なものの多様性はこれは難なく空間的に把握される。視覚や触覚以外の表象においても、象徴によって媒介された継起 的な数え上げが存在するが、この時諸感覚は空間的に配置されている。しかし、その時二通りの仕方がある。鐘の音を聴くとき、「ある場合には、私はこれらの 継起的諸感覚の各々を保持し、それらを他の諸感覚と共に組織化して、私に既知の旋律や律動を想起させるようなある群を作り上げるのだが、他の場合には、私 はそれらの感覚を数えることを明白に意図する。」(101)

質と量、組織化と分断化、無意識と意識の対比がある。

「一方は直接的に数を形成するような物質的対象の多様性、他方は意識的諸事象の多様性」(102)である。

二つの物体の不加入性の観念は物理的というよりは論理的なものだが、これは任意の数が空間における併置という観念を内包していることを示す。「不可入性は数と同時に出現する」。

われわれが時間について考えている時、大抵それは「等質的媒体」のことを言っている。「この等質的媒体のうちで、われわれの意識的事象は配列され、空間におけるかのように併置され、判明な多様性を形成するに至る」(105)が、このような時間は真の持続からは区別されなくてはならない。真の持続は空間と関連性を持つのか?

 

空間と等質的なもの

2種類の空間概念を提示する。つまり延長は物体の諸性質のもつ性質であるか(この場合、空間は物体の諸性質から抽象されたものである)、それらの諸性質 (これらは本質的に非延長的)から独立して自足したものか(経験論か演繹論か)。後者の考え方はとくにカントの純粋理性批判において発展させられた。

経験論の立場を取るロッツェらは諸感覚をいかにして空間的に配置するかを問題にしたが、実は非外延的なものを空間的に把握するためには、カントが「ア・プ リオリな形式」と呼んだものに対応するような「精神の働き」を要する。これは「本質的に、空虚で等質的な媒体についての直観…空虚で等質的な媒体という概念の形成の内に存している」(110)。空間は「複数の同一的かつ同時的な諸感覚の区別をわれわれに許容するものである」ので、「質的差異化の原理とは別 の差異化の原理であ」る(110)。

ベルクソンはしかし等質的空間の発生と、延長の知覚を同一視しない。等質的空間はあくまで人間理性の働きによって得られるものであり、下等生物には存在していない。「動物にとっては、そうした規定や方向の各々が、そのニュアンス、それ固有の質を帯びて現れる」(112)。人間もそう。

等質的な空間は経験からの抽象によって得られるものではなく、むしろ抽象の規定に存在している(経験論の無効化)。

「述べるべきは、われわれが、一方では異質的な実在、感性的諸質の実在、他方では等質的な実在たる空間という二つの相異なる秩序の実在を認識していること」(113)。

その上で、あらゆる等質的な媒体は空間的に把握されてしまう。時間がそう。「しかし、意識的諸事象は、たとえそれらが相継起するものであっても、互いに浸 透し合っていて、それらのうちで最も単純なもののうちにさえ、魂の全体が反映されうる」(114)。あらためて時間が空間に還元されるのか問う必要があ る。

 

等質的時間と具体的持続

持続の二つの考え方。どんな混交からも自由なものと空間の観念が侵入しているもの。

「まったく純粋な持続とは、われわれの自我が黙々と生きるだけで、現在の状態と先行する諸状態とのあいだに分離を設けるのを差し控える場合に、われわれの意識的諸状態の継起がまとう形態である。」(115)このとき自我は現在・過去を点と点のようにではなく、旋律の諸音のように有機的に組織化している。

これに対し、空間に侵入された時間は継起を併置的に、「不可入的」に捉える。

「純然たる持続はまさに、融合し、相互に浸透し合い、明確な輪郭をもたず、互いに他を外在化しようとする傾向を持もたず、数とは何の類縁性ももたない、そのような質的諸変化の継起」(119)。

 

持続は計測可能か

純粋持続的に時間を把握したばあい、われわれは計測可能な量からは解放されている。振り子の等速的な運動によってもたらされる催眠効果は、質として現れた量によって作用する。

純粋な持続を表象することは困難である。それはわれわれだけが持続するわけではないことに起因するが、運動が計測可能な持続の触知可能な指標でもあることによって。ところで運動は計測可能か?

 

運動は計測可能か

なにが振り子のゆれをカウント可能なものにしているか。ゆれる振り子を見る自我を消去した場合、そこに残るのはただひとつのゆれのみ。持続は消える。他方、振り子とそのゆれを消去すると、残るのは数との連関をともなわない純粋な持続が残る。「われわれの自我のうちには相互外在性なき継起があり、自我の外 部には継起なき相互外在性がある」(124)。

両者は物理学者が「内方浸透現象」と呼ぶような仕方で交換される。この結果、生においても振り子による分割が生じてしまう。ここから「空間に類似した内的かつ等質的な持続」という観念が生じる。他方では、振り子のゆれはわれわれの意識によって配列されることになる。われわれの生は振り子のゆれによって計測可能なものとなり、他方振り子のゆれはわれわれの生によって併置されるものになる。空間と時間の凍結線としての同時性。

 

エレア派の錯誤

前節の続き。運動の概念は「見かけは等質的であるような持続の生きた象徴」(126)である。運動を等質的かつ分割可能=計測可能なものとするとき、そこ には空間概念が侵入している。しかし、運動の「移行」は観察者にとってのみ存在する「精神的綜合」である。踏破された空間を除外した純粋な運動はひとつの 質ないし強度である。

エレア派の詭弁:空間の分割可能性を運動に適用した。

 

持続と同時性

科学が時間と運動に働きかけるのは持続と動性を取り除いた場合だけ。科学は同時性によってのみ持続や動性を比較できる。この場合、速度が速くなることによる質的な変化は考慮に入れられない。

 

速度と同時性

速度は科学でどのように扱われているか。力学は等速運動においても不等速運動においても不動性だけを取り上げている。この不動性も結局は空間性に帰着する。

 

内的多様性

「意識状態の多様性は、その根源的な純粋性において考察されるならば、数を形成する判明な多様性とのあいだにいかなる類似も呈さない」(136-37) が、そこには「質的多様性」が存在する。質的多様性は量的多様性と異なり、「複数の」という表現を拒む「常識の言語には翻訳されえないもの」(138)である。しかし、量的多様性は質的多様性なくしては存在しない。

 

実在的持続

理性と言語使用によって覆い隠されているわれわれの自我の深層は、いわば夢のように「漠然とした本能」(142)によって動かされている。

 

自我の二つの様相

根底的自我を取り戻すためには分析の努力が必要である。われわれの知覚は二重化されている。「一方では、鮮明で明確だが非人格的な様相のもとに、他方では、錯雑としていて、限りなく移ろいやすく、表現し難い様相のもとに。」(144)

単純感覚はたえず移ろってゆくものである。「人間の魂のうちには、ほとんど進展しか存在しない」(147)。言語によってこれに名前を与えることは、それを固化し、「われわれの個体的意識が有する繊細で束の間の印象を破壊する。」

小説家は言語という不完全な方法を用いざるをえないにしても、こうした流動性を提示してくれる。

深層の自我においては論理的でない、合理的でない思考、感情が支配する。「二つの像が重なり合って、二人の別人を同時に呈示しているのに、二人の人物がひとりでしかないような実に奇妙な夢」(152-153)。

深層と表層の二つの自我が存在するが、これは二重人格を意味するわけではない。同じひとつの自我である。表層の自我は社会的生を可能にしてくれる。自由論へ。