キルケゴール『死に至る病』(ちくま学芸文庫版、枡田啓三郎訳)

第2編「絶望は罪である」

第2編では、第1編で論じられた神の前にある(高められた)自己意識の自己への/からの逃避として「罪」を捉える。

 

A 絶望は罪である

「罪とは、神の前で、あるいは神の観念をいだきながら、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは、絶望して自己自身であろうと欲することである。」(143)

重点は神の存在ないし観念が意識されていること。にもかかわらず、神のもとにへりくだることなく、自己へ/から逃避すること。そこで「罪」はある種の矛盾をはらむものとして、「弁証法的」(注10、46参照)である。

「存在するかわりに詩作し、空想によって善と真とにかかわるばかり」(144)の詩人の生はこの点で「罪」の類型となりうる。

しかし、筆者はこの「意識」のあり方を考察する為に、このような「心理学的」(=一般的、類型学的)考察を拒否する。問題は「だれに向かって語っているのか」(146)。つまり「個人」である。

 

第1章 自己意識の諸段階(神の前に、という規定)

まず、第1編で自己意識の高められる様が論じられたことが確認される。

「永遠的な自己をもっていることについての無知」→「永遠なものがひそんでいる自己をもっていることについての知識」およびその知識の内部での諸段階

これまでの「自己」は人間的な範疇にとどまる。

「しかし、自己は、それが神に面する自己であることによって、新しい性質と資格をうる」(147)つまり・・・

「罪を恐るべきものたらしめるのは、罪が神の前にあるということである」(148)。すなわち同じ行為・思想であっても「神の前で」なされる罪ほど重い罪 である(第1編における、高められた自己意識ほど絶望が深いという議論を想起)。そしてこの神は、意識に対して外的に存在するものではない。そうではなく 「本来の意味で人間の負い目を罪たらしめるものは、負い目ある者が現に神の前にあるという意識をもっていたということ」(149)である。つまり焦点はあ くまで「意識」にある。

「罪」の反対は「信仰」である。「自己が、自己自身であり、また自己自身であろうと欲するに当たって、神のうちに透明に基礎をおいている、ということ」(153)

 

付論 罪の定義がつまずきの可能性を蔵しているということ、つまづきについての一般的な注意

つまずきこそが思弁に対するキリスト教的なものの防壁である。人はなぜつまずくのか。

信仰につまずくのは「神の前にある単独の人間」(154)である。神の無限性と自己の卑小さの落差がつまずきを引き起こす。

神に呼びかけられた人間は、自らがそのような幸福に預かれると信じるだけの「謙虚な勇気」をもてない。しかしこれは「信仰」にとって本質的である。なぜなら・・・

「人間が情熱と想像力とをもつことが多ければ多いほど、したがって、或る意味で、つまり、可能性において(中略)、並はずれたもののもとに謙虚にぬかずいて、信仰することのできる状態に近づいていればいるほど、つまずきもそれだけ情熱的とな」(160)るので。

 

第2章 罪のソクラテス的定義

ソクラテス的罪を用いてキリスト教的罪の本質を明らかにする。

「罪は無知である」(ソクラテス的罪の定義)

問い・・・無知とは根源的な無知のことなのか、あとから生じたものか、云々

これらの問いにソクラテスは答えない。ソクラテス的定義に欠けているのは、「意志、反抗」である。つまり知っていつつ、それに反抗するという罪のあり方である。キリスト教が捉えた罪の本質がここにある。

アイロニーとしての意識:演説家が主張することと実際の行為が異なる場合におこる滑稽。

こうした「矛盾」はなぜ起こるか。

ソクラテス的説明:その人間は真に理解していなかったのだ

キリスト教的説明:知と行為は異なる。このギャップを埋めるのが「意志」である

キリスト教は「意志」を知と独立したものとして捉える。「人間は、正しいことを理解しているにもかかわらず、不正なことを行うのである。」(176-177)

だが、この罪深い意志が何処から来るのか。これは人間によって理解されることはなく、ただ神からの啓示によって知られるのである。

 

