中村元訳『ブッダの真理のことば、感興のことば」

真理のことば(ダンマパダ)

第一章 ひと組ずつ

七 この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――弱い樹木が風に倒されるように。

八 この世のものを不浄であると思いなして暮し、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は悪魔にうちひしがれない。――岩山が風にゆるがないように。

→仏教の厭世哲学

一九 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。――牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。

二〇 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して執著することの無い人は、修行者の部類に入る。

第二章 はげみ

二三 (道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎ[涅槃]に達する。これは無上の幸せである。

第三章 心

三九 心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることがない。

第四章 花にちなんで

五九 塵芥にも似た盲た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は知慧もて輝く。

第五章 愚かな人

六三 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。

→無知の知

六四 愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。

→初期仏教の選民主義

七五 一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな、孤独の境地にはげめ。

第六章 賢い人

八九 覚りのよすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。

第七章 真人

九七 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、――かれこそ実に最上の人である。

→生死の絆、すなわち輪廻転生の輪から逃れることが涅槃である

第八章 千という数にちなんで

一〇三 戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

一〇四、一〇五 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、――このような人の勝ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

一一五 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。

第九章 悪

一二七 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。

一二八 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所はない。

→仏教における原罪的概念、四苦のうちの死

第一〇章 暴力

一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

第一一章 老いること

一四七 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。

一四八 この容色は衰えはてた、病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。

一四九 秋に投げ捨てられた瓢箪のような、鳩の色のようなこの白い骨を見ては、なんの快さがあろうか?

一五〇 骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死とごまかしとがおさめられている。 

→四苦のうちの老・病・死

第一二章 自己

一六五 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

一六六 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。

→初期仏教の個人主義。初期仏教と大乗仏教との大きな違い。

第一三章 世の中

一七三 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。

一七四 この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から逃れた鳥のように、天に至る人は少ない。

一七八 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果)のほうがすぐれている。

第一四章 ブッダ

一七九 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も、かれの勝利には達し得ない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

第一五章 楽しみ

一九七 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮していこう。

二〇〇 われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。

二〇二 愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、憎悪にひとしい不運は存在しない。このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎ[涅槃]にまさる楽しみは存在しない。

二〇五 孤独の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過もなくなる、――真理の味をあじわいながら。

第一六章 愛するもの

二一〇 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

二一一 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。

二一八 ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、〈流れを上る者〉とよばれる。

第一七章 怒り

二二一 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は苦悩に追われることがない。

第一八章 汚れ

二三七 汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。

二三八 だから、自分のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。

→輪廻からの解脱により四苦の生と老から離れる

二五五 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、〈道の人〉ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。

→諸行無常という真理

第一九章 道を実践する人

二七一、二七二 わたくしは出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

第二〇章 道

二七三 もろもろの道のうちでは〈八つの部分よりなる正しい道〉が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは〈四つの句〉(=四諦)が最もすぐれてい る。もろもろの徳のうちでは〈情欲を離れること〉が最もすぐれている。人々のうちでは〈眼ある人〉(=ブッダ)が最もすぐれている。

二七七 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である。

二七八 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である。

二七九 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である。

→仏教思想の要。しかし二七九の諸法非我は訳注にあるように後に初期仏教とは異なる思想となっていった。

第二一章 さまざまなこと

三〇五 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。

第二二章 地獄

三一五 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過すな。時を空しく過ごした人々は地獄に堕ちて、苦しみ悩む。

第二三章 象

三三〇 愚かな者を道判れとするな。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。

→押井守「イノセンス」で引用された句

三三一 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。

三三二 世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。

三三三 老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。

→仏教における喜び、楽しさ

第二四章 愛執

三三四 恣のふるまいをする人には愛執が蔓草のようにはびこる。林のなかで猿が果実を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。

三三五 この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。――雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。

三三六 この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。――水の滴が蓮華から落ちるように。

三四八 前を捨てよ。後を捨てよ。中間を捨てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらにちて心が解脱していて、もはや生れと老いを受けることが無いであろう。

三五一 さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲でわずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。

→輪廻からの解脱

三五二 愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文脈とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。

三五三 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を〔師と〕呼ぼうか。

第二五章 修行僧

三六一 身について慎むのは善い。ことばについて慎むのは善い。心について慎むのは善い。あらゆることについて慎むのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎み、すべての苦しみから脱れる。

三六七 名称とかたちについて「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、――かれこそ〈修行僧〉とよばれる。

三八〇 実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。――商人が良い馬を調教するように。

第二六章 バラモン

三八三 バラモンよ。流れを断て。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。

三九三 螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。

→カースト制度批判。仏教の平等思想。

 

感興のことば(ウダーナヴァルガ)

第六章

一一 戒めと精神統一と明らかな知慧のある人は、これらをよく修養している。かれは究極の境地に安住し、汚れがなく、憂いがなく、迷いの生存を滅ぼし尽くしている。

→戒・定・慧が涅槃への道である。

第一六章 さまざまなこと

二四 苦しみはつねに因縁からおこる。そのことわりを観ないものだから、それによってひとは苦しみに縛られている。しかし、そのことを理解するならば、執著を捨て去る。けだし外の人々はその大きな激流を捨てないのである。

→仏教における因果応報論。

第一九章 馬

一四 実に自己は自分の主である。自己は自分の趣帰である。故に自分を制御せよ。――御者が良い馬を調練するように。

→自灯明の思想

第二六章 安らぎ(ニルヴァーナ)

一八 (1)苦しみと(2)苦しみの原因と(3)苦しみの止滅と(4)それに至る道とをさとった人は、一切の悪から離脱する。それが苦しみの終滅であると説かれる。

→四諦

三一 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えを味わう楽しみはすべての楽しみにまさり、忍耐の力はすべての力にまさり、妄執をすべてほろぼすことは(すべての)快楽にうち勝つ。

→後の大乗にも通じる思想

第三三章 バラモン

二六 彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、三界に執著していない人、――かれをわれらは〈バラモン〉と呼ぶ。

→過去(前世)、現在(現世)、未来(来世)を超えたところに涅槃がある。