テオドール・W・アドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)

第5章「オルダス・ハックスリーとユートピア」

【予備知識として】

ハックスリー『素晴らしい新世界』(Brave New World, 1932:以下、光文社古典新訳文庫を参照した)

「西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。」(光文社古典新訳文庫、裏表紙)

階級=アルファ、ベータ、デルタ、ガンマ、イプシロンなど

👤バーナード・マルクス:中央ロンドン孵化・条件付けセンター心理課職員(男)

👤レーニナ・クラウン:中央ロンドン孵化・条件付けセンターの保育員(女)

👤ムスタファ・モンド(閣下):西ヨーロッパ駐在の<統制官>(男)

👤ジョン:インディアン(ネイティブアメリカン?)の青年。シェイクスピアをすべて諳んじている。(男)

 

アメリカにおけるヨーロッパ知識人=「あらゆる面にわたって展開され、唯一それのみが承認されている商品関係の機械仕掛けのなかで、なすすべもない無力な知識人がこのショックに反応する行動様式は、狼狽(パニック)でしかない。」(p.138)

「ハックスリーの『すばらしい新世界』は、その狼狽の堆積である。あるいは、むしろその合理化である。退化した行動によって描かれるこの空想未来小説は、 そのショックを世界の非呪術化という原理から把握し、それを馬鹿げたものに高めて、人間の尊厳という理念を見透かされた非人間性からもぎ取ろうと試みてい る。」(p.138

139)

 

148ページ中ほどまではハクスリーの仕事にプラス評価を与えているが、これ以降ハクスリーにおける、ある種の「詰めの甘さ」を糾弾する。

 

快感

「彼が、性衝動の放棄という教育目的にあまりにもオーソドックスに固執するフロイトを完全に誤解して、未来世界に帰属させる幼稚な性生活を奨励する段にな ると、ハックスリーは産業時代に対して非人間化よりもむしろ道徳の退廃を抗議しようとする人々の側につく。幸福は結局ただ禁止命令が破られる限りにおいて のみ可能なのか、という底知れぬ弁証法的問題提起は、小説の主義によって肯定的なものに変質され、無効な禁止命令を存続させる言い訳に悪用される。」 (p.150)

「人々が快感を直視できず、反省のおかげで快感に身を委ねることができないというまさにその点に、ハックスリーが早まってその喪失を嘆く古色蒼然たる禁令 が働き続けている。もしもその禁令が破られ、快感が、乱交パーティーにおいてもそれを抑制している制度的なもののくびきを解かれるなら、<すばらしい新世 界>はたちまち死後硬直をきたし、解体してしまうだろう。」(p.150)

 

『ポリス的動物』(p.151)

「この国の最高の道徳原理は、すべての人がすべての人に属することであると言われている。」(p.150)

「<他のためのもの>でしかない人間、絶対的な「ポリス的動物」は、たしかにおのれの自我を失ってはいる。しかし、旧世界と同じく<すばらしい新世界>を まとめている自己保存の呪縛をも免れている。そういう純粋な代替可能性は支配の核心を打ち壊し、自由を約束するものだと言えよう。」(p.151)

 

人間性

レニーナが野蛮人ジョンを因襲的な乱交ルールに従って誘惑する場面=ジョンはその誘惑を拒絶する。

「レニーナの人工的な優美さとセロファンのような恥知らずは、彼女に割り当てられた非性愛的効果をもたらすどころか、むしろ非常に魅惑的な効果を生み、憤 激した文化的野蛮人すらも小説の最後ではそれに降伏する。もし彼女が<すばらしい新世界>の似姿(イマゴー)だとしたら、この国から恐怖はなくなるだろ う。[…]因襲的なものと自然との軋轢は消滅し、それとともに因襲の不法をなす暴力も消滅する。[…]これでは、その対立物と同様に、因襲の概念そのもの が無効になるにちがいない。こういう全面的な社会的媒介によって、いわば外から内に向かって、第二の直接性である「人間性」が産み出されることはあろう。 […]しかしハックスリーは、生きた人間と石化した諸関係との葛藤をテーマにする長編小説の伝統全体と軌を一にして、人間性と物象化を頑なに対立させてい る。彼がヒューマンな約束を捉え損なうのは、人間性は物象化への敵対とともに物象化そのものをも自己の内に含むということを忘れているからである。」 (p.152