第3章 罪は消極的なものではなくて、積極的なものであるということ

キリスト教は概念的に把握できるものではなく、ただ「信じるか信じないか」にゆだねられている。罪は神の前にあるという意味で積極的であり、キリスト教は人間に理解できないしかたでそれを措定すると同時に、取り除く。

Aの付論 しかしそれでは、罪は或る意味できわめて稀なことになりはしないか?(寓意)

最高度の意識の高まりにおいて「罪」が起こる。誰しも罪を持つものであるが、真の「罪」を抱える人は稀である。

 

B 罪の継続

「罪」とは状態であり、その限りで継続し、増大していくものである。行為としての「罪」はたんに意志としての「罪」が現れたも のにすぎない。そして罪深い意志を持つ人間はいわばそれを自己のアイデンティティとするが故に、罪の継続を望む。それゆえここにも「意識の高まり」が見出 せる。以下、A、B、Cの順に、罪の度が高まってゆく。

 

A 自己の罪について絶望する罪

自己の罪に対して絶望する者は、悪との関係においてのみ自己を捉える。「このような行為を行った自分は、なんと罪深い人間なのか」。このとき、その意識は「罪深い自己」以外の他者をもたず、ひたすら自己を囲い込んでゆくばかりである。

罪について絶望する人はしばしば善き人であるとされるが、これは誤りである。というのもこうした人は「善人」としての自己意識をもっており、この意識が罪深い自己を嫌悪しているだけだからである。これもひとつの「自己愛」の形態にすぎない。

→上記の二例いずれもが「自己への逃避」ないし「自己からの逃避」として「罪」である。

 

B 罪の赦しに対して絶望する罪(つまずき)

赦す存在としてのキリストに対して疑いをもつ「罪」。人びとはこうした意識についても、それを深みのある人物と解しがちであるが、これも誤りである。

現代の不幸はあまりに神と人が近い位置におかれていることである。これはもともとキリスト教の教義に由来するが、群集という抽象的な存在が力を持つ現代では、よりそれが強まっている。しかし・・・

「罪」は単独者に降りかかってくるものである。「単独な人間は、概念以下のところにある、人は単独な人間を思惟することはできない」(220)(cf. ヘーゲルの絶対者の概念)

この単独者は思弁を行うこともない。「われ思う故にわれあり」というデカルトの定式を当てはめるなら(221ページ以下)、単独者は「何物でもない」、「人間の概念以下のところにある。」それはただ神によってのみ把握される存在である。

人びとはそれぞれ神の前に罪人であることで、切り離され、結び付けられる。審判もまたそれぞれの単独者に対してなされるものである。

 

C キリスト教を肯定式的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪

聖霊に反する罪。もっとも絶望の度がつよい罪である。これは神の慈悲ある申し出に対する一定の身構えである。

神は人間に無償の愛を与えるが、神はそれに対して人間が絶望を抱くことを妨げることが出来ない。だからこそキリストは「わたしにつまずかない者はさいわいである」(233)という。

つまずきの低い段階→キリストに関するすべてを未決定にしておく。

第二の形態→信仰し得ないことに絶えず悩み続ける。

第三の形態→キリスト教を積極的に否定する。

信仰の定義「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲するに際して、自己を置いた力のうちに透明に自己を基づける」(243)

 

考察

信仰ということについて

「自己が、自己自身であり、また自己自身であろうと欲するに当たって、神のうちに透明に基礎をおいている、ということ」

「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲するに際して、自己を置いた力のうちに透明に自己を基づける」

「自己自身であり」、「自己自身であろうと欲する」というのは矛盾ではないか?

「自己」とは「ある」ものなのか「求められる」ものなのか。

おそらく両方同時に成立するところに「信仰」というものの独特のあり方がある。たんに「あるがまま」であれば、それは「自己」ではない。しかし到達不可能な「目標」であれば、それも「自己」ではない。

自己とは関係そのものではなく、「関係それ自身に関係するという、その動き、あるいは、はたらきそのもの」(注18)。「自己が自己になる」

逆に絶望の2形態である「自己自身であろうとする絶望」と「自己自身であろうとしない絶望」は「本来的な自己」と「非本来的な自己」が「信仰」のように一体化せず、分裂している状態ではないか。