153)

 

幸福/欲求

「『野蛮人』が世界管理官モンドとの決定的な対話において、『あなたに必要なのは変革のための涙を伴うあるものだ』と宣言するとき、故意に生意気そうに描 かれる苦しみの高ぶりは、単に頭のおかしい個人主義者を特徴づけるものではない。それは、もっぱら苦しみの力によって後世の人々の救済を約束するキリスト 教的形而上学を呼び出すものである。けれども、この小説の、ともあれ底の底まで啓蒙された意識の中には、その形而上学はもはや表に現れないから、苦しみの 礼賛は耽美主義の気取りという不合理な自己目的と化す。[…]諦めた快楽主義的な世界管理官に向かって『野蛮人』が告げる『危険に生きよ』というニーチェ の言葉は、みずからも一個の世界管理官だった全体主義者ムッソリーニのスローガンとして、まさにうってつけである。」(p.155)

「ハックスリーの『永遠の哲学』は精神的原理と物質的原理の間の離存を再建するが、まさにこの分離、すなわち『幸福への信仰』をそれと定めることのできな い抽象的な『どこか彼方にあるゴール』によって代替することこそ、彼が我慢できないさまざまな徴候を持った物象化状態を強めるものであって、すなわち物質 的生産過程から引き裂かれた文化の中立化こそ、これである。」(p.157)

「ハックスリーは、欲求充足の領域に、その補正として、市民層が『より高級な領域』と呼ぶのを常とするあの領域によく似た別な領域を対立させる。その場 合、彼は不変な欲求の概念、いわばその生物学的概念から出発する。しかし、すべての人間的欲求はその具体的形態においては、歴史的に媒介されている。」 (p.159)

(ハックスリーによる、偽りの欲求に基づく主観的幸福の空しさの記述に関して)「彼[ハックスリー]にとって主観的幸福の空しさの証明は、伝統的文化の尺 度で言えば、幸福それ自体の空しさの証明と同じ意味のものである。そこでそれに代わって、旧来の宗教と哲学から蒸留された『幸福と客観的な最高善は相容れ ない』という存在論が登場する…」(p.162)

「ハックスリーが注意深く引いた『誤った円』〔循環論法〕に欠落があるのは、彼の想像力の構成に欠点があるのではなく、主観的には完全だが客観的には不合 理な幸福の観念のせいである。もし彼の単に主観的な幸福に対する批判が妥当だとしたら、単に客観的な、人間的要求から切り離され、実体化された幸福の理念 はそれに劣らずイデオロギーにとらわれている。この虚偽の根拠は、両者の分離が物象化されて硬化した二者択一となることにある。」(p.162

163)

「ここには、二組の要請がまるで既製品のように選択の前に置かれ、それらのうちに相対主義がほの見えている。真理への問いは『もしAでなければBの関係』に解消する。」(p.163)

「客観的意味と主観的幸福の生々しい二者択一、すなわち互いに他を排除するというテーゼは、この小説が全体として反動的である哲学的理由である。」(p.164)

「人間たちは、社会主義を受け入れるほどにはまだ成人していない。もし、もう働かなくてもいいとなったら、彼らはその余暇をどう使ったらいいか分からない だろう、というのである。だが、この手の知恵は、単にそれが使われることによって面目をつぶされるだけでなく、何らの認識内容ももたない。なぜなら、それ は『人間たち』を所与として物象化するとともに、また宙に浮いた決定機関としての観察者を神のように崇めるからである。(p.171)